『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』を3度鑑賞したからというわけではないのですが、narrative(物語)という言葉に関して感度が高まっています。
FacebookやTwitterなどのソーシャル・メディアの誕生により、従来マスコミが独占していた情報発信の分散化・分権化が始まり、それとともに情報の流れも一方向ではなく、双方向あるいは多方向へと展開し、そこで相互編集が繰り返されるようになりました。
その相互編集の行く末は、おそらく多くの人間が共有し、共感できる「物語」だと思うのですが、その物語の内容はもちろんのこと、枠組みさえも覚束ない状況というのが、私の現状認識。
この私の現状認識(仮説)の裏には、無数の人々の情報編集により辿り着いた結論が最適解であるという、"Wisdom of Crowds"(群衆の知)の理論的背景があるわけですが、個々人の情報発信も、政府や公的機関あるいはマスコミなどの「強い情報」に左右されることも多く、いわば偏見や思い込みといった不純な要素が含まれています。
そのような不純な要素が含まれた情報は、その相互編集の過程において除去され、誰にとっても受容可能な(普遍的な)物語となり得るかという点については、"Wisdom of Crowds"(群衆の知)理論でもクリアーにされてない点であると認識しています。
実は、この点は、私のような小役人にとっても重要なことで、「皆が望んでいる」という場合の「皆」とは何なのか、という問題に突き当たります。
マスコミだけでなく、ソーシャル・メディアが「世論」を作るという現象を目の当たりにしている以上は、自らの仕事の方向性を見誤らないためにも、常日頃から心しておかなければならない重要事だと考えます。
「正義は議論の種になるが、力は非常にはっきりしている。そのため人は正義に力を与えることができなかった。このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。」(パスカル)
権力を持ち、声が大きい者の「強い情報」が、我々の「物語」にならないように。
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