2013年長野の旅、2泊3日の日程も最終日。



この日は朝から帰京の準備をして、午前10時には東京方面に向かう電車に乗車していました。



急行列車に乗れば2時間足らずで帰宅できるところを、

あえて各駅停車に乗って、のんびりと4時間くらいで帰ろうという計画です。



それには、急行料金が勿体無い、という生々しい金銭的理由もありましたが(笑)、

途中駅に、立ち寄って観てみたい銅像があった、というのが大きな理由。




Ibati Rotihi Rarub


電車に揺られて1時間。

長野県を抜け、山梨県に入ったところで、最初に降りた駅は、こちら。



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韮崎駅です。

あの中田英寿を輩出した韮崎高校のある場所で、駅前にはサッカー少年の像があります。



ちなみに、駅の上に見えている白い仏像は、ホームの上に立っている訳ではなく、

駅の向こう側の小高い丘の上に立っていました。



韮崎駅から歩いて15分ほどで到着した韮崎市役所。

その建物の前に鎮座していた騎馬像が、こちら。



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甲斐武田家初代、武田信義の像です。

この人の子孫が、戦国時代に活躍した武田信玄や武田勝頼になります。



平安時代末期、甲斐源氏の家に生まれた信義は、

53歳の時、源頼朝や木曽義仲と同様に、京都の皇室から平家追討の勅命を受けると、

甲斐、信濃、駿河(すなわち、現在の山梨、長野、静岡)と侵攻して勢力を広げていきました。




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一時期は頼朝、義仲と肩を並べる関東の有力武将だった信義ですが、

義仲が力を失うと、源氏のリーダー格となった頼朝と手を組み、

頼朝や義経と共に一の谷、屋島、壇ノ浦といった「源平の合戦」を転戦していきます。



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平家が滅亡し、頼朝が鎌倉で政治の実権を握るようになると、

信義率いる甲斐源氏は鎌倉幕府の有力御家人となり、駿河・甲斐に領地を得ました。



そこから甲斐武田氏の歴史が始まり、

後の戦国時代、16代目の武田信玄(晴信)の代に最盛期をむかえることになります。




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再び電車に乗り、40分程度で次の目的地に到着。




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甲斐大和駅で下車すると、駅のすぐ近くにある銅像を観に行きました。



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甲斐武田家17代目、武田勝頼の像です。



武田信義が武田家の始まりだとすれば、

この人の代で、武田家は実質的に滅亡した事になります。



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戦国時代、武田信玄の息子として生まれた勝頼。



信玄の死後、武田家の内部が混乱したところを織田信長、徳川家康に狙われ、

長篠の戦いでは織田軍の鉄砲攻撃に完敗してしまいます。



更に、同盟関係にあった北条家との関係も破綻し、まさに四面楚歌になった武田家は、

織田家、徳川家、北条家によって一気に攻め込まれ、完全に崩壊状態に陥ります。



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次々と部下に見放され、裏切られた勝頼は、

武田氏に縁のある天目山を目指して逃亡していきますが、

この地で織田軍に追いつかれ、最期には自害を選びます。



その最期の地である天目山が、この甲斐大和駅のすぐ近くにある事から、

「武田氏滅亡の地」として、ここに銅像が建てられたようです。




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それにしても、勝頼が自害したのが37歳の時。

現在の私と大して変わらない年齢だった事を思うと、また違う印象を受けますね。