先日開催したサミット参加者から、Facebookの友達申請や感想メールの送信などが続いており、地道に1件ずつ返信・返答をさせていただいております。

 

その中のひとつに、県内某大手企業の参加者から、メチャメチャ褒めちぎられる(笑)感想メールをいただきました。

 

当社では、非の打ち所がない上手な資料を作り上げるけど、中身はその人の魂や情熱を全く感じないつまらない優等生資料を見て辟易しておりますが、でもそういう人が出世していく現実を見てきましたので、まずは資料の作成能力、プレゼン能力が問われるのは確かだと思います。

今回の一度しかお話を聞いていませんが、資料がめちゃくちゃ上手であること、お話が上手であることに加えて、何よりそれに向かって俺がやっていくという行動力をものすごく感じ、こんなに頭脳と熱量ともにマックスの人は見たことがないというのが、私の感想です。

 

プレゼンテーション資料については、私も部下に「自分の意見や意図、思いを込めること」を要求しており、ただ単に情報を寄せ集めただけの資料については、「手抜きしただろう」と見抜いて、やり直しを命じているので、「部下に厳しく自分に甘い」という評価にならないよう、データやエビデンスよりも、まずは「自分が言いたい(主張したい)こと」に重きを置いた内容にしました。

 

話が上手であるか否かは、聞き手の受け止め方なので、何とも言えないのですが、私がプレゼンする内容については、「少なくとも県内では自分が最もプロフェッショナルなんだ」という意気込みで、「私がプロジェクト・マネジャーであったら、こうマネジメントする」という考えを基に説明するので、熱量MAXのプレゼンになるのかなあという気がします。

 

自分の考えを伝えて、「後は皆さん頑張ってね」というスタンスではなく、「私自身も問題だと思っているので、一緒に取り組んでいきましょう」という気持でプレゼンに臨んでいます。

 

こんなことをやっているので、益々、重荷を背負って動けなくなっていくんだと思いますが、自らの頭と体が動く限りは足掻き続けてみようかと。

 

先日、懇談の席を共にした某マスコミ関係者からは「何でそんなに頑張れるんですか?」と質問されましたが、『鋼の錬金術師』のヴァン・ホーエンハイム風に言えば「父親だからだよ。必要とか理屈とかじゃないんだ。お前たちが何より大事なんだ。幸せになって欲しいんだ」というのが答え。

 

私は目的達成のためには大義名分を掲げることも厭わないし、憎まれっ子になって世に憚ることも厭いません。

 

私の動機と原動力は、極めてプライベートなもので、自分たちの子供が、安心・安全に生活できるような地域社会を築いて、バトンタッチしてあげるということ。

 

明治維新150年ということで、大学時代に読んだ司馬遼太郎『翔ぶが如く』を約20年ぶりに再読しています。

 

大学時代に司馬遼太郎全集を読破した私ですが、なぜあれほどに司馬遼太郎作品にハマったかといえば、「自分自身の生き方のモデルを探していた」からと言えます。

 

その生き方のモデルを探す自分自身と、坂の上の雲を目指して、戦後復興から高度経済成長を経て経済大国になったと思ったら、バブルが崩壊して、新たな国家像を模索している日本と、苦悩する姿が重なっていた時期でもあります。

 

再読している『翔ぶが如く』は、新たな近代国家の建設という大目標に向けて邁進する大久保利通の透徹したリアリズムと「無私」の心境に、より強く共感している自分自身を発見して、これこそが、この20年間の自分自身の変化だなと。

 

 大久保には厳乎とした価値観がある。富国強兵のためにのみ人間は存在する──それだけである。かれ自身がそうであるだけでなく、他の者もそうであるべきだという価値観以外にいかなる価値観も大久保は認めてない。

  ──なんのために生きているのか。

  という、人生の主題性が大久保においてはひとことで済むほどに単純であり、それだけに強烈であった。歴史はこの種の人間を強者とした。

 

 「大久保は子供だ」 

 と、江藤はのちにそういう表現で大久保の本質を 罵倒したが、江藤があるいは右のような意味で「子供」といったとすれば、大久保も川路と同類の人物であるかもしれない。この種の子供じみた熱中者は、偏執的といえるほどに執念ぶかい反面、一身上の他の利害においては痴人のように 恬淡 としていて、その執念の液質はいかなる 大人たちよりも透明度が高かった。

 

 

新国家を創り出すという「創業」は、緻密な計算と、時には大きな賭けに出る行動によって積み上げられ、形が作られていきました。

 

大学時代は学生で、社会で働いたこともなければ、実務を経験したことはないからこそ、その困難さや緊張感は漠然としたものでしたが、社会人として、実務をこなしてきた身としては、その艱難辛苦を味わうことができる身となっています。

 

こんなことを縷々書き綴っていると、厳しい表情で、困難な敵に立ち向かうヒーローみたく勘違いされるかもしれませんが、私にとって、地域課題と向き合って、その解決法をあらゆる手段を駆使しながら探っていくという作業は、「やり甲斐」という意味で楽しい作業ではあります。

 

そこに心を許せる愉快な仲間たちがいれば、それはプロジェクト=祭りみたいな感じで、決して、周囲が考えるほどの堅苦しい作業ではなかったりします。

 

多分、地域を取り巻く環境や課題について、自分のそのような姿勢や考え方が、ある意味、プレゼンの中でも反映されていて、頭脳と熱量MAX状態になるのかなあと。

 

以前も書きましたが、明治維新150年を契機として、現代に生きる我々が学ぶことがあるとすれば、大きな目標に向かって、リスクを呑み込む気概をもって、目の前の課題に立ち向かうこと

 

その実践なくして、明治維新150周年の式典をいくら積み重ねても無意味だと思います。