諏訪大社の参拝を終え、下諏訪駅まで戻る途中、

すぐ近くにある「山王閣ホテル」の駐車場に立ち寄りました。


かつて、平安末期~鎌倉時代にかけて、この地には手塚城(霞ヶ城)という城館があり、
その城館の主は、現在の駐車場に鎮座する騎馬像の、この方。

Ibati Rotihi Rarub


手塚(金刺)光盛です。
平安時代末期、当時の権力を独占していた平氏に対し、

源氏が戦いを挑んだ「源平の合戦」。



木曽(源)義仲の腹心だった光盛も、義仲に従って倶利伽羅峠の戦いに参戦します。
この戦いを、松明を角に付けた牛の群れを平氏軍に突進させる「火牛攻め」で勝利すると、
続く加賀篠原の合戦でも平氏に勝利。



慌てて逃げ去ろうとする平氏軍の中で、

一騎だけ踏み止まって味方を逃がそうとする武者を見つけた光盛は、

この勇気ある武者に一騎打ちを申し込みます。



訳あって名前は名乗れない、という武者と正々堂々たる一騎打ちを行い、

これを見事に討ち取った光盛でしたが、

実は、この武者は、主君・義仲が昔、命を救われた事のあった大恩人だったのです。



この戦場ならではの悲劇は「平家物語」の一節として後世まで語り継がれ、

また能「実盛」の題材としても使われています。




Ibati Rotihi Rarub



そのまま勢いに乗って勝ち続け、一気に京都まで攻め込んだ木曽義仲ですが、

その粗暴な行動が天皇や公家に煙たがられる事となり、
義仲追討令を受けた同族の源頼朝によって、逆に京から追い出されてしまいます。



京都を追われた義仲達は、故郷を目指しますが、

近江国(現在の滋賀県あたり)で頼朝軍に追いつかれ、義仲は討ち死に。

光盛も、この地で運命を共にしたと言われています。




Ibati Rotihi Rarub


その後、頼朝に命を助けられた光盛の兄、金刺盛澄によって

金刺氏の領土は失われずに済みましたが、
鎌倉~室町時代になると、同じ諏訪地方を地盤とする諏訪氏と争うようになり、

その争いに敗れた手塚(金刺)氏は没落の一途を辿ってしまう事となりました。



などと手塚氏の事を書いてみましたが、

正直、この土地を訪れるまでは、金刺光盛など全く知らなかったし、

その歴史になど全く興味がなかった、というのが本当のところで……



人間、まだまだ知らない事ばかりで、日々が勉強の繰り返し、ですね。