過去のブログ記事を見返していたら、旅行の話を書き忘れていたもの、または途中まで書いて「下書き」状態のまま放置していたものが何件かありました。
現在、コロナウィルス関連で遠方への旅行を自粛中なので、その代わりに、過去の記事を書き直しています。
まずは、4年前(2016年)、岩手の盛岡城跡を訪れた話から。
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2016年4月。
岩手県の県庁所在地、盛岡。
うちの父親が生まれ育った故郷という事で、私も幼い頃から何度か訪れてきた街であり、人生で一番最初に訪れた「東北地方」でもあります。
江戸時代、この地を治めた盛岡藩南部氏の居城で、現在は「日本100名城」の一つに数えられている盛岡城。
その城跡がある公園には、幼い頃に行った事があるらしいのですが、残念な事に、全く記憶がありません…。
その為、今回が初めての訪城という気分で、盛岡駅から徒歩15分ほどの城跡公園を目指します。
前回、盛岡を訪れてから10年近くが経っているので、おぼろげに記憶している街並みとは全く違う景色が続きます。
大通りを抜けていった先に、岩手城址公園が見えてきました。
木々の隙間から覗き見える石垣。
土塁で形成されている事の多い東北地方の城の中で、これだけ立派な総石垣の城は珍しかったそうです。
もともと石垣を築く技術は西日本で発達したもので、そこから遠い東北では未発達。
そんな状況でも盛岡城の石垣が整っているのは、ここが東北地方を支配する拠点の一つとして、豊臣秀吉からの援助を受けた城だった事が大きいと思われます。
戦国時代から江戸時代にかけて、この地を治めた南部氏の本拠地だった盛岡城。
東北地方を統治する拠点として、豊臣秀吉、徳川家康の信頼を得た南部氏
は、江戸時代には盛岡藩の藩主として、城下町である盛岡の発展に貢献しました。
石垣の間を抜ける坂道を上がっていくと、
かつて「三ノ丸」と呼ばれていた場所に到着。
地元民らしき方々が行き交う広場を一周しながら、何枚か写真を撮っているうちに、頭上にある巨大な岩石を発見。
盛岡城を築城した際、地中から発掘されたとされる「烏帽子岩」。
ちょうど神社の神域だった為、吉兆のシンボルとして信仰され、南部盛岡藩の守り岩とされました。
この岩は、公園の外側からも良く目立っていて、
公園の前を走る道路からも、その大きな姿が拝めました。
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「三ノ丸」から「二ノ丸」へ。
綺麗に整った石垣に沿って、坂道を登っていきます。
「三ノ丸」よりも広い「二の丸」。
ここには、藩主が家臣や来訪者と会ったり、様々な行事や儀式を行う「表御殿」があり、藩を治める中枢である「藩庁」としての役割を果たしていました。
ここまで来ると、街を見下ろすほどの高さになります。
現在は周囲の建物も高いので、あまり高さを実感できませんが、江戸時代には城下町を一望できたんでしょうね。
公園の外側、街の方から二ノ丸を見ると、立派な高石垣が拝めるのですが、今回は観る事が出来ずに残念。
「二の丸」の奥に位置する「本丸」には、廊下橋を渡っていきます。
二の丸と本丸の間を隔てる空堀の上に架かる廊下橋。
かつては、屋根付きの立派なモノだったそうです。
下の空堀まで下りて、見上げてみると、
こんな感じ。
盛岡城を紹介する写真で、よく使われるアングルの一つですね。
せっかく下に下りてきたので、本丸の石垣の周りをプラプラと。
二の丸、三の丸に比べると、あまり面積の広くない本丸。
すぐに一周して、再び廊下橋の下に戻ってきました。
改めて二の丸まで戻り、橋を渡って本丸に入ります。
藩主や近親者の居住スペースである「奥屋敷」が置かれていた本丸。
他の城では「奥屋敷」と「表屋敷」を合わせた「本丸御殿」となっている事も多いのですが、ここは本丸部分が広くなかった為、表屋敷を二の丸に置いたそうです。
元々、ここには天守を築く計画もあったようですが、あまり華美な建物を建ててしまうと、江戸幕府に要らぬ疑いをかけられてしまう可能性があると考えて断念。
本丸の隅に三階櫓を建て、それを天守の代わりとしました。
その他にも、本丸御殿を囲む形で、多門櫓などが建てられた跡が残されています。
現在は何もない空き地になっている本丸ですが、中央には大きな石の台座が据えられています。
本来、この台座の上には、南部家42代当主である南部利祥氏の騎馬像がありました。
明治時代、日露戦争に従軍し、戦死した利祥氏の霊を慰めるために造られた像でしたが、昭和の大戦時に軍需資材として供出されてしまい、現在は台座のみが残されています。
銅像好きとしては、本丸の三階櫓は復元しなくていいので、その代わりに、騎馬像を復元してほしいですね(笑)。