最近、コミュニケーションをとっている大学生から「大変そうな仕事をしているのに、楽しそうですね」と言われ、なんとなく違和感を覚えました。

 

私にとっては「大変な仕事こそ面白い」ものだと思っています。

 

学生時代にはバスケットボールをしていましたが、バスケットボールなんて試合時間中、ひたすら「走る」「跳ぶ」「投げる」を繰り返すハードなスポーツですが、そんなスポーツの試合で記憶に残っているのは、楽に勝てた試合よりも、総力を尽くしてギリギリの勝負をした試合。

 

監督が知恵を絞り、チームメンバーと協力し、それぞれのスキルを全て発揮して、勝利を目指して闘ったことじたいが、私にとって大きな価値(そして、現在の私の価値観の根底にあるもの)でした。

 

逆に、就業時間中、誰にでもできる楽な仕事のためにパソコンと向き合わされること自体が、私にとって拷問のようなもの。

 

新しいことに取り組んでみたり、利害関係者と議論をしてみたり、昨日までしてこなかったこと、できなかったことに挑戦することで、自分自身の中の新たな能力や可能性に気付かされることも多いです。

 

カール・シュミットは、人間の空間概念が、生活形態によって規定されることを指摘していますが、私自身も、人間って不思議な生き物で、「これくらいでいい」「このへんでいい」と思ってしまったら、それ以上は自分の中の世界を広げずに、自分にとって都合のいい枠組みを作りたがる生き物なのではないかと思ったりしています。

 

人間は自分の「空間」についてある一定の意識をもっているが、これは大きな歴史的変遷に左右されるものである。種々さまざまな生活形態には同じく種々さまざまな空間が対応している。同時代においてさえも日々の生活の実践の場面では、個々の人間の環境はかれらのさまざまな職業によってすでにさまざまに規定されている。大都会の人間は農夫とはちがったふうに世界を考える。捕鯨者はオペラ歌手とはちがった生活空間をもっており、また飛行家にとって世界と人生は他の人々とは別の光の中に現れるだけでなく、別の大きさ、深み、そして別の地平において現れてくる。いろいろな民族全般、人間歴史のいろいろな時代についていえば、空間観念の相違はもっと深く、そして大きくなる。

 

この多様性が面白い。

 

そして、空間概念が深く、大きくなるほど、もっと面白い。

 

それを理解し、自分の中の可能性と共鳴させることは難しいですが、でも、私が楽しそうに見えるのであれば、それは自分自身の可能性に挑戦しているから。

 

それは外部世界との絶え間ないコミュニケーションの中で、自分の知見や認識を拡大している営みといえます。

 

枠組みを作らず、むしろ、枠組みを壊していくことこそ面白い。