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(茨城への旅(12)から続く)

牛久大仏に続いて訪れたのは、坂東市の総合文化センター「ベルフォーレ」





といっても、文化センターに用事があった訳ではなく、お目当ては前庭に鎮座している、この騎馬像でした。
 




この坂東市に縁深い、平安時代の武将、平将門公の騎馬像です。
 




将門公というと鎧兜姿のイメージがあったので、こういう烏帽子姿は少し意外でした。


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桓武天皇の血筋を継ぐ家系に生まれた平将門。
下総国(現在の千葉県北部から茨城県南部あたり)に生まれたとされています。


若い頃には、当時の政治の中心地だった京都で働いていましたが、父親の死去に伴って帰郷しました。
すると、父親や自分が所有していたはずの土地が、全て伯父の平国香らによって好きなように分割されていて、長男だった将門には満足な土地が与えられませんでした。


それに不満を感じながらも、残された土地で細々と頑張り、少しずつ領地を回復していく将門。


しかし、伯父の国香は、妻の父親である源護という人物と共に、将門の土地を奪おうと企んできます。
将門の一族には、源護と婚戚関係にあった者が多数いた為、将門は次第に一族の中で孤立していきます。


遂には、源護の息子達が、将門を待ち伏せして襲撃する事件が起きてしまいます。
これを見事に返り討ちにした将門は、その勢いのままで伯父の国香の屋敷まで攻め入ると、源護の三人の息子を討ち、国香を自害に追い込みます。
 




その後も、源護や一族の平良兼、良正、定盛と争い続けた将門。
これだけなら、関東地方で身内が争っているだけの事で済んでいたのですが、いつしか事態は京の朝廷まで巻き込む形にまで発展してしまいます。


事の発端は、隣国の常陸国で暴れまわっていた盗賊を、将門が匿ってあげた事から始まりました。
盗賊の罪を許してくれるように、常陸の国府(朝廷直属の役所)に頼み込んだ将門ですが、これを拒否した国府側は、盗賊の身柄受け渡しを迫ります。


その当時、地震などの天災が続いており、朝廷が占いを行った結果、東国の争い事が原因だと決め付けられていました。
すなわち、騒乱の中心人物である将門が天災の原因であり、朝廷の害となる人物とされていた訳です。


それに加え、その時の常陸国府には、将門と敵対していた平貞盛が身を寄せていたので、これを良い機会とばかりに、将門を打ち滅ぼそうと企みます。


しかし、逆に常陸国府に攻め入った将門は国府を焼き払い、権力の象徴である「国印」を奪い取ってしまいます。
形としては「正当防衛」みたいなものですが、明らかな「過剰防衛」です(笑)。
現在で言うところの県庁か市役所のような機関を襲撃してしまったのですから、これは国家への反逆以外の何物でもありません。
それまで関東の身内争いだったものが、今度は国の朝廷を相手に回す事となってしまいました。
 



こうなってしまったら、もう開き直るしかない将門。
おとなしく待っていても、朝廷軍に討ち滅ぼされてしまうだけです。
朝廷と戦う覚悟を固めた将門は、関東にある他の国府も襲撃して、これを占領していきます。


そして、「もともと天皇の血を継ぐ家系なんだから、帝になる資格もある」という理由で、自分は「新皇」を名乗って関東地方の支配者となり、自分の兄弟や仲間に関東各地の国府を任せました。
いわゆる「国からの独立宣言」をした訳ですね。


その時、将門が本拠地としたのが、岩井(現在の茨城県坂東市)でした。
それが、ここに騎馬像がある理由です。


ちなみに、新皇を名乗った頃から、将門の性格が変わり始めたようです。
それまでは男気にあふれ、情に厚い好人物だったのに、権力を握った途端、独裁者として視野が狭くなり、周りの意見に耳を傾けなくなったそうです。
まあ、よくあるパターンというか、世界各地で同じような話はあるもので、まさに歴史は繰り返すってやつでしょうか。

 




将門が「新皇」を名乗った翌年、朝廷は討伐軍を組織して、関東へと向かわせます。
しかし、その討伐軍が到着する前に、事態は急展開を迎える事となりました。


下野国の豪族である藤原秀郷という人物と、将門の宿敵ともいえる平定盛が「新皇将門」を討伐する為に挙兵して、将門の本拠地を襲撃します。
その軍勢、数千。


一方、それを迎え撃つ将門軍ですが、数百の軍勢しか集める事が出来ませんでした。
それまで多くの戦に勝ち続けてきた将門軍は、実は地元の農民を中心として構成されていました。
秀郷・定盛軍が攻めてきたのは、ちょうど農作業の忙しい時期。
ほとんどの農民が地元の田畑に戻っていたので、将門の周りは手薄な状況でした。


それでも何とか互角に戦い、農民達が戻ってくるのを必死に待っていた将門。
しかし、戦場の風に乗った流れ矢に額を打ち抜かれてしまい……


これによって、いわゆる「将門の乱」は終結しました。
将門の首は京都に運ばれ、晒し首にされました。


その首が空に舞い、関東に向けて飛んでいった、とか、


その途中で力尽き、落ちた場所が、現在の「首塚」になっている、とか、


その首塚は、移転しようとする度に災いが起きるので、絶対に動かせない、とか、


江戸時代から現代まで、東京には将門の呪いを封じ込める結界が張られている、とか、


その結界を利用して、逆に将門を守護神として、江戸を発展させたのが徳川家康、とか、


信じるか信じないかは、貴方次第(笑)。
 




将門が関東で反乱を起こした同時期、遠く離れた瀬戸内海でも、藤原純友という人物が反乱を起こしています。
ちょうど朝廷の支配力が全国的に弱まってきた時期でもあったんですね。


将門が朝廷と戦った事は、それまで辺境の地に過ぎなかった関東の武士や民衆に勇気と活力を与えました。
この頃から、徐々に「貴族中心の世の中」から「武士の時代」へと移行していく事となります。


後世における将門の評価ですが、時代によって様々だったようですね。
武士が影響力を持っていた時代には英雄視され、逆に朝廷や天皇が政権を握っていた時代には反逆者の汚名を着せられていたようです。
楠木正成なども、時代によって評価がコロコロ変わる人物でしたが、太古の時代から現代まで、ヒーローというのは時の権力によって上手く利用されてしまうものなんですね。

現代でも、政権の人気維持の為に、割と簡単に「国民栄誉賞」とか様々な表彰がされるもんなぁ……。
 

 


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