Wikipediaによると、
一之宮(一宮)とは「ある地域の中で最も社格の高いとされる神社」。
かつて日本は68の律制国で分けられていて、一国に一社ずつの一之宮がありました。
現在でも有名な神社は多く、関東では鹿島神宮(常陸国)や日光二荒山神社(下野国)、鶴岡八幡宮(相模国)なとが良く知られています。
私の住んでいる埼玉や東京から神奈川県まで及ぶ地域は、かつて「武蔵国」と呼ばれていました。
戦国時代には北条氏が治めていた国ですね。
現在、「武蔵国一之宮」を名乗っている神社は、東京の小野神社、埼玉の氷川神社、 氷川女体神社の三か所。
知名度や規模では氷川神社の方が大きく、私も氷川神社が「一之宮」だと思い込んでいたのですが、古い史料によると、一之宮は小野神社であり、氷川神社は三ノ宮であるというのが本来の序列なんだそうです。
室町時代から江戸時代にかけて、氷川神社の方が大きくなり、信徒も多く抱えるようになった事から、いつしか一之宮として扱われるようになったんだとか。
さて、本来の一之宮である小野神社。
この地域で最も格の高い神社という事なので、きっと都心の立派な場所に建っているんだろうな~と思っていたのですが、ネットで調べてみて分かった最寄り駅は、
京王線の聖蹟桜ケ丘。
東京23区でもない、郊外の多摩市です。
高校生から大学生の頃、この駅には演劇を観る為に何度も訪れていました。
駅の近くにあるアウラホールで、演劇集団キャラメルボックスの公演だけでも、十数回は観たような気がします。
その後、京王線の通る高尾で大学生活を過ごし、同じく京王線の調布が最初の就職先だったので、京王線を毎日使う日々が二十年以上も続きました。
ところが、不思議な事に、約10年前に職場が変わってからは、京王線に乗るのは一年に数回あるかどうか。
聖蹟桜ヶ丘を訪れたのも、もう十数年ぶりでしょうか。
そして、駅を離れて、街の中を歩くのは初めて。
駅前の栄えている場所を抜けると、周囲は完全に住宅街へと入ります。
私のように風体の怪しい余所者がウロウロしていると、誰かに通報されそうな雰囲気(笑)。
しかも、ちょうど学校からの下校時間にも重なっていたので、ちょっと足早に先を急ぎます。
駅を出発して10分ほどで、道の先に鳥居が見えてきました。
一応、小野神社に到着はしたのですが、こちらは南門。
やはり正面にあたる大鳥居から入った方が良いので、もう少しだけ歩いて神社の西側へ。
こちらが表参道。
こちらから改めて境内へと入っていきます。
表札には、しっかり「武蔵一之宮」と書かれていますね。
菊の紋がある大鳥居を潜り、神社の入り口にあたる随神門へ。
かなり細かい彫刻が施されていて、立派な門です。
龍や唐獅子、数々の霊獣たち。
そして、風神と雷神も。
そんな多くのものに守られている門を抜けると、正面に拝殿が見える境内です。
正直なところ、敷地は広いと思いますが、武蔵一之宮としては少し寂しい感じかも。
やはり、同じ一之宮とされている大宮氷川神社と比べてしまうと…。
平日は宮司さんも不在なので、御祈祷や御朱印などの用事がある時は前もっての連絡が必要。
祀られている主神は、開拓の神である天ノ下春命と、水を司る神である瀬織津姫。
神社の創建は安寧天皇18年(紀元前532)とされていますが、神社の歴史を伝える文献が少ない為、不明な点が多いそうです。
平安時代には源氏、室町時代以降には北条氏などの崇敬を受けていましたが、戦乱や水害などの影響で衰退。
江戸時代、徳川二代乗軍の秀忠によって再興され、武蔵一之宮として栄えました。
その名前から、古代~中世の名門だった小野氏との関係も深かったとされ、かつては小野氏のルーツにあたる天足彦国押人命を祀っていたという説もあります。
小野氏といえば、小野妹子や小野小町、小野道風、小野篁といった朝廷の有力者ばかりの家系。
その為、朝廷(貴族)が力を失い、幕府(武士)の時代になっていくのに合わせて、この神社の影響力も落ちていったのでは、という説があります。
朱塗りの拝殿の後ろには、
同じく朱塗りの本殿。
細かい彫刻の施された随神門と比べると、シンプルな外見ですね。
かつては「武蔵一之宮」として栄えた古社ですが、現在は肩書きだけ残り、「地域の神社」になっているのが実情でしょうか。
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こちらでは絵馬を入手できなかったので、他の方が奉納している絵馬を撮影させて頂きました。