昨日は、「島原の乱」が起こった南島原を訪問しました。

 

我々が日本史の授業で習うのは、領主の苛政に耐えかねた民衆が、キリスト教の信仰を胸に殉教していくという、いわば権力と市民との対立構造であるわけですが、現実世界は、それほど単純ではないようです。

 

天草四郎時貞を筆頭に据えて、幕府軍に徹底抗戦を試みて玉砕した原城跡や、南島原のキリシタンの歴史を紹介した「有馬キリシタン遺産記念館」、天草の乱初期に民衆が押し寄せたとされる島原城などを巡ってみました。


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これらの施設を巡ると、迫害されたキリスト教徒=受難者というイメージが固定化されがちですが、神田千里『島原の乱』を読むと、また違った一面も。

 

寺社を破壊し、僧侶、神官に殺害を含めた攻撃を行い、住民にキリシタン信仰を強制して、同意しない場合は殺害も辞さないという一揆の行動から、彼らが敵味方の判別において重視するのは、何よりも相手がキリシタンであるかないかであることが窺える。

 

権力と市民の対立構造だけでなく、市民の中でもキリスト教徒と非キリスト教との対立があったわけです。

 

そして、キリスト教徒が、非キリスト教徒に対して暴力的な行動を取ることも多く、宗教的行動=平和的活動とはなり得ないことは、西洋中世における十字軍を見れば明らかです(『アラブから見た十字軍』参照)。

 

宗教、特に一神教における暴力性というものは、多神教あるいは無信教である日本人には容易には理解困難で、自分たちにとってわかりやすいフレームへと陥りがちです。

 

 実のところ日本人、特に現代の日本人の多くにとっては命を賭けた信仰や、宗教を理由とする戦争などあまり縁がない。だからこういうものは、遠い時代に起った特殊な人間による特異な事件と見なして、ともすれば敬遠しがちである。だから宗教による行動は「篤い信仰」の一言以上の説明はなされてこなかった。

  戦後の歴史学でも宗教や信仰などは歴史の重要なテーマとしてこなかった。こうした科学的合理性から遠い印象を与えるものは、たとえば島原の乱の原因を考えるに際しても、重視することには慎重な態度をとってきたのである。誰もが認めることのできる客観的な事柄を手がかりにしようとする態度は学問において重要であり、その意味ではこうした態度は正当である。しかしその一方でこうした態度が、宗教の存在をなるべくみないようにする傾向を生んだことも否めない。はなはだしい場合は、宗教を無視する態度、宗教音痴に徹することが「科学的」であるとするような風潮すら生んだ。

 

島原の乱は日本文明と西洋文明との緊張関係を象徴的に表した事件と理解すれば、もっと理解を深めるべき歴史的事象だと思いました。