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長篠城と設楽原 その4から続く


設楽原歴史資料館を出て、西に10分程度。


設楽原を流れる連吾川の近くに、「長篠の合戦」で織田・徳川軍が使ったといわれる「馬防柵」が再現されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




すぐ向こう側に見えるのが、徳川家康が本陣を張ったといわれる弾正山。
その山の前に、馬防柵が並べられています。

 

 


 

 

 

 


再現されたものは100メートルくらいの長さですが、実際は、南北に2kmも続く長い柵だったそうです。


「長篠の戦い」では、この馬防柵の内側に待ち構える織田・徳川軍の鉄砲隊に対し、武田軍の騎馬隊が突進していった、とされています。


そして、織田・徳川軍の鉄砲隊の「三段撃ち」によって、武田軍の騎馬隊が壊滅的ダメージを負わされ、敗北に追い込まれた、というのが世間一般のイメージ。


ところが、最近の歴史研究によると、「鉄砲隊の三段撃ち、なんて無かった」とか、そもそも「武田軍は騎馬隊じゃなかった」なんて説もあるそうで・・・。


まあ、私が学生だった頃に歴史の教科書で習った事が、現在の教科書では別の事柄に変わっていたり、改変されている事も多くありますので、最新の研究によって新たな事実が見つかるのは珍しい事ではありません。


ただ、歴史ロマンを考えると、「最強騎馬隊vs最新装備の鉄砲隊」の対決の方が、単純に面白いですよね~。

 

 

 

 

 

 

 


設楽原の周辺には背の低い樹木しか生えていなかったので、この柵に使われた木材は全て信長の地元である岐阜から一本ずつ運んできたそうです。


馬防柵の構造は、こんな感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 


柵の前には空堀と土塁が仕掛けられ、攻めてくる武田軍の足を止めました。


それに加えて、この周辺は地面の緩い湿地帯だったらしいので、武田軍は騎馬隊であっても、徒歩であっても、グチャグチャの地面に足を取られ、まともに動けなかったと思われます。


そんな足元に戸惑い、動きが不自由な相手に、至近距離から鉄砲で一斉射撃。
そりゃあ、勝ちますよね(笑)。


柵の内側から見てみると、すぐ目の前に山が見えるせいで、ずいぶん狭い範囲で戦っていたように感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


もし、足元が万全な状態で、武田軍が騎馬隊で突進してきたら・・・。
頭の中で勝手にイメージしてみたら、結構怖かったです(笑)。





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