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高岡城の本丸跡に鎮座していた「前田利長公」の騎馬像。


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利長が生まれたのは、戦国時代真っ只中の西暦1563年。
織田信長に仕える前田利家の長男として生を受けました。
NHK大河ドラマで有名な「利家とまつ」の息子ですね。

 

 

ちなみに、「利家とまつ」では伊藤英明、「天地人」では尾上松也が演じていました。

 

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そういう目で見ると、確かに男前かも(笑)。



父・利家と共に織田家に仕え、当初は安土城に詰めていた利長ですが、20歳の時に父の領地だった越前国の一部を引き継ぎ、3万石の領主となります。


また、同じ年に信長の娘を妻に迎え、着実に織田家での地位を築いていきます。

 

 


 
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しかし、良い事もあれば、すぐに悪い事が訪れるのも人生。
翌年に、あの「本能寺の乱」が勃発して、主君である織田信長を失ってしまいます。


信長亡き後、羽柴秀吉と柴田勝家による後継者争いが起きると、前田利家・利長親子は、利家の上司である勝家の側に加担。


そして、1583年、利長22歳の年。
秀吉と勝家による後継者決定戦ともいえる「賤ヶ岳の戦い」が開戦します。


前田家にとって、相手方の羽柴秀吉は昔からの友人であり、共に織田家の家臣として共に戦ってきた戦友。


一方、柴田勝家は父・利家の直属の上司であり、色々と世話をしてくれた恩人。


どちらも裏切る訳にいかず、両陣営の板挟みになって苦悩した前田父子ですが、柴田軍の一員として、父子揃って参戦します。


しかし、戦いが本格化する前に撤退して、自分たちの領地に帰ってしまいました。


参戦した事で柴田勝家への義理を果たし、戦わずに撤退する事で秀吉への義理を果たす形になったのかもしれませんね。
 
 
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勝家の死後、実権を握った秀吉に従った前田父子は、能登国・加賀国を与えられ、金沢城を本拠地に定めます。


更に、秀吉と敵対する佐々成政との戦いで戦功を挙げた利長は、成政の領地だった越中国を与えられます。
 
 
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利長が38歳の年。
父・利家が隠居する事となり、前田家の家督を引き継ぐと共に、加賀国・越中国の領地も相続して、90万石の大名となります。


ここまでは良い事続きですが、またも「良い事の次には悪い事」が起きてしまいます(笑)。


前田家の家督を引き継いだのと同じ年に、主君である秀吉が死去。


更に、翌年、父の前田利家が死去。


利家の遺言に従い、豊臣家の五大老になった利長は、秀吉の息子である秀頼を補佐して豊臣家を守ろうとしますが、そんな利長に予想外の謀略が襲いかかります。


父・利家の遺言により、「3年間は自分の領地である金沢には戻らず、豊臣家を守れ」と言われていた利長ですが、同じ五大老の徳川家康に勧められ、金沢に帰ってしまいます。


ところが、金沢に帰った途端、「前田家が反乱を起こし、家康を殺そうとしている」という根も葉もない噂が流され、それに怒った家康軍が加賀国に攻め込む準備を始めます。
当然、これは前田家を潰したかった家康による自作自演という説が有力。


当初は家康軍と一戦交えてやろうと思っていた利長ですが、援軍を期待していた豊臣家から拒否されると、一気にトーンダウン。
家康側に何度も弁明の使者を送って許しを請うと共に、母(まつ)を人質として江戸に差し出して、ようやく家康と和睦しました。


少し弱腰で頼りないように思える利長の判断ですが、結果的には前田家を相続させ、後に「加賀百万石」と呼ばれる有力大名家となる事からも、この決断は間違っていなかったと言えます。


ちなみに、利長が金沢に帰った時には、豊臣五大老の残り3人(宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)も、家康によって自分達の領地に戻っていきました。
そして、豊臣家の近くにいるのが自分一人になった家康が、豊臣家に代わり、強い権力をもっていく事となる訳です。


さらに、五大老だった宇喜多・上杉・毛利は、後に勃発した「関ヶ原の戦い」では西軍に属し、家康率いる東軍に敗れる事で、領地も権力も失っていく運命を辿ります。


一方、家康に従う事になった前田利長は、「関ヶ原の戦い」で東軍に属し、北陸方面で奮戦。
加賀・越中・能登の三国を領土として与えられ、120万石という日本有数の大名となりました。
ここから江戸時代を通じ、前田家は「加賀百万石」を誇る名藩となっていきます。


 
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西暦1605年。
利長は44歳の若さで、養子である利常に前田家の家督を譲り、隠居生活に入ります。


その年に、越中国の富山城に入城しますが、翌年に富山城が火災で焼失。
すぐに高岡城を築城し始めると、未完成のうちに入城しました。


隠居してから悪性の皮膚病にかかり、晩年は、ずっと病に悩まされ続けます。


そして、西暦1614年、利長53歳の時に、高岡城で死去。
 
 
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彼の死には、服毒自殺説もあります。
 
 
徳川家の下で有力大名となった利長ですが、そんな彼の元には、密かに豊臣家からの使者が何度も訪れていたそうです。
 
 
すっかり徳川家に権力を奪われてしまった豊臣家としては、何とか前田家の後ろ盾が欲しいところ。
 
 
父・利家の遺言では豊臣家を守るように言われていたのに、結局は徳川家に屈した形になってしまった利長としては、今さら徳川は裏切れないけど、豊臣を守れなかった後悔もあり…。
このままでは徳川家と豊臣家の衝突は避けられない情勢で、「賤ヶ岳の戦い」の時と同様に、また板挟みの立場です。
 
 
重い病に掛かっていた事も含めて、色々と苦悩した結果、導き出した結論が、利長の遺言となりました。
 
 
「我死なば、 すなわち天下自ずから統一して. 太平ならん」
 
 
要するに、「俺が死ねば、全てが平和になるんだろ…」
 
 
どうしても、前田家といえば、父の前田利家とか、前田慶次の方が有名ですが、この前田利長の人生も、なかなか面白いですね。