文章教室
裁き つけっぱなしにしていたTVから「葬式ごっこ事件」の特集番組が流れていた。1986年。鹿川君が生きていればもう50になるんだなぁとしばし考えた。約35年という長い期間、この事を心の中に置いたままずっと時間を過ごしている人がいたことに思いを寄せた。 「このままでは生き地獄だ」と彼は書いていた。「葬式ごっこ」の有名な寄せ書きには教師までも参加していた。やはりあり得ない…と今更ながら怒りを覚える。今、その教師は何を思って生きているだろう。クラスメイトはどうだろう。彼らのその後の人生に鹿川君の影はあるのだろうか。 人格を否定されるということ。どれだけ心が痛んで傷つくか想像に難くない。たった一人の人からでもダメージなのにクラス全員からだなんてよく耐えたなぁと思う。逆にその頑張りがますます彼自身を傷つけたのかもしれない。鬱にでもなっていればなんとかなったのに。親は何度も教師や友人へ抗議をした。けれど誰も助けようとしなかった。 裁判で担任の教師たちが出廷した。「深刻ないじめはなかった、むしろ家庭に問題があった」などと証言したという。酷い話だ。人は保身のためなら他人の命も踏みつけにする。 最近、知人の離婚裁判の様子を聞いたばかりなのだが、一審と二審で全く矛盾する主張が平気で証拠として挙げられ、なんの指摘もなく通るのが裁判だったという。真実ではなく戦いに長けているほうが勝つ。裁判には神聖さはないのだなぁという印象を持ったばかりだった。鹿川君の裁判も命の尊さなど横に置かれ、勝つことだけを目的にしたのだろうと想像する。心理を扱う裁きは当事者たちが余程高い内省能力と正直さがない限り真実は明らかにならない。人は自分の都合の良いようにしか証言しないレベルの生物のようだ。そんな状態での判決に意味があるのだろうかと思う。そろそろ文章教室やめようかと、しょっちゅう思う。それはネタが切れたとき、なにも訴えたいことが見つからないとき。今日も、文章教室の日なのだけれど、つい3日前のTVをみて、急に書きたい思いが込み上げた。そして、書き終えて誰かに読んでもらいたいと欲求が深まる。…だから、まだやめないことにする。さーて、次回も書く気になればよいのだけれど…。