歴史小説家・塩野七生の最後の長編小説である『ギリシア人の物語』は、昨年末に第3巻が刊行され、終幕を迎えました。

 

私もKindle版で1巻、2巻を読み終えて、4月27日に発売予定の3巻を手ぐすね引いて待っている状況なのですが、日本経済新聞や会員制情報サイトであるForesightで書評が書かれていたので、読んでみました。

 

考えてみれば、民主主義の説得力とは、他者を自分の考えに巻きこむ能力であり、他者の意見を尊重して歩み寄るといった単純なものではない。ギリシア人は常に決断が早く、ペルシア人はいつも逡巡(しゅんじゅん)してやまない。普通考えられる民主主義と専制主義の個性が逆転しているのだ。(2018年2月26日付日本経済新聞・明治大学特任教授 山内昌之)

 

Ⅰ、Ⅱではペルシア帝国に抵抗し勝利をあげたアテネの民主政のはじまり、繁栄を遂げパルテノン神殿をアクロポリスの丘に建設して市民を熱狂させるまでの成熟、その後の衆愚政治による衰退が描かれた。
掉尾を飾る本書の第1部のタイトルは「都市国家ギリシアの終焉」。アテネがスパルタに全面降伏したペロポネソス戦役からマケドニアが台頭するまでの重苦しい時代が描かれる。アテネの経済が衰退し人材は流出、果てはギリシアの都市国家が二手に分かれて戦い、ギリシアには「誰もいなくなった」。(2018年2月25日付Foresight・書評家 東えりか)

 

『ギリシア人の物語』の基調をなしているのは「民主主義を如何に機能させるのか」という問題意識だと感じます。

 

それは、塩野氏が、居住しているイタリアだけでなく、ヨーロッパ各国に吹き荒れているポピュリズムの現状を見て、民主主義という文明を推し進めすぎたがゆえに、今、その反動により今日の混迷が生まれていることを見抜いているからです。

 

 日本のマスコミでは、今回の国民投票は、国民が既成政党にNOをつきつけた結果、としているようである。だが私は同意できない。民主党は、既成の政党ではある。だが、レンツィが率いた政府は改革を目指し、しかもそれを実施中だったのだ。改革がいかに難事業であるかの理由は、それを進めて行くのには忍耐を要し、しかもその意志を持続させねば成功できないからである。それがイタリア人にはなかった。なかったから、コメディアンとして成功できなかったことから世の中を恨み怒り狂っている男に煽られてしまったのである。

 怒れるコメディアンは高言している。国政を奪取し、任期の五年間で既成勢力のすべてをぶっ壊し、その後は潔く下野すると。この程度の男が率いる運動にイタリア人の三人に一人が票を投ずるというだけでも絶望的だが、国民の一人一人に充分な判断力があるという前提に立つ国民投票などには、訴えるべきではなかったということかもしれない。日本人も、頭を冷やして考える価値はあるのではないか。

 

SNSが隆盛する時代になり、誰もが自分の思いや考えを、時には感情までも自由に発信できる時代になりました。

 

便利な時代になったからこそ、それに乗じて、大衆を操る人物と操られる大衆という問題が出てきます。

 

そのような扇動家(デマゴーグ)の危険についても、塩野氏は指摘しています。

 

ちなみに、「デマゴーグ」と「ポピュリスト」は、日本では同じ意味で使う人が多いが同じではない。ポピュリストは大衆に迎合するが、「デマゴーグ」となると迎合なんてしない。普通の人間ならば多少なりとも誰もが持っている将来への不安に火を点け、それによって起った怒りを煽り、怒れる大衆と化した人々を操ることが巧みな男たちのことだからである。

 

デマゴーグによって煽られる人々は、その時は感情的になって、周囲に合わせて、威勢の良い物言いをします。

 

しかし、時間が経過して、冷静になり、デマゴーグによって約束されたことが実現できないとわかると「騙された」「知らなかった」と、己の無知無学は棚に上げて、自らの清廉潔白を主張し始めます。

 

これこそが民主主義のなれの果ての衆愚政治です。

 

大事なことは、周りに流されず、常に自分の意見と判断を持つ「考える葦」である自己の存在。

 

それを持てない弱い人間が多いことは重々承知していますが、そのことのツケは払う覚悟で、自らの選択をする必要があります。