今年のG.W.中に読んだ本の一冊にP.F.ドラッカーの『経済人の終わり:全体主義はなぜ生まれたか』があります。

 

秘密警察による国民統制やユダヤ人虐殺など、人間の「狂気」をまざまざと見せつけた全体主義(ファシズム・ナチズム)ですが、その生成過程について、当時の空気感を感じながら、ドラッカーが書いた渾身の一冊です。(書評はこちら→https://ameblo.jp/felix-epyon/entry-12376012574.html

 

この著書の中で、ドラッカーは「大衆」について多々言及しています。例えば・・・

 

 ファシズムの本質は、この矛盾にある。ファシズムは、まさにわれわれの生きる時代の根源的な事実に根ざしている。すなわち、新たな信条と秩序の欠如である。旧秩序は有効性を現実性を失った。旧秩序の世界は不合理な魔物の住むところとなった。しかし、新たな信条の基盤となり、かつ、新たな目的のために社会を組織するうえで必要となる新たな形態と制度の基盤となるべき秩序は現れていない。

 旧秩序の実態は、大衆にとって耐えがたい混沌をもたらすがゆえに、もはや維持できない。しかし、旧秩序の形態は、それを喪失するならば、大衆にとって耐えがたい社会的、経済的混沌をもたらすがゆえに、放棄できない。

 実に、新たな実態をもたらし、新たな合理を与え、同時に古い形態の維持を可能にしてくれる脱出口の発見こそ、絶望した大衆の要求である。事実、この要求は、ファシズムが正面から応えようとするものである。しかも、この要求に応えるために、ファシズムは適法性や継続性を重視する。そして、それが観察者の目を曇らせ、かつ、その革命的性格の認識を困難にする。

 

 大衆は、何か実体のあるものを必要とする。真空には耐えられない。しかし、全体主義から得られるものには不満があっても、他に得られるものはない。したがって、全体主義こそ正しい答えでなければならない。▼そこで彼らは、全体主義から得られるものに不満であるほど、逆に、それだけで満足すべきことを自らに言い聞かせなければならない。もちろん、不満は募る。不満が募れば、自己暗示も強めていかなければならない。

 

 大衆が、真の秩序を失ったとき、組織を秩序の代わりにしたことを見るならば、そして、祈るべき神をも尊ぶべき人間像をも失ったとき、魔性のものに祈ったことを見るならば、人間というものが、いかに秩序と信条と人間像を必要としているか明らかである。

 大衆は、全体主義にのめり込むほど、熱烈に他のものを求める。しかもそれが現れたとき、強くすがりつく。全体主義の特徴たる軍備の拡張、社会の組織化、自由の抑圧、ユダヤ人の迫害、宗教への攻撃は、すべて全体主義の強さではなく、弱さを示す。それらのものはすべて、暗黒の計り知れぬ絶望に根ざしている。

 大衆が絶望すればするほど、全体主義は強固となるかに映る。しかし、全体主義の道を進めば進むほど、彼らの絶望は深まる。そして、全体主義の道に代わるものが示されるや、しかもそれが示されたときにおいてのみ、全体主義のあらゆる魔術が悪夢のように消える。

 

ファシズムやナチズムといった全体主義は、決して、人間が狂気に陥ったからではなく、ブルジョア資本主義や共産主義が約束した未来(自由や平等)を実現してくれなかった上に、戦争や経済恐慌という魔物(不条理)に対抗するため、宗教でもなく、コミュニティでもなく、「組織」というものに合理的に傾斜していった結果とみることもできます。

 

いわば、人間の卑劣さや醜さといった「弱さ」故だったとみることもできます。

 

そんな弱さを持った「人間たちの集団=大衆(群衆)」を冷徹な観察眼で、全体主義が台頭する400年前に分析していた人物がいます。

 

それが、『君主論』を書いたニコロ・マキアヴェッリ。

 

ブルジョア資本主義や共産主義が約束した未来が実現せずに、大衆の心が離れていった原因を、マキアヴェッリであれば、こう語るだろうなという気がします。

 

これまで多くの人は、現実のさまを見もせず、知りもせずに、共和国や君主国のことを想像で論じてきた。しかし、人が現実に生きているのと、人間がいかに生きるべきかというのとは、はなはだかけ離れている。だから、人間いかに生きるべきかを見て、現に人が生きている現実の姿を見逃す人間は、自立するどころか、破滅を思い知らされるのが落ちである。

 

国内においては、統制経済とプロパガンダによって、国外では、敵と脅威を作って、国民との結束力を強化し、一時期は戦争における破竹の勢いで、その地位を固めたかに見えた全体主義ですが、「千丈の堤も蟻の一穴から」という言葉のとおり、大きな機械仕掛けの歯車がひとつ狂うことで、あっという間の転落が始まります。

 

それも熱狂的に支持していたはずの国民からの掌返しによって。

 

この現場を見ていたら、マキアヴェッリは次のように語るでしょう。

 もし最上の要塞があるとすれば、それは民衆の憎しみを買わないことにつきる。なぜなら、どんな城を構えてみても、民衆の憎しみを買っては、城はあなたを救ってはくれない。民衆が蜂起すれば、きまって民衆を支援する外国勢力がやってくるものだ。