私は部下を抱える、悲しき中間管理職として心掛けていることがあります。

 

それはミスを犯した部下がいたとして、次に同じ失敗をしないように支援はするが、失敗の尻拭いはしない、ということ。

 

失敗は「痛み」として心の中に刻まなければならない。

 

痛みなくして、反省や改善につながらないし、ひいては成長もない、というのが、これまでの私の経験。

 

最近では、その痛みをなるべく教えないような「優しい」マネジメントが流行っているようで、組織の側はそれを意識し、部下の側もそれを期待しているようですが、「それって現実にマッチしているんですか?」とあえて問題提起したいと思います。

 

これまた私の経験の範囲内ですが、これまでのキャリアにおいて多くの場面で「理不尽」と思えるような制約条件の下、仕事をせざるを得なかったことが多々あります。

 

「情報がない」「予算が不足する」「当初から住民の反対が予想される」「スケジュール間近である」「訳の分からん上司がいる」などの制約条件があり、理屈通りに物事が進まないというストレスを抱え、それでも期限内に所定の成果を求められてきました。

 

クライアントや利害関係者の要求や期待の水準って自分勝手だし、理不尽なもの。

 

私が仕事(プロジェクト)に取り組む起点は、全てそこから始まります。

 

何ひとつ自分の思いどおりになることはない。

 

自分の思いどおりにならないこと(障害)に遭遇したら、自らの知見とネットワークを駆使して、時にはそれを乗り越え、時にはそれを排除して、どうにかこうにかプロジェクトを軌道に乗せていく、という部分に仕事のしんどさと面白さがあると考えます。

 

だから、「理不尽」に対しては慣れて、それをコントロールする術を身に付けていく方法が重要で、それを教えるのがプロジェクトマネジャーとしての、自分の務めだと思います。

 

理不尽がなくなるなんてことはないと思っています。

 

百人の人間がいたら、百人の願望や欲求があり、それを「公共性」という器に注いだ上で、誰にとっても美味い酒にすることを目指すことを要求されていることが理不尽なのだから。

 

だけど、その理不尽な要求を、少しでも前進させようとする仕事が「公務員」ではないのか。

 

大きな理不尽を克服するためには、小さな理不尽をコントロールできなければ、到底到達し得ないゴールだと思っています。

 

もしかしたら、私は間違っているのかもしれない。

 

だけど、私は、少なくとも現在の自分が知りうるマネジメント手法を選択し、それを実行しています。

 

その成否や妥当性を決めるのは、小さな理不尽を意見する部下ではなく、大きな理不尽を押し付けるクライアントや利害関係者であり、私の仕事の場合は、究極的には住民であると考えています。