(参照図とかはスキャン画像はいってるのでカットしました)
第5章「考える」の最終節「ハッピーエンディング」で、『テンペスト』に登場する女性、ミランダにおける「肉体性の欠如」について触れられている。ミランダは清純潔白な無垢な女性であり、童話世界でいうところの「ラプンツェル」のように、ミランダの場合塔ではないが島で男性や性的な情報を殆んど与えられずに思春期の年齢まで過ごしてきたと示されている。この作品は細かい比較をしていないが、おおまかな構造としてはその性的な経験の有無についての疑問点も含め、『ラプンツェル』に類似しているように感じられる(魔女の存在について触れられている点でも、共通点が見出せる)。
嶽本野ばらは、女性の性欲の行方について、書いたエッセイ集『それいぬ』で、下記のように述べている。
万人に性欲があるように乙女にだってそれはあります。しかし、立派な乙女の場合、性欲はストレートな形(『ポップティーン』的)をもって放出されることはありません。性への好奇心と嫌悪感、憧憬と不安、現実と観念の狭間で、乙女の性欲は迷宮を駆け巡ります。迷宮の中で醸造されたコンプレックスは、ホモセクシャルという乙女の肉体が自ら関与し得ないエロスに代償を求めます。
-嶽本野ばら『それいぬ』「乙女と性欲」より抜粋―
これはあくまでも二次創作パロディーで女性がキャラクター萌えを主張しだした昨今の傾向から書いたものだと思うが、男色の歴史が古いように、女性的な観念の「男色」の次元に近いものは古くから存在する。「少年小説」というジャンルに属する作品は人気挿絵作家(ここは逢えて自分の好きな挿絵家、高畠華宵を想像してもらおう)の絵をみても分かるように、顔的な要素は極めて中世的である。
少年小説、とは若干異なるが、少年小説が流行した時期、大正時代頃に児童文学作家として活躍した新美南吉の作品の中で「久助シリーズ」と呼ばれる作品群がある。複数の作品に同じ主人公の身の回りの「些細な物語」を描かれた作品群である。このシリーズを見ても、結構な了で、同性相手にふと「恋心に似た、でも違うよくわからない感情」のようなものを感じる、(あるいは感じたと臭わせる)場面がある。『久助君の話』ではとっくみあいをしているうちに相手の素肌に触れてしまって同性でもどきっとしてしまった様子が描かれているし、『嘘』ではお多福風邪をひいている間に越してきた都会の美少年(これが、しっかりと「美少年」とかかれている。)に惹かれている様子が描かれていて、長野まゆみ の作品に出てくる少年、長野まゆみの、また漫画家鳩山郁子 の描く少年ないしは青年の雰囲気を想起させるのである。竹内オサムも指摘している通り、「内面」の表現の発展期にあたる「24年組」の少女漫画家の美少年像に高畠華宵の存在が強く関与していると自分も思う。それは単純に高畠華宵 が好きだからということではなく、長野まゆみ然り、鳩山郁子然り、美少年を描くマンガや文学に血統を見出すことができるからである。ただ、華宵が活躍していた時代の「美少年」は容姿が美しい青年を指したものではなく、「良い青年」「良い子」という意味合いが大きかったそうだ。
少年小説には性的な描写が排除されている点において、「赤と白」とでもいうような純潔を保ちながら性的欲求を解消しようとする矛盾した女性の屈折した性的欲求に近い形で表されているように思う。また、男性と女性の人形の好みの系統もそれぞれで、日本に球体間接の手法を知らしめたハンス・ベルメール の人形や吉田良 の作品、女性作家でいうと三浦悦子 も若干系統として含まれると思うが、そういった作家の人形には性的な要素が強く反映されている。