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(騎馬像巡り 源義家(勿来関)から続く)



「勿来の関公園」からエッチラオッチラ歩いて駅まで戻ってくると、勿来関にあったのと同じ人物の騎馬像が、勿来駅の前にも鎮座していました。



この騎馬像を見るだけなら、駅前だけで用は済んでいたのですが(笑)。


「源氏の祖」として有名で、主に東日本のあちらこちらに銅像・石像がある源義家


東京の府中市にも、彼の立像があります。







「前九年の役」の平定に向かう途中、府中に立ち寄った源頼義・義家親子は、この地にある「大國魂神社」で戦勝祈願を行いました。


そして、無事に平定した後に再び「大國魂神社」を訪れた親子は、戦勝のお礼として、ケヤキの木を1000本、神社に寄進しました。
これが現在、国の天然記念物に指定されている「馬場大門のケヤキ並木」の起源とされています。

このケヤキ並木の道は、私も毎日の通勤途中に通っていて、源義家像の前も毎日通っていましたが、そういう関係があったとは、つい最近まで全く知りませんでした。


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そんな源義家が「前九年の役」を平定して、京都に凱旋してから約20年後。
再び、奥州(東北地方)に戦乱が起こります。


事の発端は、奥州を実質的に支配していた清原氏の内部分裂。
そのキッカケとなった出来事が、実に阿呆らしいというか、子供じみた事なのですが……


清原氏の当主、清原真衡の息子(養子)である成衡が結婚する事となり、一族の長老である吉彦秀武という人がお祝いに訪れました。
甥にあたる成衡の婚礼の祝いとして、お盆に載せた砂金を持って真衡の屋敷を訪問した秀武でしたが、ちょうど碁に熱中していた真衡は秀武の訪問に全く気付かず、完全に無視する形になってしまいます。
この甥っ子のナメた態度に、「てめぇ、シカトしてんじゃねぇぞ」とばかりにブチギレた長老・秀武。
持ってきた砂金を
真衡の屋敷の庭にブチ撒けると、そのまま帰ってしまいます。


その行為を後から聞いた清原氏当主・
真衡は、これまた激怒します。
叔父の訪問を無視していた自分が悪いくせに逆ギレ(笑)。
「息子の婚礼を台無しにする気か!」
すぐに兵を集め、秀武討伐へと動きます。


対する秀武も、一族の清原清衡と家衡を仲間に引き入れて対抗します。
ちなみに、清衡と家衡は、同じ母親で父親が違う異父兄弟。
彼らも、秀武の甥っ子にあたります。


この清原氏の内部分裂が、後に「後三年の役」と呼ばれる戦いの始まりとなりました。


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清原氏の内部分裂が勃発したのと同じ年。
父に代わって源氏の棟梁となっていた源義家は、朝廷から陸奥守を拝命して、約20年ぶりに奥州に赴任してきます。




そんな義家に近付き、国府多賀城で歓迎の宴を開いたのが、
清原真衡でした。
そもそも、真衡の息子である成衡に嫁ぐ相手というのが、かつて源頼義が一夜を共にした女に産ませた娘。
すなわち、義家の妹なので、義家と清原家とは親戚関係になります。


清原氏の内部分裂に介入する事になり、
真衡側に加勢した義家は、攻めてきた清原清衡と家衡の軍を返り討ちにして、二人を降伏させます。


その勢いのまま、敵の首謀者である
吉彦秀武を討ち滅ぼそうと兵を進めた清原真衡&源義家ですが、その行軍中に、何と真衡が病に倒れ、急死してしまいます。
これによって「清原
真衡vs吉彦秀武」という戦いは終わり、内部分裂も終結します。




清原氏当主である真衡が亡くなった後に問題になったのは、彼の治めていた広大な土地をどうするか。
その分割を任された源義家は、清原清衡と家衡の異父兄弟に、平等に土地を分配します。


ところが、この土地の分配に不満を持った家衡は、清衡の屋敷を襲撃して一族を皆殺しにしてしまいます。
何とか生き延びた清衡は、義家に助けを求め、家衡への復讐を誓いました。


清原家の内部分裂の第2ラウンド、「清原清衡vs家衡」の始まりです。




源義家・清原清衡の連合軍は、清原家衡の本拠地に攻め込みますが、冬の厳しい環境に加え、戦いの準備不足もあって、あえなく撤退。
「前九年の役」の時も、冬の戦いで敗れた経験がある義家ですが、そこから学習していなかったのでしょうかね?




その翌年、改めて家衡の本拠地に攻め込んだ義家・清衡連合軍ですが、相手の陣地の堅い防御を崩し切れず、長期戦になってしまいます。


そんな膠着状態の中、源義家に助言を与えたのは、清衡側に味方していた吉彦秀武。
秀武が授けた戦略は、相手の食料補給を断つ「兵糧攻め」でした。
これが、日本の戦で行われた最初の「兵糧攻め」だと言われています。


季節は冬になり、ただでさえ食料不足になる状況での「兵糧攻め」は効果絶大。
飢えに苦しむ相手側から最初に逃げ出したのは、女や子供達。
そんな無力な女や子供達も、情け容赦なく皆殺しにされました。


そして、最後には陣地に火が放たれ、家衡軍は敗走。
逃亡を図った家衡ですが、捕らわれて討ち取られてしまいました。


これによって、「後三年の役」は平定されました。
結局、吉彦秀武がブチ切れた事から始まった内乱は、秀武の授けた「兵糧攻め」で終わった訳で、ある意味「自分で始末をつけた」とも言えますね。



清原氏の内乱を収めた源義家は、朝廷に褒賞を求めますが、これは認められません。
そもそも、朝廷の命令を受けて内乱を収めたのではなく、義家が自分勝手に首を突っ込んで戦っただけですから、褒美なんて貰える訳がありません。
その為、共に戦ってくれた部下達に分配しなければならない恩賞を得る事が出来なかっただけでなく、戦いに使った費用を全て借金として負わなければならなくなってしまいました。


しかし、源氏の棟梁である源義家としては、「朝廷から褒美がもらえなかったから、部下に何も分配出来ません」なんて泣き言を言う訳にはいきません。
仕方なく、自分の私財を切り崩し、部下への恩賞を出す事になった義家。


ところが、その行動が、部下である武士達から義家への信頼を深める事となり、特に関東での源氏の名前を高める効果がありました。
その名声の高さが、彼の子孫達が関東で幕府を開く事に繋がっていく事となります。


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実は、今回の旅の中で、もう一ヶ所、源義家の像を見ました。
その話は、また後日……。




(茨城への旅(3)に続く)




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