今年13冊目、今月5冊目の本は檜垣立哉著『食べることの哲学』です。ネタバレありです。

 

まず、目を引くのが目次。「目次」ではなく「本書のメニュー」と書いてある。

それに続いて「0. 付き出し われわれは何かを殺して食べている」、「1. 前菜 料理の技法 味・レヴィ=ストロース・腐敗」、「2. オードヴル カニバリズムの忌避 法の外のタブー」。。。というようにコース料理のメニューの様な体裁になっていて、遊び心があって面白い。

0. 付き出し われわれは何かを殺して食べている」の章も入れると全部で8章、あとがきも加わって200ページほど。

 

少し話がそれるが、私は五木寛之の本を何冊か読んでいる。命が壮大なエネルギーによって支えられていること、食べることの重さが書き綴られており、自分の命を軽んじてしまう私にとって食べることについて考えることは私が生きるヒントになるのではないかと思った。そして手に取ったのが本書だった。

 

普段当たり前のように食べるという行為をしているけれども、この本は食べることにまつわる様々な問題について書いている。

 

取り上げられた食にまつわる問題の中でも印象に残ったものをとりあげようと思う。

 

私たちは食べる側でしかないと思いがちだが実は私たち人間だって、食べられる側にもなり得るというようなことが書いてあった。薄々それには気づいていた。

と、いうのも理由は二つほどあって、一つは人間は銃などの武器があるだけで、武器を持たなければライオンやサメなどの餌食になることだってあると思っていたから。食物連鎖の頂点に人間だけがいるのはちょっと変な感じがする。

もう一つは例えば主人公の正義の味方が悪党を倒すといった話では、正義の味方に焦点が照られており、主人公の敵は悪というような描かれ方をする。でもそれは主人公の視点に焦点を当てただけで、悪党には悪党なりの世界観やら理由やら視点、物語があると思う。悪党に焦点を当てた話だったら、正義の味方こそ悪として成立するかもしれない。そのように考えているので、食べるということに関しても、全く別の視点があり得ると思っていました。

 

そのような理由があって薄々気づいていましたが、どこかではっきりとそれを言い切りたくない、意識したくない気持ちがあったようで、本書で人間だって食べられる側になり得ると書いてあるのを目の前にしてそむけようとしていた現実に目を向けさせられた感じがしました。

 

本書の中でも食べることの薄気味悪さや感じないようにしている後ろめたさが指摘されていました。

食べることは、生きること。

私は希死念慮があり、食べることは生きることなんだと思うと胸が苦しくなってしまう時があります。

本書では私の感じている「食べることは、生きること」のつづきというか、もっと掘り下げたことを綴っています。

食べることは、他の命を殺すこと。生きることは、他の命を殺して食べること。

こうして突きつけられると、もう目を離しちゃいけないような怖さと事実がある。

食は性と並行してタブーなものであるという指摘もハッとさせられると同時にどこか知ってしまった感があった。

 

本書はこれだけに止まらず食べることの問題を突きつけてくる。カニバリズムの問題だ。

私たちは自分と近いものを食べることをタブー視する。人間が人間を食べることは野蛮だと自然と思っていた。

しかし、私たち人間は自分と近いものをたべることをタブー視するんだと言われてみると、何が食べてはいけなくて何が食べて良いかという基準に疑問が湧いてきた。なにか論理的で明確な理由があるわけでなく、直感的に食べて良い・悪いを判断しているように思えたからだ。

 

その他にも、…その他でまとめてしまうのは勿体無い気もするが、その他にもイルカ・クジラ漁の話や私たちは毒を食べているという話、拒食・断食についてが述べられていた。

食べることの問題がたくさん取り上げられており、考えるべきことはたくさんあるということを教えてくれるような本だった。

 

食べることに関してもっと興味を持ち、食べることの裏にある怖いものに目を向けながらも生きていきたいと思った。