「根拠なき自信など無い」と云う根拠のない自信が(笑) | feelsayo 2 

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根拠のない自信ある? ブログネタ:根拠のない自信ある? 参加中
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根拠のない自信とは何か。

人によっては、それは
人生の直感めいたものであったりもするのかもしれません。

何時しか功なり名を遂ぐ

そんな直感に導かれ、
本分を全うする。
一人前になる。
そう言うことがあるのではないか、
という気がいたします。

けれども。
わたし自身に限って申し上げることを
お許しいただけるのならば。

わたしの中の「根拠のない自信」は
ろくでもない感情のような気がしております。

それかあらぬか。

根拠のない自信、というものが
昔から
あまり好きではありませんでした。

小学生だった頃、
「本当は私の方が賢いのに」
「本当は私の方が可愛いのに」
等と言った
子供らしい無邪気な言葉に
しばしば困惑していたことが
原因なのかもしれません。

根拠の無い自信には論拠は要らない。

ですから
議論の余地はなく、故に
反論のしようもない。

そういう、強制的、高圧的な言葉を
苦手に感じておりました。
不器用な子供だったのかもしれません。

さてそんな、「根拠のない自信」ですが。

このお題を拝見して反射的に

「わたしにはそんな自信はない」

と思いました。

数分後、
「反射的に否定する、という行動の拠り所が
いわゆる「根拠のない自信」なのではないか」

と、いうことに思い至りました。

つまり、現時点でわたしは
少なくとも
「「根拠のない自信」などというものは持ち合わせていない」
という、
根拠なき自信を持っている、といえそうです。

わたしにとって
根拠のない自信は云わば思いこみ、なのかもしれません。

そして、
わたしの場合、「根拠のない自信」は
密かな自惚れのようなものでもある、
そんな気もいたします。

真面目に考えればそれが
全く馬鹿げたものだということに気づいてしまうような。

馬鹿げていることが、
薄々分かっているがゆえに、
正視することも自問自答することも避けているような。

わたしの心の中の「根拠のない自信」は
そんな
「根拠なき自惚れ」でしかなく、
それゆえ
普段は目をそらし、恰も
存在しないものであるかのように扱っている。
そんな気がいたします。

小学生だった頃、
「本当は私の方が賢いのに」
「本当は私の方が可愛いのに」
等と言われると、気持ち悪くなってしまったのは。

恐らく自分の心の中にある、
愚かな醜い部分を
具現化して見せつけられているような
不快感があったからではないのか、

今となってはそんな気がします。

「本当は・・・のに」
この言い回しには
恨み妬み嫉み僻みルサンチマン、
といったようなものが沈んでいるのでしょうか。

あるいは
中島敦の『山月記』のいう、
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が
気づ付けられた時、ふと、漏れ出てしまう言葉、
なのでしょうか。

わたしの場合、
「根拠のない自信」を隠し持っている、
ということが、
自分の嫌いな面であり
嫌いであるがゆえに、
子供の頃も。今も、
人に隠し、自分自身も目を逸らしているのだろうと思います。

それゆえにお題を拝見して
「わたしにはそんな自信はない」と瞬間的に
跳ね付けるような気持ちになったのでしょう。

こうして客観死してみますと
なんとも淋しい人間、という印象です(笑)

けれども。

自惚れの無い人間に快楽はない

そんな言葉があるそうです。
フランスの諺です。

馬鹿ほど自惚れの強い人間はない

アンドレ・ジードの
言葉だそうです。

或る仕合せ者 彼は誰よりも単純だった

芥川龍之介の言葉だそうです。

根拠のない自信、

それは
わたしのような淋しい愚者にとって
心の中の、縁の下の力持ちのような
生きる気力の源なのかもしれません。(笑)