「九州の小京都」と呼ばれる飫肥城の城下町。
 
昭和52年に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、江戸時代から変わらない区分をされた街のあちこちに、石垣や植え込み、古い門構えなどが多く残されています。
 
 
 
 
 
良い状態で残っている武家屋敷や商家も何件か残っており、各所の受付で購入出来る「通行手形」で色々と観て回る事が可能。
 
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しかし、今回の私は、残念ながら時間が足りない状況。

 

日南海岸沿いの国道が通行止めになっている関係で、この日の宿に向かうのも予定外の余計な時間が掛かってしまう為、飫肥の滞在時間も少なくなってしまいました。

 

せっかく通行手形を購入したのに、結局見られたのは、大手門の目の前にある「豫章館」だけ。

 

 

明治維新の「廃藩置県」によって、飫肥藩は飫肥県となりました。

最後の藩主だった伊東祐帰は、改めて飫肥県の知事に任命されると、明治2年、この「豫章館」へと移り住みました。

 

 

 

飫肥城下町の中では一番格式の高い武家屋敷で、保存状態も良好。

 

 

母屋の中には入る事が出来ませんが、外からも室内の様子は良く見渡せます。

 

 

 

 

 

南側の軒先から見渡せる庭園も、九州屈指の規模と美しさを誇ります。

 

 

 

 

日本庭園らしく切り整えられている木々の中には、いかにも南国らしい植物も。

 

 

 

他の地方の日本庭園では、こんな植物、まず見ないですよね…。

 

 

 

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帰りのバス停へと向かう途中、武家屋敷通りをブラブラ。

 

傾斜地に作られている街並みなので、屋敷の周りを石垣で取り囲んであり、そのおかげで大きく崩れる事なく残されているんだとか。

 

 

 

 

 

 

そんな通りの中にあるのが、

 

 

飫肥の出身者の中では一番有名と思われる小村寿太郎の生家です。

 

幕末、飫肥藩士の家に生まれた寿太郎は、明治34年、桂太郎内閣の外務大臣に就任。

日露戦争後のポーツマス条約締結や、日米通商航海条約の調印による関税自主権の回復などの功績を挙げました。

 

「生誕の地」としての石碑も立っています。

 

 

 

 

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