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月曜日が公的施設の休日だという事をド忘れしていて、旅の目的だった「根城」の見学が出来ず、隣接する「八戸市博物館」も休館という事で、すっかり途方に暮れてしまった私。


とりあえず、博物館の前に立っている、この方の騎馬像をじっくり観察する事にしました。

 

 

 

 

 

 

 


南部師行公の騎馬像。
南北朝時代、この地に「根城」を築き、根城南部氏(八戸南部氏)の祖となった人物です。


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鎌倉時代末期。
源氏の系譜に連なり、甲州(現在の山梨県)に領地を持つ南部家の一族に生まれた師行。


後醍醐天皇・護良親王の勅令を受け、上野国(現在の栃木県)の新田義貞が鎌倉幕府打倒の為に挙兵すると、これに南部一族も参加します。
いわゆる「鎌倉攻め」で多くの武勲を挙げた南部一族は、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まると、その体制の中で重要な役職を与えられるようになりました。


1333年、陸奥守に任ぜられた北畠顕家が奥州(現在の東北地方)平定へと派遣されると、これに随行した師行は、北部の糠部郡(現在の青森県東部から岩手県北部あたり)を治める代官になります。


その拠点として、翌年の1334年に築城されたのが「根城」でした。


奥州でも実績を重ね、勢力を拡大した師行は、西の津軽地方にまで領地を広げ、現在の青森県全域を支配下に置くまでになります。

 

 

 

 

 

 

 

 


また、糠部郡は優れた軍馬の生産地だったので、その調達と育成の役割も任されるようになります。


戦国時代に甲州を拠点とした武田家が最強の騎馬隊を組織していた事からも分かるように、師行の出身地である甲州は優れた軍馬の生産地として有名でした。
甲州でも軍馬の扱いに慣れていた師行は、その経験を買われたのでしょう。

 

 

 

 




そのまた翌年、1335年。
鎌倉幕府打倒の功労者だった足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗を翻し、別の天皇を掲げて京都を制圧してしまいます。


これによって、日本を支配する皇室(朝廷)は、足利尊氏が支持する「北朝」と、吉野に逃れた後醍醐天皇の「南朝」に分かれてしまい、一時代に2人の天皇が存在する「南北朝時代」が始まります。


後醍醐天皇に従い、「南朝」側に属した陸奥守・北畠顕家と、その部下である南部師行は、「北朝」側との戦いで奮戦。


後醍醐天皇の命令を受け、京都に駆けつけた北畠顕家は、京都を支配していた足利尊氏軍を破り、九州に追い返します。
一方、奥州に残った南部師行は、奥州の国府(役所)である多賀城を襲撃してくる「北朝」側の武将達と戦い、これを打ち破って、北畠顕家の留守を守り抜きます。

 

 

 


 

 

 

 

 

 




しかし、九州で戦力を整えた足利尊氏が再び京都を襲うと、「南朝」側の武将達の足並みが揃わなかった事もあって大苦戦。
再び京都に駆けつけた北畠顕家と南部師行は、何度か「北朝」軍との戦いに勝利を収めるものの、戦況は悪化するばかり。


そして、1338年、和泉国石津(現在の大阪府石津)での戦いで、「北朝」軍に敗戦。
顕家と師行は、揃って戦死する事となりました。

 




師行の死後も、彼の一族・子孫の「根城南部氏(八戸南部氏)」は、「南朝」に忠義立てし続けます。

しかし、「北朝」の足利尊氏が室町幕府を開いたのに対し、後醍醐天皇が亡くなった後の「南朝」は没落の一途を辿る事となります。



そして、「南朝」の没落に比例するように、それまで南部一族の中心だった「根城南部氏」は立場を失っていき、「北朝」を支持していた「三戸南部氏」に立場を逆転されてしまいました。


 

 


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