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(長篠城と設楽原 その1から続く)

 

 

 

 




長篠城跡の本丸跡北側に建っているのが、長篠城址史料保存館


受付で入場料210円を支払い、入館しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




他の土地にある資料館でも見られるような武具・馬具も展示されていますが、「長篠」といえば、やはり・・・


 


 

 

 

 


 

 

 

 


戦いにおける火縄銃の存在がクローズアップされた場所だけに、それに関する展示も多くありました。


館内の大半は、有名な「長篠の戦い」を含む長篠城の歴史に関する展示が占めています。
それを見ながら、長篠城の歴史を勉強しました。


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1508年、駿河・三河を勢力下に置く今川氏に仕える菅沼氏が築城。
1560年の「桶狭間の戦い」で主君・今川義元が討たれると、代わって勢力を伸ばす松平氏(後の徳川氏)に鞍替えします。


1571年、室町将軍・足利義昭から「織田信長討伐」の呼びかけを受けた甲斐国・武田信玄は、信長と同盟を結んでいた徳川氏の三河国へ侵攻。
武田軍の猛攻を受けた長篠城は、武田氏の支配下に。

 

 

 

 


翌1572年、本格的に三河侵攻を始めた武田軍は、「三方ヶ原の戦い」で徳川家康軍を撃破。
そのまま三河国に留まって、家康との完全決着を目指します。


しかし、ここで武田信玄の体調が悪化。
長篠城で休養した後、志半ばにして甲斐国に撤退します。
信玄は、その撤退中に死去したと言われています。


武田軍の撤退を受け、徳川軍は再び長篠城を奪取。
同時に、武田氏の配下だった地元の武士・奥平氏を味方に引き入れ、三河の守りを固めます。


信玄の息子で、跡を継いだ武田勝頼は、奥平氏の裏切りを知ると、信玄の喪が明けた1575年、再び三河国に侵攻して、奥平氏が守る長篠城を取り囲みます。
これが、いわゆる「長篠の合戦」の始まりです。


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1万5千もの大軍で城を包囲する武田軍に対し、長篠城を守る奥平軍は500人程度。
明らかな戦力差にも関わらず、何とか奮戦して城を守る奥平軍ですが、それにも限界がきて、落城寸前の状況に陥ります。


追い込まれた奥平氏は、徳川氏の本拠地である岡崎城に向けて、援軍を求める使者を出します。
その使者というのが、史料館の看板などに使われている「磔のオッサン」こと、鳥居強右衛門
 

 

 


城を抜け出し、武田軍の包囲網を抜けた強右衛門は、65km離れた岡崎城まで一晩で走り、援軍を要請しました。


次の日の早朝、再び長篠城に戻ってきた強右衛門ですが、城の近くの村で待ち伏せしていた武田軍に捕らわれてしまいます。


徳川軍と、その同盟者である織田信長軍が援軍として駆け付ける事を悟った武田勝頼は、囚われの身となった強右衛門に命令します。


「長篠城に向かって『援軍は来ない』と叫べ。そうすれば、命は助けてやるし、武田の家臣にしてやる」


ところが、城の近くに連れて行かれた強右衛門は、長篠城の味方に向けて、自分の命を捨てる覚悟で決死の報告をします。


「味方の援軍は近づいているから、もう少しだけ頑張れ!」


この報告で勇気を取り戻した奥平軍は、最後の力を振り絞り、再び抵抗を続けます。


一方、武田軍の怒りを買った強右衛門は、逆さ磔にされて処刑されてしまいます。
それを描いたのが、城の内外のあちらこちらにある、この姿。

 

 

 

 

 



敵の脅迫に負けず、自分の信念を貫いた勇気ある男として、現代まで語り継がれています。
まあ、こんなフンドシ姿ですけど・・・。
しかも、何か毛深いし・・・。


ちなみに、「逆さ磔」にされたらしいので、実際の姿は、

 




こちらが正しいのかもしれません。


強右衛門が磔にされたといわれる場所は、本丸跡から見ると、

 

 

 

 

 


良く見えません。
というか、全く見えません(笑)。


ちなみに、近くを走る飯田線の車窓から見ると、

 

 


ここら辺りらしいです。



そんな強右衛門の報告によって士気を取り戻した長篠城は、織田・徳川軍の援軍が来るまでの二日間、落城せずに耐え抜きます。


その苦しい篭城戦で使われたと伝わっているのが、この「血染めの陣太鼓」。

 

 

 

 

 



一方の武田軍は、長篠城近くにある設楽原に織田・徳川連合軍が到着して陣を張ったのを知ると、、それを「迎え撃つ」か、「撤退する」かの決断を迫られる事となりました。

 


織田・徳川軍が3万以上の大軍だと知った武田軍の重臣達は、主君・勝頼に撤退するように進言しますが、血の気に逸る若き勝頼は聞き入れずに迎撃を決意します。


武田軍の中軸を担っていた山県、馬場、内藤、土屋の4人は、長年の経験から、この戦いの敗戦を予感して、死を覚悟した水杯を交わしたそうです。

 

 



皆様ご存知の通り、「長篠の戦い」は彼らの予想通り、武田軍の大敗に終わります。
そして、武田家は滅亡に向かう事となります・・・。



(長篠城と設楽原 その3に続く) 


 

 

 


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