にほんブログ村




金華山の山道を2時間かけて下山した私は、足は棒のようになり、背中から腰は筋肉痛でバリバリ、靴底には大きな穴が空き、すっかり疲れ果てていました。


本来の予定では、この後、近くにある「岐阜大仏」も見学する予定だったのですが、そんな事を考える余力も残されていない状態で、ヨロヨロとした足取りで岐阜公園の正面入口へ。





正面入口を出てから、ふと振り返ると、金華山の中腹にある三重塔が見えました。





信長公の居館跡の発掘作業が行われている影響で、あの三重塔の近くまでは近寄る事が出来ませんでした。


登山するロープウェーの中でも、ガイドさんが「あの塔は~」と説明してくれましたが、満員のロープウエーの中では、その説明も聞こえず、三重塔の姿を見る事も出来ず……。





大正天皇の即位事業で建てられたものらしいですね。



正面入口を出て、すぐ横に一体の騎馬像が鎮座しています。







「若き日の織田信長像」です。


まだ全国的には無名な存在で、尾張の田舎者と思われていた時期ですね。


*********************************************************


主君や恩人を討ち果たし、下克上によって美濃国の主になった斎藤道三。


その道三と敵対関係にあった隣国・尾張国の織田信長ですが、道三からの和睦交渉を受け、道三の待つ美濃の稲葉山城へと向かいます。


噂では、「信長というのは、とんでもないうつけ者(常識外れ)らしい」と聞いていた道三は、どんな奴なのか、その姿を見極めてやろうと待ち受けます。
とんでもない礼儀知らずの暴れ者だったら、和睦など止めて、尾張に攻め込んでやろうと思っていたかもしれません。

ところが、道三の姿を見せた信長は、ちゃんとした礼装に身を包み、一国の主として自信に満ちた態度ながら、年長者である道三に対しての礼儀は守る青年武将。


この道三の意表を突いた信長の姿は、信長を扱ったTVドラマや小説だと、前半の見所の一つですよね。


その姿に感服した道三は、自分の娘を信長に嫁がせ、尾張との和睦を結びます。
更に、自分の家来達に向けて、「近いうちに、我々はあの男の配下になるだろう」と予言したそうです。





信長の存在に危機感を覚えたのが、道三の息子である斎藤義興。


一度は、道三から家督を譲られますが、すぐに撤回され、他の兄弟に家督を奪われそうになります。
更に、上記のように、道三が信長を評価するような発言をした事で、自分の立場が脅かされる事を悟った義興は、かつて父親が国を奪ったときと同じようなクーデターを起こす事を決意します。


他の兄弟を次々と討ち取った義興は、斎藤家の大多数の家臣を味方につけ、遂には、父・道三に戦いを挑みます。


敗北を悟った道三は、「美濃一国譲り状」という書状を尾張に届け、娘婿である信長に美濃国の今後を託すと、義興との「長良川の戦い」にて戦死してしまいます。





「長良川の戦い」に援軍を出したものの間に合わなかった信長は、受け取った「譲り状」に書かれた道三の意思に従い、美濃国奪回の為に、斎藤義興に何度も戦いを挑みます。


しかし、父・道三には無能と思われていた義興は、実は戦上手で、なかなか美濃を攻め落とす事が出来ませんでした。
それに加え、尾張国内の混乱を鎮めなければならず、更に隣国である駿河の今川義元が上洛ついでに攻め込んでくる、という情報が入ると、もはや美濃にばかり目を向けていられなくなりました。





1559年、ようやく国内の反対勢力を沈めて、尾張の統一を果たします。


1560年、尾張に侵攻してきた今川義元の軍勢を、あの有名な「桶狭間の戦い」で撃退。


これで国内外の障害を解決した信長は、ようやく美濃攻略に本腰を入れられるようになります。


タイミング良く、翌年の1561年に斎藤義興が病死。
息子の龍興が美濃国の主になりますが、この時の龍興は弱冠14歳。
美濃国内は混乱し、織田側に寝返る武将も続出します。


1564年、斎藤家の家臣だった竹中重治(半兵衛)が、たった十数人で稲葉山城を攻略。
その後、すぐに斎藤龍興に城は戻されますが、これで国内の分裂は決定的になってしまいます。


優れた軍師だった竹中重治や、長く美濃を支えていた重鎮の「美濃三人衆」が斎藤家を見限って離反すると、織田信長の侵攻を止める力など、もはや残っていませんでした。


1567年、織田軍によって稲葉山城が攻略され、斎藤龍興は伊勢に亡命。
道三からの「譲り状」を受けてから11年後、遂に美濃国は織田信長の支配下に置かれる事になりました。





東日本と西日本を結ぶ要所であり、まさに「日本の中心」を手に入れた信長は、この岐阜城から天下統一への道を切り開き始めます。


まず、それまで「稲葉山城」だった城を「岐阜城」に改名し、地名も岐阜にしました。
どうも、中国の故事にちなんで名付けたらしいのですが、これにも諸説あるようです。


また、城下町には、日本史の教科書でも有名な「楽市楽座」を開きました。
いわゆる無税、タックスフリーってやつで、自由な商業行為を奨励しました。
税金の少ない場所に人が集まるのは古今東西、いつの時代も変わらないようで、岐阜の街は大いに栄える事となりました。


信長が発行する文書の印章に、有名な「天下布武」を使い始めたのも、この頃から。
この言葉は「武力によって天下を支配する」という風に解釈されがちです。
一方、「天下を統一するとこによって戦いをやめ、平和な時代を作る」という理想を掲げているという解釈もあります。
また、「武」とは、中国の故事に書かれた為政者の心得であって、それを守って天下を治めなければならないという、自分に対する戒めである、という解釈もあります。




にほんブログ村