●前回「指輪」はこっちにかいてからだったのですがナルニアは間に合わなかったので後付で載せます
人は全く何も分からない世界に堂々を足を踏み込んでいける人間とそうでない人間とが必ずいる。子供ではなおのことそうだ。こどもは「怖い」からという理由もあるだろうし、大人は打算的な考えで「損をするから」嫌と答えるかもしれない。
物語を創作するということは、ゼロから生み出すのはかなり困難な仕事である。オリジナリティはあるが、それでもパターンは存在すると思われる。
他人が生み出した世界を理解するには、それを構成する要素に自分の持つ要素が共鳴する瞬間があるかないかによって大分差が出てくるだろう。トールキンの『ホビットの冒険』『指輪物語』などの世界観と比べると、ルイスの作った世界の中に動き回るものたちの中には、ファンタジー作品の中では比較的多く見られるものが出てくる。C.Sルイスは、異界の世界の住民たちが、自分の作った国(ナルニア)に入り込んできた、という表現を用いてこのことについて答えており、そもそも初めからこういったものたちを住まわせようと考えていたわけではないのである。
異界の要素、というのは育った環境に影響されて出てくるものであるし、異界と死者の国が近いものである(あるいは同じものである)という意識は世界的なものでもある。 そもそも文を記す、というのは主に伝統の継承、正確な記録を残すためであった。そこから、人々が感性を生かして己の何かを表現したいという方向へ応用しはじめたとしても、詩(歌)であれ、小説であれ、その時代までに培ってきた伝統、歴史を伝える要素が完全になくなるというのはありえないと思われる。「伝えよう」「残そう」という意識ではなく、作者の考え方の中からにじみ出てくるもの、いわば「匂い」のような感覚でそこに反映されるものなのではないだろうか。
作品というのは作り手の何かしらを反映させているのが当たり前である。特に、人形やぬいぐるみなど「顔」を持つものを作る人であればなおのことだが、作り手に雰囲気が似てくることはよくある話である。文章にもそれまでの経験が出る。経験なければ文章なんて書くこともできないからである。だから、ルイスがキリスト教じゃない宗教に信仰を見出したとすればまたそういった色が作品に出てくるのである。
『ナルニア国物語』で箪笥を媒体にして異界へのゲートを開いて入ってこれる子どもたち。彼等は「選ばれし子供」の典型パターンとは少し違っている。彼等は『はてしのない物語』のいじめられっ子バスチアンでもないし、『モモ』の身よりのない不思議な少女モモでもない。『デジモンアドベンチャー』から始まる「デジモンシリーズ」の典型にも当てはまらないし、『ハリー・ポッター』のハリーでもない。彼等の「不幸」は「戦争」という大きな障害である。しかも、その時代の子供に共通される出来事である。
それなのに、何故彼等だったのか。そういう理由が本に記されているのかどうか。そこが少し気になっている。きっとそんな所は問題でもなんでもないのだろうが。
ナルニアは日活から出ている『スノークイーン(雪の女王)』(ブリジット・フォンダ主演,デビット・ウー監督,サイモン・ムーア脚本,2002米)の世界観と若干かぶるところがある。雪の女王といえばアンデルセン童話として有名だが、映画『スノークイーン』では雪の女王の他にそれぞれ四季を司る女王が存在し、彼女達は4姉妹である。4人の姉妹のなかで雪の女王のみが温かな心(愛情)という感情が完全に欠けており、姉妹でありながら三人に避けられ、一人であることを余儀なくされた雪の女王は世界中を雪と氷の世界で支配しようとする。対し、ナルニアは白魔女という魔女が魔法で永久に冬にしてしまった国である。『スノークイーン』から話をひきずる必要はどこにもないが、白魔女には白魔女なりの理由があってこそ「冬」にしてしまったのであろうし、「寒さ」と直結するものは「憎しみ」というよりは「寂しさ」であると思われる。
「ナルニア国」もまた、国として成り立つための創世記にあたる物語が作られている。その構成、要素にはキリスト教色が強いが、そのことについては今回は問題にしないことにする。
ナルニア国は魔法でも「定めた上で」成り立つものであるとされている。魔法が定められるというのは不思議なものであるが、確かにAとBという系統の違う魔術があっても不思議ではなく、どちらの法がより強力であるか、ということを問題にするとき、より「古い」方が強力であるというのは納得がいくであろう。『魔女の宅急便』やエブリディ・マジックに分類される本のいくつかには書かれているかもしれないが、時代の流れに従って魔法が弱くなっている、という言葉がある。それは魔法という要素が森(自然)と強く結びついているからで、森(自然)がなくなり、魔力を得られるものが少なくなったということである。精霊を呼び出す、というのは精霊は自然の生み出す現象であるから納得できるだろう。
ナルニアで定められている古い魔法というのは「復活の奇跡」のことである。これは「良き者は救われる」という「良い子であれ」という教育的なメッセージである。何も定めずとも良いとはいえないだろうか。しかし、キリスト教的なものに沿えば、キリストは確かに自分が一度死に、三日後に復活すると宣言し「定めた」のだから、ナルニア国で定められていても、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
最後に、関係はないが、書斎というものについて少し触れたいと思う。書斎というのは大人、とりわけ男性に許されている「自分だけの空間」、つまり隠れ家である。そこは子供たちにとっては開かずの間で、不思議なものに満ちている。カンパネルラの父親の部屋もジョバンニにとっては魔法空間のような魅力にみちたものに写っていたであろうし、ジョルジョ(ロミオ、『黒い兄弟』の主人公)にとってカセラ教授の書斎もまた同じように見えていただろう。
因みに自分が最も憧れる書斎(というよりもこの人に限っては家自体)を所有していた人物は故澁澤龍彦氏である。北鎌倉の住まいにある書斎には土井典に依頼したハンス・ベルメールの球体関節人形のレプリカや四谷シモンの作品、金子國義の絵、動物の頭蓋、地球儀などなど中世の魔術的雰囲気をかもし出す者たちに溢れた空間がある。一般公開されていないため、お墓参りをツアー化し、幸運であれば中を拝むことができるという、親類・知人・友人のどれにもあてはまらない一般人である自分にとって、その場所はより魔法空間に思えるのである。
- 三輪 正弘, 西村 俊一
- やっぱり書斎がほしい―知的創造空間の設計
- 澁澤 龍子
- 澁澤龍彦との日々