【習作】村上春樹「品川猿」(『東京奇譚集』新潮文庫)
「それではありていに申し上げます。あなたのお母さんは、あなたのことを愛してはいません。小さい頃から今にいたるまで、あなたを愛したことは一度もありません。どうしてかはわたしにもわかりません。でもそうなのです。お姉さんもそうです。お姉さんもあなたのことを好きではありません。お母さんがあなたを横浜の学校にやったのは、いわば厄介払いをしたかったからです。あなたのお母さんと、あなたのお姉さんは、あなたのことをできるだけ遠くに追いやってしまいたかったのです。あなたのお父さんはけっして悪い人ではないのですが、いかんせん性格が弱かった。だからあなたを護ることができませんでした。そんなわけで、あなたは小さい頃から、誰からもじゅうぶん愛されることがありませんでした。あなたにもそのことはうすうすわかっていたはずです。でもあなたはそのことを意図的にわかるまいとしていた。その事実から目をそらせ、それを心の奥の小さな暗闇に押し込んで、蓋をして、つらいことは考えないように、嫌なことは見ないようにして生きてきました。負の感情を押し殺して生きてきた。そういう防衛的な姿勢があなたという人間の一部になってしまっていた。そうですね?でもそのせいで、あなたは誰かを真剣に、無条件で心から愛することができなくなってしまった」みずきは黙っていた。「あなたは現在のところ、問題のない、幸福な結婚生活を送っていらっしゃるように見えます。実際に幸福なのかもしれません。しかし、あなたはご主人を深く愛してはおられない。そうですね? もしお子さんが生まれても、このままでいけば、同じようなことが起こるかもしれません。」みずきは何も言わなかった。床にしゃがみこんで、目を閉じた。身体ぜんたいがほどけていくような気がした。皮膚も内臓も骨も、いろんなものがばらけてしまいそうだった。自分が呼吸する音だけが、耳に届いた。(村上春樹「品川猿」『東京奇譚集』新潮文庫、240~241頁)