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(茨城への旅(5)から続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弘道館の見学を終え、再び正門前に戻ってきた私は、改めて水戸城跡への訪問を始めました。


まあ、既に三の丸の空堀を越え、弘道館も旧三の丸にあった訳ですから、もう水戸城の敷地内には入っていているんですけどね。



弘道館から、かつて本丸があった区域までは、完全なる一本道を進むのみです。

 





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水戸城の始まりは鎌倉時代まで遡りますが、城郭として整備されたのは、戦国時代末期に佐竹氏が城主になってから。


豊臣秀吉が北条氏を攻めて天下統一を決定的にした「小田原攻め」に参戦した佐竹氏は、その功績から常陸国(現在の茨城県)を与えられました。
そして、それまで水戸城を支配していた江戸氏を追放して、水戸城の主になった佐竹氏は、城の中心地として二の丸を整備し、大手門などの門の建設などを行い、水戸城を発展させました。


ところが、時代の主役は、豊臣氏から徳川家康へと移行していきます。
天下分け目の合戦となった「関ヶ原の戦い」で家康率いる東軍が勝ち、徳川家が政治の実権を握ると、態度を曖昧にしていた佐竹氏は水戸から追放され、秋田へと移封されてしまいます。


ちなみに、秋田に行った佐竹氏が城主になったのが、同じく「日本100名城」の一つになっている久保田城


その後、何人かの城主交代を経て、西暦1609年から水戸城の城主となったのは、家康の十一男にあたる徳川頼房。
ここから江戸時代を通じ、明治維新が起きるまでの間、水戸徳川家が代々、水戸藩主および水戸城主を務めていく事となります。



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弘道館から歩き出すと、すぐ目の前に一つの銅像が立っていました。


 

 



第九代水戸藩主、徳川斉昭の像です。


財政の厳しかった水戸藩の藩政改革に努め、財政の立て直しを行いながら、藩校である「弘道館」を設立し、藩士の育成も行いました。


また、「日本三名園」の一つに数えられている「水戸偕楽園」を作った人物でもあります。
「藩士や領民と偕(とも)に楽しむ園」という意味らしいです。


幕末、いわゆる「黒船」が来航して開国を迫られた時には、それに反対する攘夷派の斉昭は、開国論を唱える幕府大老の井伊直弼と対立。
直弼との政争に敗れた斉昭は水戸に謹慎する事となり、政治生命を絶たれてしまいました。


しかし、生涯を通じて信念を貫き通した彼は、幕末期を代表する名政治家の一人として名を残しています。


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弘道館のある「三の丸」から、かつての「二の丸」があった地域に入るには、大手橋を渡ります。

 




元々は木の橋でしたが、何度か修復を繰り返し、昭和になってからはコンクリート製になりました。


 

 

 

 




かつての「三の丸」と「二の丸」の間には空堀がありましたが、現在は……

 



掘り下げられた地形のまま、道路が走っています。
かなり大きな空堀だった事が分かります。


大手橋を渡り切ると、かつて、この場所に「大手門」があった事を示す案内板が。

 

 

 

 

 




ここから先が、かつて「二の丸」があった区域になります。


戦国時代に作られた多くの城郭では、最も重要な場所は本丸であり、最も防御が固い場所にある天守や本丸御殿が軍事的・生活的な中心地でした。


そんな争乱の時代が過ぎ、平和になった江戸時代に改築された水戸城では、城は軍事的役割よりも政庁としての役割が強く、利便性の高い「二の丸」が城の中心地になっていました。
多くの梅の木が植えられ、生活や政務が行われる屋敷や施設が並ぶ「二の丸御殿」が建ち、その最奥部には城のシンボルとしての三階櫓が建っていたそうです。





 

 

この区域は、現在は小学校、中学校、高校が並ぶ文教区域になっています。
私が訪れた時間は、ちょうど放課後だったのか、多くの児童・生徒が往来していました。
彼ら、彼女たちの目には、ウロウロとしながらカメラを構える、怪しい他所者のオッサンの姿は、どう映っていたのでしょうか(笑)。



大手橋から二の丸に入ると、すぐに目に入ってきた銅像。
 

 

 

 

 
 

 

 

 



水戸藩初代藩主の徳川頼房公の像です。
水戸城の改築、城下町の整備などを行い、水戸藩の基盤を築いた人物です。


ただ、水戸藩主は代々、将軍の補佐役や相談役をする事が多かった為、基本的には江戸に定住する生活をしていました。
そして、領地である水戸には、年に数ヶ月くらいしか戻れず、藩の政務の大半は家臣に任せていたようですね。
というか、歴代藩主には江戸で生まれた者も多く、江戸の方に生活の基盤があったので、「江戸から水戸に戻る」というより「水戸に行って、江戸に戻る」という方が正しかったのかもしれません。


徳川家康の末っ子として可愛がられた頼房は、三代将軍の家光にも頼りにされた為、水戸藩主になってからも多くの時間を江戸で過ごしていました。
同じ「徳川御三家」であり、兄でもある紀州藩主・徳川頼宣、尾張藩主・徳川義直は、将軍の家光との関係が良くなく、特に頼宣には謀反の噂が付きまとっていたので、家光が信頼できる味方は頼房だけだったようです。
その為、晩年はほとんど水戸には入らず、江戸で過ごしていたようです。


第二代藩主であり、頼房の子である水戸光圀がモデルとなっている「水戸黄門」で、助さん格さんが印籠を見せながら「先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ~!」と名乗る場面がありますよね。
この「副将軍」というのは正式な肩書きではなく、常に江戸に居て将軍の補佐をしていたという事を表しています。

 

 

 



茨城への旅(7)に続く)



 

 

 

 


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