翌朝、みんなと一緒に起きたが、通勤通学の4人の邪魔にならないように送り出してから、急いで朝食を摂り、着替えだけ持って家を出た。

 ゆーりに昨夜、自分が居ない間大丈夫かそろっと聞いてみた。

 「大丈夫じゃないって言ったら止める?」

 半分やっぱりと思いはしたものの、返事は保留すると、すかさず、「ごめん、ちょっと意地悪。 ノープロブレム、OKだよ。 携帯持っといて」という言葉が返ってきた。

 「家に帰る?」

 「多分帰んない、臨機応変かな。 あそこにPCあればいいね。」

 一応OKは確認したが、PCあればいいねの言葉が頭に残った。

 熱〇駅から歩いて20分だが、途中だ買ったお菓子と芋焼酎の一升瓶を持ってタクシーで保養所に向かい、管理人宅の玄関をただいまと勢いよく開けると、奥さんのおかえりーの返事がある。

 早かったね、久し振りと迎えてくれる奥さんに土産を渡し、中を窺う賢に、裏よと別荘の鍵をくれた。

 裏庭で椅子に座っている大村管理人に、大将ただいまと声をかけた。

 行こうと決めた日から呼び方を考え、自宅、江川家も含めて洗い直しこれからの呼び方を決めていた。

 おやじと呼べるのは父であり、江川会長はおやっさん、奥さんは祖母ちゃん、

佳織はさん付けは止めて佳織ねえ、そして大村管理人夫婦は大将と女将さんと決めていた。

 「大将、ただいま。 やるよ。」

 うお、おっおおう、あっああと訳の判らない返事をして立ち上がるのを手で制して、着替えてからやるよと念押しして別荘に入った。

 窓が開けられ、温泉が溢れているのを見て、ハーパンTシャツにタオルを持って、サンダル履きで裏庭に戻り、一通り状況をチェックしながら見て廻る。

 ちょうどいい気候で、早くも汗が滲む。

 炭焼きの形跡は無いし、前回整理して積んだ薪の傍に持ち込まれた木や竹が結構積まれている。

 大方を把握して戻ると、女将さんがお昼にしましょうと焼き魚や糠漬け、お握りを出してくれ、賢は勝手に台所の冷蔵庫から500缶ビールを二本出し、一本を

大将に渡す。

 一本だけ呑んでお握りを食べながら、焼く割合を大将に確認すると、しばらく考えたあと、樫4割、蜜柑と竹を半分ずつと返事があり、手早く食事を済ませ仕事を始めた。

 一輪車で往復して乾し上がった薪を運び、懐中電灯で照らし大将に見てもらいながら、しゃがんで薪をびっしりと並べる。

 わざと何度も大将に見せて確認し、今度は蜜柑と竹を運ぶ。

 運んでいると、大将が釜に並べ始めた。

 大体の量を運び、大将と代わり中で並べ、見せて確認する。

 大将が葉っぱが着いた小枝を選定鋏で切るのを見て、チェーンソーと鉈を出して落とし始めると、蜜柑と竹の上に乗せるとぼそっとしゃべった。

 充分な量を殆ど賢が落として運び、びっしりと載せるとやっと大将が笑顔になった。

 火は8時でいいかなとだけ確認して、半分空いた薪置き場に野晒しの薪を運ぶ。

 焼き2回で薪置き場が空になる計算で、切ったばかりの木はなるべく雨が当たらないように野晒しにブルーシートで覆う。

 薪置き場を一杯にすると、流石に陽が落ちて暗くなり、洗い場の温泉で手足と、真っ黒になった顔を洗った。

 女将さんに、着替え持ってうちの風呂に一緒に入りなさいと言われ、着替えを取って窓を閉め、玄関のダウンライトだけにして管理人宅に上がる。

 二人暮らしには贅沢な4LDK、といってもLが12畳、隣接のDKが倍とまではいかないが、かなりの広さがあり、風呂は5人は入れる石造りの掛け流しだった。

 大将の背中を流し、やけに顔をじゃぶじゃぶ洗う大将と温泉に浸かり、手足を伸ばして上がると、テーブルにご馳走が並んでいる。

 ビールで乾杯すると、すかさず女将さんがしゃべり出す。

 皆さんが帰った後、この人腑抜けみたいになっちゃってさあということで、ずっと元気が無かったらしい。

 「会長に2回も会いに行って、それで漁師さんも、農家も心配しててさ、若いお客さんが来たらしいなって電話があって、賢君が来て炭焼きよって言ったら、すぐ持って来てくれたのよ。」

 とこぶしと伊勢海老を、食べてと指差す。

 遠慮なく食べて呑んでいると、大将が鼻をグスンと鳴らしてタオルで顔を拭く。

 もう全く、最近涙腺がゆるいんだからと冷やかす女将に、しょうがねえだろ、嬉しいんだとビールを注いでくれる。

 お父さーん、良かったねーと追い討ちを駆ける女将を無視して、お湯割りにするかと一升瓶を持ち上げる。

 肴をきれいに平らげてご馳走様と立ち上がると、お握りはと聞かれたが手をふると、冷蔵庫に蛸の塩辛があるしと糠漬けの皿をくれた。

 9時に管理人宅を辞して、至れり尽くせりで用意してあるポットと芋の4合瓶、ビールとつまみ、携帯を持ってテラスに上がった。

 トレーナーを着ていれば寒くないし、満点の星空を仰ぎながらビールとお湯割りを交互に舐めていると、静寂の中で携帯の音が響く。

 今、別荘に戻ったっておばちゃんから電話来たよとゆーりの声が飛び込んで来る。

 「テラスで星が一杯で、静かだね。」

 「お風呂終わって今賢の部屋、勉強済んだよ。 賢は何したの?」

 「木を切って炭焼きの窯入れ。 真っ黒になったよ。」

 「ね、賢、やっぱ少し淋しい。」

 「えー、土曜か日曜に帰るけど。」

 「長いよー、一晩でいやだー。」

 「ゆーり、3~4日だから頑張って。 明日電話するよ、ね、じゃおやすみ。」

 自分勝手だし可哀想だなと思いながら、ここにゆーりが居れば楽しいかと、ふと満点の星が少し色あせて見えた。

 しかし、これから先常に自分が横に居れるとは限らないとの思いもあり、練習か経験にすることもと、気持ちが揺れ動くのも事実で、たった一晩の時間の長さに気付いた。

 身勝手だったかもしれないことにかなり後悔しながらお湯割りを呑んでいると、また携帯が鳴った。

 またゆーりだろうと発信者も確認しないで、まだ寝ないのと出ると、ふふっと笑い声が聞こえ、ゆーりだと思ったのと佳織の声になった。

 「呑んでる?」

 ええっと驚いて、むせ返りそうになった。

 「反省しながらテラスだよ。」

 咳をしながら応えたが、意味は充分通じているはずだろう。

 「ゆーり、そこに行かせてもいい?」

 単刀直入なストレートだ。

 「俺炭焼きしてるから相手できないし。 だいいち、学校だよ。」

 「学校より大事なのは昨日もでしょ。」

 ぐっと詰まり、返事ができない。

 「横に行くのはいや?」

 「二人きりになるし、、、、、でもやっぱり。 それは俺も、、、。」

 しどろもどろだ。

 「いやなの?」

 再度のストレートだ。

 「いや、俺も淋しいよ。 ゆーりが居たら、居たら楽しいし、それにほっとする。」

 佳織の返事の前に続ける。

 「モラルがあるよ。 けど、俺も男だし。 ゆーりと二人きりだったら、、、解らない。 大好きなゆーりだから。」

 言葉の外の沈黙の中で会話した。

 「ありがとう。 賢クン、それは貴方一人の責任じゃないし、中3でも責任の半分はあるわ。 どっちにしても信用してるし、、、あの子の11年を思うと私はゆーりに一瞬の後悔をさせたくないのよ。 賢クンがいやじゃなきゃ行かせるわ。」

 ん、11年って何だ、この2年じゃないのかと頭がぐるぐる廻るが、ちょっと待って、5分いや10後に電話するからと切った。

 深呼吸して、突然出た11年という数字を思い浮かべ管理人宅に行き、大将はもう寝たと返事する女将に、明日10時から3時間出掛けてもいいか尋ねる。

 あわててどうしたの、火を入れればあんまりすることないんだからちっとも構わないわよと笑顔の返事を聞いてテラスに戻り、佳織に電話する。

 「お待たせ、遅くごめん。 明日11時、東〇駅で待ち合わせ、どうかな?」

 えっと言ったきり返事がない。

 佳織さんだよね、駄目かなと重ねて聞いた。

 駄目だったら明日夕方帰り、金曜の朝からゆーりと一緒に出直すつもりだった。

 「賢クン、貴方そこまでしてくれるの。」

 「考えたら、こだまで45分だからさ。 それかいっそのこと、家まで迎えに行くかな、大した違いはないしさ。」

 「ありがと賢クン。 じゃ明日11時東〇駅、お願い。」

 「ラジャー、了解。 じゃ明日、東〇駅まで冒険しておいでって。 おやすみ。」

 もう一本ビールを持ってきて呑んだが、この前後に3ヶ所で何本もの電話のやり取りがあったことは又も知らないまま、テラスから降りてすぐ寝てしまった。

 7時には朝食を終え、8時前には大将から教わって釜に火を入れ、音と煙を確かめ様子を見て、あとは大将に任せ、午後からの作業の準備に木の枝をチェーンソーと鉈で落とすのを9時半まで続けた。

 「大将、3時間ばかり空けていいかな? 申し訳ないけど午後はちゃんとやるから。」

 「いいよ。 車、使いなさい。 荷物があるんだろ、駅前のレストランの駐車場に停めていいから。 早く行きなさい。 用心してな。」

 釜から振り向きもしないでの返事だった。

 礼を言って、シャワーを使い財布だけもって車で出掛け、10時前のこだまに乗った。

 45分を長く感じながら、東〇駅の鈴の下に走ると、アリーナ行きと同じようにジーンズに半袖ポロシャツにベストで、ザックとトレーナーを持ったすらりとした美女が手を振って飛び上がる。

 急いで改札を抜けて、待ったと思わずゆーりの肩を掴んだ。

 5分くらいだけど待ってんの楽しかったよと、右手を賢の腰に廻す。

 ゆーりとのこういう待ち合わせは初めてで、相手がゆーりであることが嬉しく、愛おしいと痛切に心に突き刺さる。

 ゆーりのピンクに上気した笑顔を見ながら、佳織に可愛い荷物受取ったと電話してゆーりに渡すと、ママ行ってくるねと切った。

 自宅の母にも同じにして、デパートに向かうと、乗らないのと聞くゆーりにちょっと買物と手を引いて歩こうとすると、ツーママからとザックから封筒を出す。

 封筒には5万あり、有難く頂戴することにして、私も今朝ママから貰ったよと言うゆーりに、それは使うことは無いから無くさないようにしてママに返しなさいと諭してデパートに入った。

 眼鏡店を二箇所見て、ゆーりに好きなサングラスを選ばせる。

 「うわあ、嬉しい。 ね、少し大人の女に見える?」

 仕事を手伝ってもらうのに、灰や木屑を防ぐためだよと説明すると、ゲッとは言いつつ、やってやるかと元気だ。

 女将に、昼飯に駅弁買って1時間で帰ると電話して、和菓子も買い、こだまに乗り込んだ。

 迎えに行った時の45分はじれったいほどゆっくりとだったが、混んでないこだまでの時間はあっという間であっけなかった。

 車で保養所に帰る途中、ふと思いついて筋肉痛用のローションを買った。

 ただいまーとゆーりが女将に抱きつき、お帰り久し振りと、早くもウルウルきている。

 裏の大将にもゆーりが挨拶すると、よく来てくれた、大きくなったと、ウルウルどころか、涙がこぼれ落ちた。

 着替えて、ダイニングで駅弁を食べ、早速仕事に取り掛かる。

 時々火を見ながら、大体4m長の木の枝を落とし、40㎝長の輪切りにして、細い木を一輪車でブルーシート前にゆーりに運ばせる。

 最初はふらついていたが、10分もするとうまくバランスを取れるようになった。

 大将が、そのサングラスじゃ勿体無いと、ゴーグルとマスクを出してくれて、軍手もして完全武装になった。

 まあ、サングラスを買ってあげる理由があって良かったなとは思いつつ、時期的にちょっと遅かったかなとも、内心反省した。

 15分に1回休憩で水分を摂らせ、オーバーワークにならないよう切る、運ぶを自分が主体で進めて行く。

 大将の動きも変わり、賢と呼吸を合わせて動くようになった。

 火を落とす用意をしていると、軽トラックが来て、久し振りにチェーンソーの音がしたから見に来たと苺をくれたおじさんが覗きに来た。

 お久し振りですと二人で挨拶すると、おお来てたかと荷台から蜜柑を置いて、健一さん頼むよと言い置いて帰って行った。

 薄暗くなる4時過ぎにゆーりを止めさせ、大将宅の温泉に入らせ、女将の魚介類の夕食の手伝いをしてもらい、賢と大将は6時過ぎまで精一杯動いた。

 火が消えて、赤みが無くなったのを確認し、釜の下部を水で冷やして終わりにした。

 後は勝手知ったる我家のように、石造りの掛け流し温泉で大将の背中を流し、手足を伸ばす。

 ダイニングでは、ゆーりが驚くことばかりで生きた伊勢海老と金目、貝の料理を習いながら、夕食の用意が出来たばかりだった。

 ビールを我慢して、並べるのを手伝い、女将がそうめんを茹でるのを待って乾杯になった。

 伊勢海老ととこぶしのお造りと、味がしみた金目の煮付け、ゆーりは眼を丸くして食べて、うめえーと天井を向いて身体を震わせる。

 「息子夫婦との晩飯だな、こんな嬉しいこたあねえな。」

 「もう、ほんとに涙もろくなってさ。 お父さん、でもそうなるわよね。」

 お湯割りがすすみ、これあうかしらと、そうめんに金目の煮汁をかけてくれ、あてに絶品だった。

 昨夜と同じ9時に、糠漬け、蜜柑、ケーキを持って大将宅を出て、お湯割りを作り、テラスに上がった。

 ゆーりには靴下とトレーナーを着せる。

 「うわあ、星が一杯。 すっごいね。」

 下に駆け下りて、ビデオと携帯を持ってきて、一面の星空を撮り始めた。

 「ママ、星が一杯できれいだよ。 ビデオで見せてあげるね。 うん、そうだよ。 はーい、おやすみー。」

 横に座り、身体を預けてくる。

 昨夜ここでの一人の時間は、確かに何か心が満たされないままだったなと、今との落差を実感し、お湯割りの美味さで納得する。

 「静かだね。 ゆーりが横に居て嬉しい?」

 「うん、そりゃあね。」

 「今のね、この時間ね。 ずっと待ってたの。」

 自分もそう願う気持ちはあったが、ゆーりを護るべき者としてコントロールしなければとの思いは強く、俺もそうだよとは言わなかった。

 糠漬けを噛み、お湯割りをごくりと流し込む音が結構大きいのに驚く。

 「はい、あーんして。 蜜柑甘いよ。」

 横を向くと、蜜柑の塊を挿し込んでくれる。

 「おばちゃんがね、ケーキより蜜柑を先に食べなさいって。」

 「俺、ケーキはいいからね。」

 「それは判ってるよ。 あれだけ食べたのに、ケーキは入るんだよね。」

 そっちに曲がって少しほっとして、足を投げ出しお湯割りを舐めた。

 「さあ、ケーキも食べたし。 ちょっと冷えたから、賢お風呂入ろ。」

 大きく背伸びして、お盆を片付け、入るよと下に降りて行く。

 洗うから先に入っててとさらっと言うゆーりに、どうのこうの言っても却っておかしくなると先にお湯に浸かった。

 確かにちょっと冷えた身体に心地よく、思い切り手足を伸ばす。

 入るねとお湯を掛け、裸身を隠しもせず大きく背伸びして賢の横に滑り込み、左腕にしがみつき、気持ちいいと頭を凭せ掛ける。

 少し白いお湯のせいで下半身は見えないが、きれいに膨らんだ二つの乳房が賢の左腕を挟む。

 少しこのままにしてと呟いて、そのまま眼を瞑った。

 ゆーりの胸の鼓動が左腕にダイレクトに伝わると、白いお湯にたゆたう上半身を見るのにやましさが無くなり、素直に綺麗な裸身だなと受け入れることができた。

 「賢、気持ちいいよ。 ずっとこうしていたいな。」

 「俺もそうだけど、のぼせるよ。」

 「うん。 ね、両手がさ、ちょっと力が入んなくて痛重いんだけど。」

 一輪車だと気付き、ゆーりの腕を解いて、マッサージするから我慢してと言い聞かせ、先ず右手の手首から上側の筋を抑え揉み解す。

 痛ーいと左手で賢の手を叩くが、この筋を解すと明日はなんともないから我慢してと続け、力が入らない震えると騒ぐのを笑顔で無視して、両手を揉み解し、お湯を利用して手先から脇まで柔らかく押さえて、よしこれでOKと手を離した。

 足もそうなんだけどねと、目の前に右足をお湯から突き出すが、俺もう熱いから後でねと、先に温泉から上がった。

 身体を拭いてハーパンだけ着たところで、お湯に濡れたままのゆーりが前に立ち、バスタオルを差し出す。

 「はいはい、お姫様。」

 バスタオルを受取ると、はいは一回だけでしょと笑顔で睨む。

 頭にバスタオルを載せて髪を拭き、拡げる両手、背中と拭いて、肩膝を突いてピンクに染まる膨らんだ乳房を柔らかく押さえて拭く。

 ぴたっとしたお腹、無毛の下腹部を押さえると、足を少し開き、立てた膝に片足を乗せる。

 全部拭き終わり、もう一度微かな汗を押さえ、ピンクに引き締まり張り詰めた身体に思わず綺麗だと言葉が出た。

 少し怖いけど、賢には見て欲しいんだと呟いて、立ち上がった賢に全裸身で寄りかかる。

 火照る身体をしっかり抱きしめて、引き離し、もう一度全裸身を見て、綺麗だよとおでこにキスして、差し出す小さく折り畳んだ白の下着とTシャツを着せた。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 




 「俺より、お前のラグビー、来週からだよな? 今年はどうなんだ?」

 去年は初戦の1勝だけだった。

 「いやーどうかな。 ただ新人で一人結構やれるのが来たから少しはマシかもな。 それよりお前こそどうすんだよ、まあ今日明日どうこうってことでもねえだろうけど。 トレはやってんだろ?」

 「まあ週2、3回はな。 12月一杯は空っぽにして論文を仕上げるよ。」

 「おう、俺も3月には上げるからな。 しかし、ゆーりは主賓としてよく頑張ってるよな。」

 今も輪の中心に居て、いろんな人と話をして、写真を撮られている。

 「ゆーりが居たからできたってお前が言うのが、何となく解る気がするよ。」

 「実際そうなんだからな。」

 ゆーりってそんな凄いことしたんだと、隣の怜奈が呟く。

 「しかし6年まで出来なくて、中1でやっと泳ぎ始めたお前が、ここでとんでもないことやらかしたんだよな。」

 「そう言うなよ、俺がまだよく理解できてないだから。」

 「うちの姉二人が、シーザを届けたのが不思議な出会いの始まりだって、いつも言ってるぜ。 それに明るく綺麗になったってな。」

 「今、あの娘は自分のいろんなことにチャレンジしようとしてるからな。」

 「そうか、変わるもんだな。 これからいろんなことがあんだろうな。 いいんじゃねえか、可能性一杯で。」

 「まあ何をしてやれるか、見当がつかねえよ。」

 「一人で背負い込むなよ、俺たちも居るし。 気楽に構えることも必要だぞ。」

 確かにそうかもなと、3人分の水割りをお代わりする。

 怜奈を二人に頼んで、桂介と父のグループに挨拶に向かった。

 遅くなりまして失礼しましたと、一人一人に鄭重に頭を下げる。

 夫々から名刺を貰い、ゼネコンと銀行の要人の顔を覚えて、内心必死で名前と顔を一致させる。

 中には、賢の先輩で教授から話を聞いているのか、よかったら会社に来てみて下さいと、社交辞令ではあろうが言ってくれるゼネコンの常務という人が居た。

 でありながら、会話の中でお互いの言葉を値踏みしているようで、当たり障りなく話を聞くだけのスタンスに留めることにする。

 一祝賀会の集まりでも、腹の探りあいのような会話があることに少々驚かせられた。

 これがビジネス橋頭堡の在り様かと、覚えておくべく、注意して会話を聞き取り、名前と顔を重ね合わせ記憶していく。

 そこに、颯爽と挨拶しながら、ゆーりが桂介の横に現れた。

 おめでとう、会長お孫さんが可愛くてたまらんでしょうと矢継ぎ早に声が掛かる。

 流石にこの時はビジネス絡みの思惑がない、賞賛の言葉ばかりだった。

 中3でたいしたことだ、綺麗でスタイル抜群ですなとの声の中で、桂介がハンカチを取り出し眼を押さえた。

 理香が前に立ち、そのままでお聞き戴けますでしょうかとマイクを使い始めた。

 あっという間の宴でございますが、お開きに際しまして江川優里愛の母、江川佳織がご挨拶を差し上げますと紹介し、佳織の鄭重な言葉の挨拶でお開きとして、ホールの出口で二人並んで手土産を渡して閉宴になった。

 それでも20名ほど近しい者だけが残り、もう少し呑んで食べようとテーブル二つに集まる。

 昂太郎がグラス片手にまだビデオを撮っているので、桂介がいいからゆっくり呑みなさいと言うと、いや皆さん今最高の笑顔ですから両家のプライベートビデオとして撮っときますと、一息でグラスを空けてカメラを廻す。

 母が、パパ野菜もですよと注意するが、今日は見逃しだと肉を噛みグラスをお代わりする。

 フルーツ盛りが運ばれ、ゆーりと怜奈、理香3人には大きいアイスパフェが置かれた。

 聖とドクが、理香、立て板に水だったねと冷やかすと、佳織が理香さんが仕切ってくれてほんとに有難いわと安堵している。

 プレスやマスコミからの依頼を総て断わり、感謝の宴も終わったことで、これで一応ケリはついたなと、どこかにほっとした思いがあり、水割りの味も少し甘い感じがする。

 「安心して気が抜けた?」

 ドクが、見抜いたかのように聞いて来た。

 「うーん、多少はそうかな。」

 「いいけどさ、来て泳ぐのよ。 止めちゃ駄目。 とにかく続けなさい。」

 「でもさ、ただ泳ぐだけでいいのかなあ?」

 「今は何も考えなくていいから、ただ泳いで身体を動かしなさい。 いいわね。」

 意識のどこかでそうしなければと思う部分は確かに有り、解った取り敢えずはそうすると言い聞かせ半分で応えた。

 身体が考えるロケーションもあるわよと、肩を叩いてドクが席に戻る。

 スポーツドクターとして、目標レスで、精神、身体とも俺が腑抜けになるのを心配してるんだろうなと胸の内で感謝する。

 このことは、姉の精神科医である聖が危惧して、ドクと話し合ってアドバイスさせたことを賢は知らない。

 ではそろそろほんとのお開きにしましょうとの佳織の言葉で、賢はゆーりを呼んで二人並んで前に立ち、有難う御座いましたと深々と御辞儀して、拍手で宴

を終える。

 男どもで別会場の二次会だからと父の母への断わりに、大の二人の姉、亜紀と紗枝が、いいなあ私達も行きたいなとねだる。

 他で埋め合わせるからいいだろと大が宥めると、いいじゃないかね大君と、

桂介がとりなし、7人で出掛けることになった。

 ゆーりは佳織、祖母と怜奈を送って自宅に帰る。


 タクシー2台に分乗してO座のクラブに向かうが、ビルの表示サインは点いてないし、

上がったフロアの店舗名表示の明かりは消されていて、入口前のダウンライトとウォールウォッシャーだけが明るく光っていた。

 桂介がドアを開けると、ママがいらっしゃいませ、お待ちしておりましたと迎えてくれる。

 奥の席に座り、黒服ではないダークスーツの支配人と、夫々の私服らしい女性5人が手際よくお絞りやビールを運んでくる。

 休みなのに済まないなと断わる桂介に、いいえ私は嬉しいんですと、髪を下ろし、スーツのママがその話題を巧みに遮る。

 ママが大の二人の姉に挨拶した後、桝井さんやっぱりご子息でいらっしゃたんですね、改めましておめでとう御座いますと挨拶する。

 父は笑顔で、軽く右手を上げて応えた。

 早速、シャンパンの栓が飛び、乾杯の声が上がる。

 ウイスキー、芋焼酎が出され、夫々の好みの飲み物が作られ、キャビア、生ハム、チーズ、果物が並ぶ。

 「4日前、佳織とお昼を食べました。 とても嬉しそうで。 ゆーり、大きく綺麗になったそうですね。」

 「聞いたよ、牧子が自分のことみたいに喜んでくれたってね。」

 「だって嬉しいですもん、この3~4日なんか浮かれてて、今日を待ってました。

 ゆーりに会いたいわ、もう2年近くでしょうか。」

 「家に来なさい。 ゆーりがどうしてるか聞いただろ。」

 「聞きました。 益々賢クン、大クン、昂クンのファンになりましたわ。」

 佳織、ゆーりを呼び捨てする、牧子と呼ばれたママのことが、どういう人なのか解らなくて頭が混乱したが、ここでどうこう聞くべきではないと思い、黙って会話に聞き入る。

 大と昂も気付いたのかどうか聞き流して、肴とお湯割りを交互にやっている。

 父は事情を掌握しているようで、別段変わりなく水割りを舐めていた。

 「キャビア、初めて食べました。 ウメエ、ビールにぴったりです。 生ハムも滅多に喰えません。 とにかく旨いっす。」

 昂太郎がビールをがぶ飲みしている。

 確かにお前は一人暮らしだけど、ちったあ遠慮しろよと、大がたしなめる。

 父が笑いながら、いいじゃないか、牧子さんどんどん出してあげなさいとオーダーすると、ママが今日大トロのいいのがありましたの言葉と同時に支配人と女性二人が肴をだし、酒が作られる。

 いやあ一人暮らしの飯が淋しくなりますねと、昂太郎が箸を出す。

 吟味された肴が、確かにお湯割りを旨くしている。

 「桝井さん、二年前は想像もできまなかったことです。 感謝しきれません。」

 「会長お止め下さい、お互い様ですよ。 見守りましょう。」

 「そうですな、旨い酒を飲ませてくれる彼等を護りますよ。」

 二人が嬉しそうにがっちり握手する。

 「大、いいわねえ、凄いお店で呑めて。」

 「止せよ、自分じゃ来れないよ。」

 「そういえば、お二人のペットサロンにゆーりが行ってからですかな?」

 「そうだと思います。 二年前の夏休みの初っ端に賢クンに手伝いに来てもらって、最初の日の朝にゆーりがお婆ちゃんと来たんですよ。」

 思い出すように、亜紀が虚空を見る。

 「びっくりしてたんでしょうね、シーザが歯を剥いて抵抗したのを、賢クンがあっさりと手懐けたんですよ。 そしたらそのことにゆーりが驚いたようでした。」

 賢にも、随分以前のことのような気がした。

 「賢クンは両膝を着いて、ゆーりはしゃがんで白い下着が見えてましたけど、ただ驚いたようで隠すことなんか頭にない様子でしたね。」

 やっぱり見てたんだと納得したが、実はあれが2回目で、車を降りる時1回目があったことは心に蓋をする。

 「多分、あの頃飼い始めたばかりで、懐かないというか、コントロールできてなかったと思います。」

 桂介は微かに頷き、経緯を知らない父と大は聞き入り、昂は聞きながら食べて呑んでいる。

 「ゆーりが何故うちのサロンに来たのか解りませんけど、4日間お預かりして、最終日の朝、佳織さんが賢クンに届けて欲しいと電話がありまして賢クンに行ってもらいました。 でも、それから後のことは知りません。 大から家庭教師していることは聞いてましたが。 1年後に凄いことがありましたけど。」

 そうだ、佳織さんがハイヤーを用意してくれて、それに乗って行ったなと思い出す。

 「そうだったんですな。 佳織がゆーりを旅行に連れて行くので、ネットや知り合いにいろいろ調べてお二人のサロンに決めたようなことを言ってましたな。」

 「うちは二人とも獣医で、トリマー資格持ってまして、丁寧細やかでやってます。CMでした。」

 紗枝が、グラスを持っておどける。

 「なるほど取っ掛かりはよく解りました。 しかしその二ヶ月後くらいかな、佳織が、家庭教師の支払いをちゃんとしなければと言い出して、その時初めて彼と話をしたんだが。 うん、その返事に驚いたんだな。 しかし、何故家庭教師になったのかそのプロセスの報告はどっちからも無いままなんじゃ。」

 桂介が、賢の顔をじっと見る。

 大トロでお湯割りをぐびっと流し込んで、何となくそうなりましたとだけしか答えることが出来なかった。

 涙を流して御免なさいと謝り、涙と鼻水で顔を汚して、時々傍に来てと泣き叫んだゆーりの姿を消し去ることは出来ないし、この事実は決して口外しないという3人の暗黙の約束がある。

 「その時はゆーりが僕を必要としていたと思いますが、2年半後の今とこれからは多分違ってますね。」

 出会いがそうであったとしても、今、そしてこれからのゆーりが大事だし、いろんな可能性があることを滲ませて補足の言葉を口にした。

 桂介が、一瞬悲しそうな表情を浮かべたのは見逃さなかったが、もうそれ以上の説明をするつもりは無かった。 


 翌日曜日の午後、父母、理香と、和菓子と茶葉を携え、江川家に御礼に出向いた。

 ゆーりは怜奈と外出して不在だった。

 お互いの御礼の言葉はあったが、金銭には一切触れることは無かった。

 ゆーりが桝井家で生活することを含め、父母と佳織、桂介との間で、高度な判断での取決めなり、約束がある筈だが、自分が口出しすべきことではないと充分認識していて、黙って頭を下げる。

 昨日のことで一つ聞きたいがと、桂介が切り出した。

 「以前は必要だったが、これからは多分違うというのは 、、、、、もうゆーりは知らないということかね? 分けて言うのはきついから一気に聞くが、私は君がゆーりと結婚してくれて、会社を継いでくれるのが一番望むところなんだが。」

 いつか聞かれるだろうなと、昨夜寝ながら考えたことを急いで整理するが、昨日の今日かと少し慌てた。

 しかも、誰も桂介の言葉を遮らないのをみると、みな多少なりとも気にしていることなんだろうなと思い至り、むしろ判然とさせることは必要かと、きちっと対処しようと急いで整理を仕上げる。

 「これからは、ゆーりが僕を必要とする質が大きく変わります。 その質を見極めてできることをします。 後のことについては、ゆーり本人がそう思ってませんよ。」

 「見放すことではないというのは解ったが。 まあ、普通、二人をみれば男女関係があってもおかしくないし、悪いことでもなかろう。 まあゆーりの様子と佳織の見方ではそういう様子は無いようだが、まだ早いという気がしないでもないが、逆にそうなってくれればと願う思いが微かにあるのも正直な気持ちだ。 聞きすぎだったら許してくれんか。」

 母を見ると、笑顔で頷く。

 「ゆーりが社会人になるまで、何かで僕が必要であればそうします。」

 ゆーりの涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔での言葉と、動物園の象の前で自裁を望んだことを聞いてから決めたとは言わなかった。

 後のことはと言い掛けて、理香と同じに妹としてという言葉を飲み込んだ。

 母は知っているし、そう発言することは嘘になり、理香のためにも、同等にして触れるべきでないと咄嗟に判断した。

 「後のことは、そうですね、ゆーりに直接聞かれたらどうでしょうか? 多分パートナーという返事だろうと思いますが。」

 佳織が携帯を母に見せると、母がまた笑顔で頷く。

 怜奈の家に居たようで電話してから5分で帰宅して、迷わず賢の隣に座った。

 思いもよらぬ展開なのだろう、桂介は何も言えず佳織を見るが知らぬ顔でお茶を入れ、母は和菓子を取分ける。

 助け舟が無いと悟った桂介が、意を決したかのように口を開いた。

 「ゆーり、中3になって、昨日一段落してな。 でな、賢聖君を恋人というか、結婚したいとか、そんなことはどうなんだね?」

 桂介の言葉がいささかしどろもどろになり、額に汗が浮いている。

 ゆーりがぽかんとして、桂介と佳織を交互に見て、最後に賢を見て、空気を感じたのか、いやーだ、もうと賢の左手にしがみつく。

 どうなんだねと、桂介が性急に重ねて聞いた。

 何かおかしいなと呟いて、座りなおしたが、それでも賢の左手は離さない。

 「じゃあ聞かれたから答えるよ。 私には賢は先生かな、うーん、ちょっと違うな。 あのね、神様なんだよ。 私の命を救ってくれた。 ほんとにそうだよ。 ついでだけど、今度のワールドレコード、私がコーチでいたから出せたって賢の優しさだもん。 私が居なくても賢は努力したし、賢の力なんだけど、私を頑張らせようって公式に発言してくれたの。 賢の優しさの包みと突き放しでここまでやってこれたんだから私の神様なんだ。 だから、もっと近づくように頑張らないと。 恋人とか、結婚とかそんなんじゃないよ。」

 賢自身にも予想外の答えだった。

 「あーあ、妬けるな。 羨ましいわ。」

 いささかどよんとした雰囲気を吹き飛ばして、理香が背伸びする。

 「駄目よ、理香。」 

 母が笑顔で窘めるが、賢は理香に感謝し、母も理香の言動の意味は充分判っている。

 「江川さん、二人とも純粋に成長してますよ。 やはり見守るべきでしょう。」

 父の言葉に、大きく二度三度と桂介が頷いた。

 「下司の勘繰りでした。 賢聖君には実に失礼なことを言ってしまいました。」

 真直ぐ賢をみて、年寄の要らぬ心配でした、お許し下されとテーブルに両手を着け、頭を下げて謝罪した。

 同時にゆーりへも済まないと謝った。

 父が、江川さんそこまでは無用です、顔を上げて下さいと執り成した。

 私も多少は気になって心配していましたから、失礼には当たりませんし、江川さんが頑張られて確認できたことを吉としましょうと水に流す。

 年寄の冷や水と受け止めて頂ければ、気が軽くなりますと、どうやら安堵したようだった。

 ではこれでと、4人で辞去したら、賢君お詫びに晩飯をと桂介から誘われたが、この後用事がありますと断わり、ゆーりを後で佳織が送ることになった。

 賢が運転する車の中で、夕飯お断りして良かったのと母が聞いたが、さっきのでちょっと気が重くてねとさらりと流す。

 しかし、ゆーりは賢をしっかり見てるけど、賢が常に傍に居ることを微塵も疑ってないなと、父が独り言のように言ったが、聞こえない振りをして、理香さっきは有難うなとマジで礼を言った。

 理香が解ってくれたかとおちょくる。

 夕方、外で呑みたくて、大と昂を呼び出し、駅前の居酒屋で、金に余裕が無い若者らしい酒を呑んだ。


 12月中に一つ試験をクリアすれば全単位取得の目途がつき、9時から3時迄僅かのゼミと図書館に専念して、週3回アリーナで泳いでいる。

 ゆーりが一緒の時もあり、3時からは臨機応変というか、柔軟な時間にした。

 昼間は原チャで何ともないが、さすがに夜は顔に当たる風が冷たい。

 欲を言えば、データを入れた小型のPCを持ち歩きたいところだが、その余裕は無く、CDとメモリーを持って大学のPCで纏めているが、必要と思われるデータを事前に用意することで不自由さをカバーするしかない。

贅沢を言えば限りが無いし、データ準備と纏めで二重にチェックすることで間違い防止といいほうに考えることにする。

 アリーナでは、ドクからクリアラインとして、体脂肪率維持と筋力UP、平100と200のクリアタイムが提示され、ジムとプールで結構指導があるが、黙ってこなす。

 ゆーりが居る時は、一緒にジムをやり、ゆーりがプールでのフォームをビデオに撮るのを始めた。

 「ゆーり、身長と体重は?」

 「171で42kgだよ。」

 「ちょっと細くね?」

 「いいんだって。 こないださ、3人でお風呂入ったのよ。 聖ねえが、心配要らないから、食べて運動してね、勉強もしなさいって。 いろいろ説明してくれたよ。」

 「そうか、聖ねえが言うんなら間違い無いね。」

 「りょうねえも、骨粗鬆と貧血にならないように食事の注意とメニューのアドバイスくれたから、ツーママに渡してあるよ。」

 そんなことまでしてくれてるのかと、聞いて初めて知った。

 「ねえ、あのカフェでパフェご馳走して。」

 「いいけど、晩飯食える?」

 「食べるよ、帰って洗濯して、御飯のお手伝いだもん。」

 バタバタと走って、賢のバスタオルや水着、着替えたもので洗濯機を廻して、キッチンで理香と母に教わりながら忙しく動いている。

 申し訳ないなと思いつつ、PCに向かいデータの整理を先に済ませていると、ビールとサラミを届けてくれた。

 ビールで元気付けして、後で勉強だよと返事する。

 7時半過ぎに、御飯だよと呼ばれるまでに急いで整理と準備を済ませ,ダイニングでまたビールを出す。

 聖と父はまだ帰ってないが、二人の食事終わりに併せ、自分の部屋で二人の勉強を見る。

 理香は本人の希望で化学、ゆーりには数学のテキストの課題を与え、自分はお湯割りを舐めながら論文を進める。

 1時間で1ページ済ませ、二人が風呂に行き、塩辛と干し魚でPCの文字を追う。

 やがてまた呼ばれ、ダイニングで母と聖の食事と父の晩酌に付き合い、理香とゆーりはタオルを頭に乗せたまま、果物やケーキを出す。

 「ゆーり、ブラしてないの?」

 「家ではしないよ。 みんなそれでいいって。 外じゃするけど、賢と一緒だったらしなーい。」

 「まだ痒いの?」

 「だいぶ慣れたけどまだ少しね。」

 「初めての日、表彰式から帰ってひどかったわね。 ミミズ腫れになってて、3日くらい薬塗ったのよ。 可哀想だったわ。」

 「綿にして、慣れるしかないけど頑張ってね。 医者としてはさ、無くてもと思うけど、いろいろとね。 だから賢、注意してあげて。」

 「了解。」

 教授の言葉を思い出し、男は気楽だなと実感する。


 AM10時、少し緊張して、佐山教授室のいつも開け放しのドアをノックした。

 ソファではなくて、ディスカッションテーブルを笑顔で示され、バッグを椅子に置いて、コーヒーサ-バーからカップ二つに注いでテーブルに着いた。

 単刀直入に、論文原稿が出来ましたので見て下さいと、10㎜弱厚のペーパー綴りとCD2枚を取り出して、頭を下げてお願いする。

 「預かろう。 4~5日後私から連絡するよ。 予定は?」

 「大丈夫です。 明日、大の応援に行って、後は二人の勉強です。」

 「彼の頑張りは、グラウンドで見てるよ。 勝って欲しいな。」

 はい、宜しくお願いしますと退出して、グラウンドに向かい、横の木に凭れ、練習中のラグビーを眺める。

 試合形式の練習をしたいのだろうが、部員が少ないのでパート毎の練習しかできないようだ。

 20分くらいで笛が鳴り、選手が文字通りのベンチに引き上げて来る。

 おおーいと手を振ると、気付いた大がドリンクのボトルを持って走って来る。

 「実戦形式は無理みたいだな。」

 「まあ、しょうがねえよ。」

 こっちに来てくれと、選手達のほうに行く。

 ワールドレコードの桝井だと、皆に紹介すると、うおーっと声が上がり、明日は怪我しないで頑張って下さいと挨拶すると、うおーっすと返事が返る。

 大が一人呼んで、こいつが1年だけどかなりやれると肩を叩くと、桝井先輩お久し振りですと挨拶してくる。

 誰かなと思い見返すと、佐藤将吾です、あゆみの兄ですと頭を下げる。

 あゆみの兄と聞いて、思わずあの時の高校生のお兄さんかと聞き返した。

 大がこっちだと芝生に座り、知り合いかと聞く。

 賢の頷きに、あゆがお世話になりました、合格してラグビー部に入りましたと短くお礼を言う。

 大に経緯を説明して、ここ3週間は行ってないが、あゆは何も言わなかったと言うと、お会いした時に挨拶をしようと思って口止めしていたことを聞かされた。

 ワールドレコードおめでとう御座いますと、家でお祝いをしたことも教えてくれた。

 でも何で桝井さんがと聞く1年生に、大が俺達は中学から一緒で、家族付き合いで呑みダチだと付け加える。

 明日応援に行くから、怪我しないで頑張れと、学食の昼飯を約束して図書館に行き、ぼーっと考え事をして4~5日猶予があるなら炭焼きに行くかとふと思った。

 12時半に学食で大、将吾と落ち合い、割り勘で昼飯を食べながら、監督了解で明日は二人でSHとSOを交代でやることを聞いて、大が抜けた後を考えているなと、全日本のSHが勤まる大の心中を思いやる。

 将吾は、実利を取って法学部に入り、教員免許と法曹試験にチャレンジするらしい。

 論文原稿を出したことは言わないが、自身が何をすべきかまだ漠然としているなと実感させられた。

 アリーナに行き、いつもよりハードに40分ジム、1時間泳ぐがまだ切れはない。

 少なくとも漫然とではなくて、一つ一つの目的意識をしっかり持って集中をしなければと、課題にすることに決めて、もう30分手足の引付と開放を意識して泳いだ。

 5時前に帰ると、ゆーりが賢のデスクで勉強していて、後回しにした数学の問題のヒントを与え、理香の化学に疑問符を持ちながら同じようにキーにアンダーラインを引かせる。

 二人ともぱっと解いて、ゆーりは洗濯、理香は夕飯の手伝いを始め、賢も風呂とシャワー室を洗った。

 それにしてもゆーりは洗濯機に賢の洗い物を放り込んだあと、野菜の下洗いをしながら時間をみて乾燥機にと、実にてきぱきと動くのに猫たちが纏わり付くのを楽しそうに足で遊んでいる。

 時にはしゃがんで撫でて抱き上げたり、ちょっと放り投げたり、それでも猫たちはゆーりにじゃれつくし、今は分け隔てもしない。

 母が自分、理香、ゆーりに対するのと同じかなと、ふと気付いた。

 冷蔵庫からビールを出そうとすると、理香にゆーりの物干し手伝ってと指示され、殆ど自分の物なのでそれもそうだと、乾燥機からゆーりが出すのをサンルームに干した。

 「ツーママは乾燥機使わないで、陽に当てるんだよ。 そのほうが気持ちいいもんね。 でも、賢の水着は夜だからね。 使わない時は干してくれてるよ。」

 なるほどと思いつつ、干し終わると籠を持つゆーりを猫たちが追い駆ける。

 やっとビールを持った賢に、サラミとピーナッツを出して、明日大にいの応援に行きたいと言うが、勝てるから次だねと我慢させたが、連れて行きたい気持ちは大きくあった。

 何時と聞く母に、11時と答えると、ゆーり休んで行けば、ママに聞いてみたらと思いがけない返事が返ってきた。

 即、家電話で佳織の携帯に用件を伝えていたが、すぐ切れた。

 「ママ、いいって。 朝学校に電話しとくってよ。」

 「おふくろ、何で?」

 「いいんじゃない。 いろんな価値観があるでしょ。」

 言葉に表せない自分のもどかしさがあったが、理屈を断ち切りずばっと結論を出し、佳織に配慮した母と、それに応えた佳織に恐れ入るしかなかった。

 9時過ぎに家を出る時、お昼と何か服でもと、母が3万くれた。

 二人とも荷物を入れたザックを持ち、試合開始1時間前に競技場に着いて、スタンドから練習を見て、引き上げてきた連中に会いに行く。

 大にいと飛び上がって手を振るゆーりを見つけて、来てくれたのかと大が走って来る。

 ラガーマンでいつもと全然違うね、今日は私がビデオ撮るから頑張ってとハイタッチすると、ゆーりさんコンニチワと佐藤将吾が挨拶する。

 ?としているゆーりに、あゆみのお兄さんだよと耳打ちすると、ああそうなんだとすぐ理解して頑張って下さいと同じようにハイタッチする。

 怪我するなよとだけ言って、相手チームのゴールポスト手前に座り、開始までに簡単にルールを説明し、最初の20分は眼で見るようにアドバイスしていると、賢の携帯が鳴り、紗枝に場所を教えスタンドで合流した。

 ゆーり来てくれたんだ有難うと、詮索もしないで、二人で売店から飲み物とお菓子を買いに行き開始を待つ。

 ホイッスルが鳴り、相手のハイパントで始まった。

 バックスに出来るプレーヤーが1人入るとこうも変わるかと、ボールを支配し、バックスが走る。

 10分で初トライ、大がゴールキックを決め、早々とリードした。

 横のゆーりは、ステップに併せ膝でリズムを取り、向うの紗枝は両手を握り締めて見つめ、夫々の反応の違いが面白い。

 二人ともビデオカメラを持ち、ゲームを追い始め、前半を14-5のリードで終わり、三人で売店に行き、今度は逆サイドの5mライン傍に座った。

 賢を挟んで横に座り見るだけで力が入って疲れると言う紗枝に、もっとリードするから気楽に見ればと、背中を撫でる。

 風が殆ど無く、二人とも上着を脱いでポロシャツとトレーナーの袖を捲り上げている。

 後半、大と将吾がポジションを変わり、10分後には大が更に一つ下がり、5mラインに入るまでステップと切り返しで相手を引き付け、バックスとウイングをゴールラインに飛び込ませる。

 惚れ惚れする大の走りと支配に、思わず鼻の奥がつーんとして、何度も小さく拳を握った。

 ノーサイドのホイッスルが鳴り、39-10の勝利ゲームが終わった。

 相手チームの選手が、あれだけ支配され、ゴールキックまで決められたら仕方が無いという笑顔で、大と握手している。

 大と将吾が3人の前に来て、ブルーのマウスピースを嵌めたまま手を振り、賢は拍手、ゆーりはビデオを撮りながら左手を挙げ、紗枝はホワイトジーンズの太腿を握り締め頷くだけだった。

 1時で、昼食を誘ったが亜紀が待ってるからと紗枝が帰り、二人で中華レストランで昼を摂り、ビールを呑まない賢に、アリーナだねとゆーりが見破った。

 デパートをぶらついて、あれどう、これはと勧めるが首を横に振り、そうだと賢と腕を組み、テニスウェアショップでピンクと白のヘアーバンドがいいと、すぐ使えるようにしてもらって買った。

 あとパフェだねとカフェに入り、アリーナに向かった。

 二人で30分、ジムで汗を絞り、賢はプールに行き、ゆーりはジムを続けている。

 助手の洋美が、久し振りにみっちりねとゆーりのデータをチェックして、筋力がもう少しかと励ますと、ピンクのヘアーバンドをはずし汗を拭きながらいやーちょっと休憩させてとプールで泳ぐ賢を全面ガラス張りから眺める。

 洋美も並んで見ていると、辛そうだなとゆーりが呟く。

 見上げて、賢クンと聞く洋美に、かなりの間の後、7コースと答え、両膝を着いて木の手摺りに両手と顎を載せて眺めている。

 洋美も膝を着いて一緒に眺めていると、やがて楽に泳げばいいのにねと言うのを聞いて、後ろを向いてドクに電話した。

 すぐドクが来て、しゃがんで一緒に眺める。

 7コースの泳者がプールにタッチして止ったのを機に、どうするのとドクが聞く。

 胡坐で座り、タオルで汗を拭いていたゆーりが立ち上がり、プールに行くのに二人が後を追う。

 スタートブロックに横座りして、7コースの泳者の泳ぎをじーっと見た後、タッチで止った女性泳者に意を決したように話掛けた。

 「辛くない? 楽に泳いでみたら?」

 8コースで泳いでいた賢もタッチして止り、ゆーりの声を聞いて隣の7コースを見た。

 まだ若い女の子が、訝しげにゆーりを見上げている。

 手招きして8コースに呼び、手を伸ばしてサイドに引っ張り上げ、ベンチに並んで座ったのを見て、賢も上がりバスタオルを使いながら少し離れて様子を見ていると、ドクと洋美も同じようにしている。

 辛くない、楽に泳いでみたらと同じ質問を繰り返す。

 一体貴女誰と聞く女の子にゆーりが返事をしないので、考えた上で、僕のコーチだよとゆーりの横に座った。

 賢をじっと見た女の子が、もしか桝井さんですよねと小さく聞くのに頷いて答え、その時にはもうドクと洋美が横に立っていた。

 「僕のコーチのゆーりだよ。」

 「私、貴女のこと何も知らないけど、ごめんなさい。 何か、とても辛そうで。 楽に泳げばと思ってつい。」

 長い沈黙のあと、女の子がどうするのと口を開いた。

 上を向いてしばらく考えたゆーりが、女の子を7コースに連れて行き、プール底のコースセンターラインを指して、ずっとあのラインを見て泳いでと指示し、賢はその意味を即座に理解した。

 まだ解らないようにゆーりを見る女の子に、下を向いてあのラインから眼を離さないで、ブレスは半分と重ねて指示した。

 首をかしげ半信半疑で水に入ろうとする女の子を賢が押し留め、軽く柔軟体操をさせながら、今日泳いだ距離を聞いて、じゃ先ずゆっくり200を3本ねと一緒に7,8コースに入った。

 賢はゆーりの指示の責任を持つ積りで横で泳ぎ、水中で下を指差してリードし100泳いだ。

 駄目進まないとふくれる女の子に、下を見てない、中途半端だからラインを見てと100泳がせるが徹底していないのがよく解った。

 200のあと、こんなのやってられないとサイドに上がった女の子に、いいよ、だったら今までと一緒でどうにもなんねえよと突き放し上がろうとした賢の横に、唇を噛んでもう一回入った。

 同じように意味を理解したドクが、練習に使う黄色のテニスボールを賢に投げてよこした。

 これを見て300とだけ言ってスタートし、賢は潜ってテニスボール左手で挟みラインの上に載せて真横で泳ぎ、最後の50で女の子の泳ぎが変わったのが解った。

 息つく暇も与えず、もう200とリードすると、しっかり眼でボールを追い、2ストローク1ブレスでスピードが上がっている。

 コースロープに凭れる女の子の肩を叩き、一緒に上がり、ゆーりと帰ろうとすると、待って下さいと女の子が前に立った。

 ドクが女の子にバスタオルを渡し、プール横のミーティングルームに5人で入った。

 「私、甲斐奈々美といいます。 高1で、でも全然できなくて。」

 泣き出したのを、ドクが背中をさすって後を引き取った。

 「この子ね、去年中3の中体連で100自由形でタイ記録を出してここに来るようになったんだけど、この前のインターハイで負けて思うように行かなくなってもがいてるの。 しかしあんなリードは賢クンだけしかできないっていうか、賢クンだからできるのかね、流石だわ。 なな、今日二人に会えて良かったね。 もう泣かないのよ。」

 「はい、でもどうして? ちょっと見ただけでしょ?」

 「なな、コーチの指示と賢のリードの意味判ってんのね?」

 「判ってます。 私、変わったもん。」

 「世界に一人しかいないFINAから表彰された女性コーチの指示と、二つのワールドレコードホルダーからのリードをしてもらったのよ。 ものすごいことだけどさ。」

 「有難う御座います。 でも私なんかに、で何で判るんですか?」

 「泳ぎが変わったのは判ってる?」

 「はい、身体が楽になって、速さが変わりました。」

 「だったら続ければいいよ、単純なことだからさ。」

 「辛そうだったから、楽にすればと思ったの。」

 「いいかい、底のセンターライン、下を見ること。 それと100だったら、そうだな200までなら同じだけど今はブレスを最小限にすること。 簡単だからやれるよね。」

 「はい、やります。 有難う御座います。」

 「洋美さん、これからななのビデオとかタイム、時々お願いね。」

 洋美が黙って右指で丸を作った。

 「あのう、どうしてか教えて下さい。」

 「えーとそれはね、ドクが教えてくれるよ。」

 「いいわよ、ここのコーチ連中の前で教えてあげるよ。 いい気味だわ。」

 「あのう、ここにまた来るんですよね?」

 「来るよ、時間は不規則だけど。」

 「また会えますよね?」

 「会えるよ、じゃこれで。」

 シャワーのあと、ゆーりにせがまれ、ななと一緒にアイスを食べ、ゆーりが中学3年であることに驚いて、お互い呼び捨てを決めた。

 駅近くのカフェでケーキを買って歩いていると、学校休んでいろんなことがあって楽しかったと腕を組んできて、大にいのステップ綺麗だよねと、独特の見方の片鱗が窺える。

 でさ、何かしたいこと考えてるねと賢の顔を覗き込む。

 よく見抜くなと感心しつつ、自分が居ない時間を考えて迷ったが、そうしようと決めて、明日別荘に炭焼きに行きたいと打ち明けた。

 やっぱりというように笑って、ケーキを賢に持たせ、佳織に電話して、いいけど自分で電話しなさいと返事を貰ったところで家に着いた。

 ただいまーと駆け上がり、母に報告し、着替えた後、賢と自分のものを洗濯機に入れ始める。

 自室で、大村管理人宅に電話すると、奥さんの、待ってるから早く来てだけの返事で切れた。

 母に二万返し、明日から別荘に炭焼きに行くと言うと、三万足した五万とお土産と一万くれたので、有難く頂戴して、おごそかにそろっとビールを取り出し、大に電話して明日から炭焼きで留守にすることと、次試合が1週間後を確認した。



 

  


 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  


 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 


 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 10月初旬を過ぎ、ゼミと図書館に集中していたが、プールも使えず例年どうり水球もオフになり、柔軟体操と筋トレだけでは持ちそうも無く、午後泳ぐ用意をしてアリーナに出掛けた。

 宗元部長とドクがやっと来たと迎えてくれて、体力測定からやり直し、結果は明らかで、一ヶ月弱の間に1割落ちていた。

 宗元部長が、ここで続けてやることだね、体力を維持しなければ先がどうこうなんて論外だし、とにかく続けなさいとのアドバイスに、事実のデータがあって反論はおろか、返すべき言葉が出ない。

 ドクと、ロビーの隅に座った。

 「久し振りだけど、何かと忙しかったでしょうね。 インカレや全日本の好記録でもね、普通一ヶ月で70%に落ちるのが大部分だけどさ。」

 久し振りのドクの言葉の真意が解らない。

 「少し狡賢くなってもいいんじゃない。」

 頭のほんの片隅に、微かに反応する部分があるような気がするが、それでもまだ意味が掴めない。

 「賢クン、君はやっぱり根っから真面目なんだね。 ここでお世話になって、大きな記録を出してさ、だけどもう続ける積りはないからこれ以上世話になってはいけない、そうでしょ。」

 正にその通りなので頷くしかない。

 「一ヶ月何もしないで1割落ちって、そのほうがまあ大したことだよ。 普通はもっと落ちるけど、基礎体力が強いんだね。 先のこととか、世話になるとか気にしないで、続けるべきよ。 君の心臓はスポーツ心臓になってるから、今急に止めることは危険だよ。 医者としてそれが一番の心配かな。 ここで続けなさい、先はどうでもいいんだから。 ここはね、ワールドレコードホルダーがやってれば逆にプラスの方が大きいんだよ。 廻りも励みになるから、今から泳ぎなさい。」

 身体を解してプールサイドに行くと、拍手で迎えられた。

 クロールで600、バックで400流すと、身体の筋肉全体に乳酸が溜まったようで重い。

 更にクロールで1000流すと、心地よいとは程遠い疲労感に全身の力が抜けた。

 30分休んで、クロールで800流したが、平泳ぎで泳ぐ気にはなれなかった。

 「泳いだの?」

 「うん、いやかな?」

 「ううん、私がどうこう言えないし。」

 携帯のメールを見せてくれる。

 ドクからで、急に止めるのは身体と心臓に良くないから、泳ぐように言ってとある。

 「身体動かさないといけないから、やらなきゃね。 私に気を使わなくていいよ。」

 「でも今日はヘロヘロだったな。」

 「やっぱ、ブランクあると即そうなんだ、身体は正直だね。 じゃあ怠けないようにやっぱり私がコントロールかな。」

 「試合じゃないから、程々に楽しんでかな。」

 「でも、私も土曜日泳ぎたいよ。」

 「ああいいよ、それも続けようかね。」

 「でも土曜日、生理だったらね。 何か面倒っちいな。」

 なるほどこれからはそうなんだと、余計なことは言えず、夕飯に降りた。

 あと二日で御招待する方のリストを纏めてとの母の指示で、呑みながら5人でリストを整理し、締めくくりとの思いで、ゆーりと顔を見合わせながら二人の部分で約70名になった。

 それでもリストを眺めて、まだ挨拶もれがあり、早く行かなければとスケジュールを考えた。

 この日以来、佳織がよく家に来ているようだが、自分とゆーりのことに極力専念し、結構一日が早く過ぎて行く。

 待っていた土曜日、午前中論文と理香の数学と化学をみた後ゆーり宅に行き、2時間勉強をさせ、久し振りにスイミングジムに出掛けた。

 事務室で、松岡社長に挨拶が遅れたことを謝罪すると、来てくれただけで嬉しいよと歓迎されてほっと安心することができた。

 「二人でよくやったね、おめでとう。 会長から御礼と近況の電話は貰っていたが、来てくれて有難う。」

 「社長のご好意で断ち切られずに済みました。 感謝しております、有難う御座います。 それで、これからも利用させて頂きたいんです。 宣伝に利用して頂いて構いませんので。」

 「遠慮なしに来て下さい。 宣伝は、まあ会長との約束があるけど、多少は使わせてもらうかな。 スクールも好きに考えて貰っていいから。」

 今井千代美とロビーで落ち合って、以前の時間に戻ることができた。

 早速英語に切替え、簡単な会話から始める。

 千代美が、水泳以外のことを話題にしてくれて、細かな気遣いに感謝せずには居られない。

 久し振りの英会話のあと、着替えて二人を泳がせるが、スムースにこなし1時間するとすっきりした顔でプールから出た。

 ゆーりが千代美と二人だけで話したいと言うので、英会話のことだと思いつつ

事務室手前の掲示板を見に行くと、早速世界記録保持者桝井賢聖君引き続きトレーニングに毎週来場と張り出されている。

 片手落ちとは思ったが、ゆーりのことには触れないのが賢明だろうと納得してロビーに戻る。

 まだ二人で身体を寄せて話しているので、自販機のアイスを買って渡し、プールをしばらく眺めていると、ゆーりが賢のシャツを引っ張り、二人の向かいに座る。

 「こないだのFINAの副理事長さんの住所と名前判るかな?」

 「ああ、判るだろ。 教授に聞いてみるよ。」

 「月曜日、お願いね。」

 日曜日3時頃、佳織が連れて来た後も、ずっと机に向かっていた。


 教授が持っていたFINA副理事長の名刺をコピーさせてもらった後、学生課や教授宛てにTV出演等のオファーがかなり来ていて、結構なギャラの提示もあるが本当に全部断わっていいのか念押しされたが、煩わせて申し訳ありませんが総てそのようにお願いしますとお断りした。

 日曜日以来、ゆーりはずっと机に向かい、PCでしきりにメールチェックをしている。

 多分、千代美と英文の手紙を書いていると判ってはいたが、どうにもできない賢は、黙って見ているしかなかった。

 もう4日、それこそわき目も振らず英文の作成に没頭しているが、急に千代美に会ってどうしても相談したいことがあると言い出した。

 そのままにはしておけないので、千代美に連絡して、土曜日10時にゆーりの家で会うことにして、金曜夜ゆーりを自宅に送り届けた。

 母から1万の援助を貰い、この間のケーキを買ってのんびり歩いてゆーり宅に行くと、ほぼ同時に千代美も来て、早速ゆーりの部屋で相談を聞くことにする。

 「昼休みに図書室でこれをやってたら、怜奈が自分も少しは英語できるからお手伝いしたいって。」

 中学に挨拶に行った時の経緯を千代美に説明する。

 「あれから何回か話して、私がしてることを横で見てて、昨日そう言ったの。」

 ここが肝心と、遅ればせながら英文は解るが何をしているのか根本を確認のため聞いてみると、ゆーりがFINAへの御礼と、事も無げに答える。

 「千代ねえに教えてもらってるからいいんだけど、断わって変なことになってさ、いやっていうかもう怖い思いしたくないの。」

 ふーっとため息が出る想いで、短い言葉に滲む突然の不安に揺れるゆーりにいたたまれない気がして、二度とあの思いをさせてはならないと痛烈に思うが手立てはない。

 千代美が、持って来たアイス食べましょと、ゆーりと下に降りて行く。

 今のことを考えながら少し遅れて下のリビングに行くと、佳織も一緒にアイスクリームを食べていて、ゆーりが賢はこっちだねと缶ビールを出してくれる。

 3人の話を聞いていると、ここでどうこう言ってても始まらないので、会って話をしてみようということのようだ。

 ゆーりが電話すると30分で来るらしく、その時間になるとゆーりが門に出て行った。

 その隙に、ゆーりは千代美さんに気兼ねしてると念押しすると、解ってるわよと、充分承知のようだ。

 怜奈とゆーりが並んで来ると、身長が頭一つ違う。

 こんにちわお邪魔しますと礼儀正しく挨拶し、お土産ですとクッキーの箱を置いて、並んでソファに座る。

 ゆーりが皆を紹介すると、友達が居なくてゆーりが呼んでくれて嬉しいと、Gパンにポロシャツの怜奈が頬を染める。

 佳織が、また全員にアイスクリームとジュースを出し、クッキーを皿に出す。

 千代美が、9月に転入だそうだけど前のとこのお友達は居ないのと聞くと、ゆーりをじっと見た怜奈が、決心したようにぽつぽつと話始める。

 小学3年からアメリカのボストンに居て、高校入学の半年前に、両親の考えで祖父母の家に単身帰国して、ゆーりと同じ女子校に転入したという。

 ゆーりのことを知って友達になりたいと思い、自分は日本語はまだ上手くないが、ゆーりが英語で頑張っているようなので手伝いできればいいなと思ってると、ゆっくり確かめながら話す。

 話を聞いていた千代美が、突然英語で怜奈に話かける。

 驚く怜奈が英語で応え、英会話が始まったが、千代美のプリーズスローリーでゆーりも時々加わり、夫々の意思疎通が始まった。

 所々の単語は解るが、それで会話に加わるゆーりは一人で努力していたに違いない。

 それでもゆーりが小さく手を振ると、どちらかが日本語で説明しながら話が進んで行く。

 自分は引っ込んでいるべきとお役ご免にして、冷蔵庫から勝手にビールを出し、4人から離れて座る。

 ゆっくり2本目を空けたところで、4人がゆーりの部屋に行き、一人残った賢は更に2本空けると、さあお昼にしましょうと晴れやかな顔の4人が降りて来た。

 出前の鮨が届き、会話を聞いているとおおよその方向が理解できた。

 千代美のアドバイスは、会話はいろんな人とするのがいいが怜奈は汚い言葉を教えないこと、文章は女の子らしいものをサジェストするが、自分が必ずチェックするということで、ゆーりの心配を払拭しより機会を増やすことにしてくれたようだ。

 千代美の、思いやりと責任感がある大人の対応に感心して感謝せずには居られなかった。

 食事の間の会話は日英混じりあい、いささか不思議な空間になって、佳織も戸惑っているようだが、それでもゆーりが交じり合っていることに安堵感はあるようだ。

 食事の終わりに、怜奈が自分は日本語と国語を勉強しないといけないので、ゆーりにお願いと伝えて、不思議な会話の雑談になった。

 2時近くになって怜奈がお邪魔しました、楽しかったと帰宅し、千代美もジムのプールを明日に変更して、心配しないでと帰って行った。

 「ああ、安心した。 で、ね、ママお願いがあるんだけど。」

 「何かしら。」

 「自転車が欲しいんだな。」

 「ああそうね、小学校以来だね。 そうね、でもどこに置くの?」

 「賢のとこ。」

 「やっぱりね。 賢クン、いい?」

 「いいですよ。 使ってないのがあればいいんだけど、今は無いね。」

 「じゃあ明日午前中に賢クンの近くのSCで買いましょ。 乗っていけるでしょ。」

 「ゆーり、行動範囲が拡がるね。」

 「遠くに行くんじゃないんだ。 理香ねえと朝一緒に駅に行くの。」

 「そうだね。 今どんどん忙しくなってるからなあ。」

 ゆーりと出会って2年4ヶ月、賢の後ろを歩くか、賢との行動で何ができるかを見出すばかりだったのに、自分の可能性の扉を先ず一つ開けようとしていることが驚き以上に充たされるものがある。

 がしかし、自分が怠惰であってはいけないと論文の仕上げに集中し、12月初旬の提出完遂を目指す。

 3日後の火曜日午後4時、ゆーりの部屋に怜奈が居て、便箋4枚の手紙を書き上げたらしく、賢が呼ばれて行くと後から来た千代美が最終チェックをしてOKになり、やっと明日郵便局から投函できることになったようだ。

 しかし、ゆーりの部屋で女性3人が英会話でやりとりするのは実に不思議な空間だ。

 ゆーりがしゃべるのはまだ2割くらいだが、それでも臆せず2人がうまく引き込んでくれているようだ。

 それでも上達度は驚くほどで、自分には真似ができないと感心しないではいられない。


 ゆーりと賢のお祝いと感謝の会が、ホテルで11月3日土曜日19時に決まり、怜奈も入れることにして、母と佳織が考えた案内状をゆーりが作り、発送や手渡しが10月半ば前には終わった。

 桂介と賢の父が何度か会って、基本的な事を決めたようで、110名分の案内状になった。

 費用については、すねかじりの自分が心配してもどうにもならないので、一切口出ししないことにする。

 ゆーりが怜奈に案内状を渡した時は、私にと驚いたらしいが、一度家に来てと誘われ、賢の家に居ることを教えると更に驚いたらしい。

 お互いの家(ゆーりにとっては賢の家だが)に行くことは約束したらしいが、いつかは未定で、怜奈が来てもいいか聞くので、いつでもいいよと答える。

 最低週2回はアリーナに通い、少しは身体が維持できているが、それでもまだ重いというか、切れがない感触がある。

 しかし、身体を徹底的にいじめていないこともあり、今はこれでもよしとすべきだろうと思うことにする。

 それにしても、ゆーりが新課題にチャレンジし、新しい一歩を踏み出そうとしているが、以前の中一の記憶と傷を拭い去ることは無理としても蓋ぐらいはできてて欲しいと願わずにはいられない。

 「怜奈がここに来たいってだけどいいかな?」

 「いいけど、おふくろにも聞いてみて。」

 「解った。 そうする。」

 

 「うちは全然構わないし、歓迎よ。 でも一つだけ聞かせて。 近しくなって、以前みたいなことになったらって怖いことはないの?」

 「多分大丈夫だと思う。 賢が、少しは強くしてくれたから。 怜奈は出しゃばらないで優しいし、私が拒否したら、されたことをすることと同じだから。」

 「そうなのね、解ったわ。 じゃあいつでもいいわよ。 佳織ママには私から伝えておきましょう。」

 翌日大学から帰ると、見慣れない自転車があって、賢の部屋から英語の明るい声がする。

 「こんにちは、賢ニイお邪魔してます。」

 「よく来たね。 二人で英語なんだ?」

 「んーん、学校では違います。 ゆーりが教えてくれるの。」

 二人でうまく使い分けてることに、少し感心する。

 「いつでも来ていいですか? ママと理香ねえはOKだけど。」

 「勿論OKだよ。 自分ちと思っていいからさ。」

 嬉しいと賢に抱きつく。

 この時、自分の部屋を奥の未使用の部屋に移すことに決めた。

 翌朝母に伝え、大に手伝いに来てもらって机、ベッド、冷蔵庫もろもろを移動し、ゆーり一人の部屋にした。

 帰宅したゆーりが、どうしてと訝る。

 母が、夏休みまでだったのを延ばして、お友達が来るようになって、でも一番は貴女の生理が始まったことだから、これはけじめですよと諭すと、自分は構わないけどそうなのかなと納得はしたらしい。

 ここに居ても座るとこがないからソファを運ぼうと、やはり賢の新しい部屋に居る心算のようだ。

 この日の夕方、一人の老人というには矍鑠とした男性が訪ねて来た。

 怜奈の祖父で、内山秀雄という70過ぎの老人ではあるが、体格も大きくとてもその年には見えない。

 昨夜、佳織と桂介が内山秀雄宅を訪れ、ゆーりとの友達付き合いと、桝井家との交流について説明を受け、自分達も怜奈の友達について心配していたこともあり、ご挨拶とお願いに来たということだった。

 江川家とは昔からの知り合いで、ゆーりと友達付き合いするなら、当然桝井家と関わることになるが、二人が信頼している説明を聞き、よろしくお願いしますとの挨拶だった。

 母は娘の一人のつもりで接しますし、何かあれば連絡しますと動じる様子はない。

 桂介が自ら動いたことに、ゆーりに対する愛情と桝井家への信頼があればこそとしか思えない。

 賢は、ゆーりに怜奈という友達ができたので、同年代とのウェイトを上げて、自分との関わりのパーセンテージを下げてみようと、アリーナへの回数を増やし自分一人の時間を増やすことにする。

 二日続けて大学からアリーナに行って、納得するまで泳いで久し振りの心地よい疲労感に包まれて、夜8時に帰宅すると、夕食を終えたゆーりが賢の部屋に来た。

 「私との時間はもう要らないの?」

 泣きそうな顔で、直裁な質問だった。

 皆が居るところで話そうと、ゆーりをリビングに座らせ、ビールを出す。

 「怜奈来てたの?」

 黙って頷く。

 「ゆーりはね、自分の可能性に向かって進み始めてる。 いろんなことを考えながらいろんな事をしなくちゃいけない。 だから、僕のことでゆーりの大事な時間を潰させたくない。」

 「賢との時間があっての私なんだよ。」

 「確かにそうだね。 但し今迄はね。 今のゆーりは、二年前のゆーりと全然違うんだよ。 一人で出来ることが一杯あるし、これからはもっとそうなる。 だから自分のために時間を大事にしなくちゃいけないよ。」

 「もう賢と一緒に居れないの?」

 涙が双眸から流れ落ちる。

 「そうじゃないよ。」

 「私もそう思うわ。」

 母がゆーりの横に座った。

 「貴女は賢に真正面から向き合って、賢はしっかり受け止めたわ。 賢が言ったでしょ、ゆーりは成長してるのよ。 だから、お互いの時間の質が変わるの。

 要はお互いのスケジュールを調整すればいいだけのことでしょ。 そしてゆーりは自分のためを優先することでいいんじゃない。」

 「そうなの、賢?」

 「そうだよ。」

 「でも賢と一緒に居たいよ。 賢が居てくれるからできるんだもん。」

 「ゆーり、賢は賢でやるべきことがあるでしょうから、二人で話し合いなさい。

 お互いが居なくなるんじゃないんだから。」

 「身体はグッドプロポなのにさ、心はまだおちびさんなの? ゆーりならできるよ。 みんな一緒に居るからさ。」

 「理香ねえ、ありがと。 お願いだよ。」

 一段落だとビールを出すと、まだべそをかきながらチーズとサラミを出してくれる。

 「明日も行くの?」

 「うん、そのつもりだけど。」

 「じゃゆーりも行く。」

 「今はさ、競争してるんじゃないし、自分の体調管理だよ。 プライオリティゼロじゃん。 自分の時間にすれば?」

 「いや、明日は一緒に行く。」

 「了解、お嬢様。 じゃなくてマイベストコーチか。 でもちょっと我儘かもな。」

 「我儘は余計だよ。 ベストコーチ様でいいじゃん。」

 怜奈との時間が濃密になりすぎないために薄めるのもありかと、学校終わってすぐからかなと大雑把にしておき、お湯割りに変えた。

 つい二ヶ月前と同じに、Gパンポロシャツに道具を入れたバッグを持って駅まで並んで歩く。

 わずか二ヶ月しか経っていないのに、もうずっと以前のことような気がする。

 「汗びっしょりで通ったよね。 なーんかあったことが嘘みたい。」

 「ホントそうだね。 でもゆーりも俺も通過点だ。」

 ゆーりがアリーナで大歓迎で迎えられ、賢はマシンで30分のトレ後プールに飛び込んだ。

 バック、クロール、そして平泳ぎと400づつ流す。

 いつの間にか、ハーパンに着替えたゆーりがプールサイドでじっと見ている。

 ロケーションは二ヶ月前と変わらない。

 一瞬、あの記録を出す前の時間に戻りたい思いで、平泳ぎで200突っ込んだ。

 あの時の身体を流れる水の速さにはかなり違いがあるが、身体の上下動は思ったほど殆どではない気がする。

 タッチした賢をスタートブロックでゆーりがじっと見ている。

 プールから息を吐いて上がる賢とサイドの椅子に座り、黙って問いかける。

 「バクチだろ。」

 「バクチって?」

 「ギャンブル。」

 「どうしてギャンブルなの?」

 「やってみなきゃ解らないし、やってみても解らない。」

 「賢はワールドレコードって根拠持ってるよ。」

 「まぐれかもね。」

 「2回まぐれは無いよ。」 

 しばらく黙って考える。

 「賢、ほんとに終わっていいの?」

 「ゆーりが心配してくれてるのは良く解るよ。 だけど、今はそのことは考えない。 身体のために泳ぐだけだ。 」

 「賢にさ、なーんにもしてあげれないよ。」

 「久し振りの場所でさ、久し振りで二人だから難しいことは止めようよ。 俺もう一回。」

 8コースをバック、クロール、平で泳ぐ賢を、サイドで両手両膝を着いたゆーりがただ眺めている。

 薄暗くなったアリーナ外のベンチで、少し涼しいそよ風に吹かれながらアイスを食べている。

 10月半ば過ぎだが、全然冷たさはなく、身体に心地良い。

 「久し振りにみんなと会ってどうだった?」

 「喜んでくれて嬉しかった。」

 「そうだよね、世界№1のコーチだもんね。」

 「賢だからだよ、他の人にはできないもん。」

 「いいや自信を持っていいよ。 ゆーりの眼とサジェストがあったからこそだから。」

 「大きな大会に出なくていいの?」

 「うーん、整理が全然出来ないんだ。 どうしていいか解らないし、暫く今のままかな。」

 「ねえ、どんなことでもいいから私に全部話して。 聞くからさ。」

 「そうだね、近いうちにね。 お腹すいたろ、何か食べようか?」

 「ツーママの御飯がいいから帰ろ。」


 11月3日土曜日、二人のお祝いと感謝の会の日になり、午後タクシー2台に家族全員でホテルに向かった。

 ほぼ同時に怜奈も一緒に佳織たち4人が到着し、リザーブしてあるスイートルーム2部屋を女性用と男性用に分けて使用する。

 桂介のいつものいかつい顔が、今日は柔和に緩んでいる。

 母と理香、聖、佳織がホテルのケータリング担当者と確認の打ち合わせをしているが、賢は特別することもなく、桂介、父と一緒にビールを舐めていた。

 隣の部屋では、ゆーりと怜奈、早めに来た千代美と3人で何かを話している。

 一寝入りして理香に起こされ、シャワーを使い、スーツにネクタイを締めて一時間弱前の会場に行くと、受付に大とドク、佳織と母が居て、来場者にネームプレートを渡している。

 ご祝儀等は二人でお断りしているようだ。

 会場内はゆったりした6人掛けの丸テーブルが20卓以上用意され、桂介が依頼したらしいクラブのママと女性達10人以上が、派手でないスーツ姿で来場者をテーブルに案内して、昂太郎が映像プロジェクターの微調整をしている

 もうあちこちで挨拶や談笑が始まっていて、賢はとりあえず一通り挨拶して廻る。

 ゆーりは、濃紺のスーツに薄いピンクのブラウスの開いた襟元にネックレスを着けて、黒のスーツの怜奈と並んで、自分の席に座っている。

 「緊張してる?」

 「全然。」

 「すごい人数なんですね。」

 「百人ちょっとかな。 遠慮なんかしないで沢山食べてね。」

 「はーい。 楽しみです。」

 時間前に全員が揃ったので6時50分に始まった。

 「只今から、桝井賢聖と江川優里愛のお祝いと感謝の会を開会させて頂きます。 本日はお忙しい中、皆様にご出席戴きまして誠に有難う御座います。 私は、主賓の桝井賢聖の妹で、同じく主賓の江川優里愛の姉代わりの桝井理香と申します。 拙くはありますが本日の司会を勤めさせて頂きます。 どうぞ宜しくお願い致します。」

 理香ちゃんうまいぞと、ビデオを撮る大が声を掛ける。

 有難うと理香が小さく手を振り、会場の雰囲気が一変しぐっと柔らかくこなれた。

 「ちょうど一年前の今頃、兄の200m平泳ぎ日本新記録を祝う会を開催いたしました。 そして一年経ちました今日、兄賢聖の100mと200m平泳ぎ二つの世界新記録、そしてそれ以上にゆーりのコーチとして世界水泳連盟の表彰のお祝いができますことに、支えて戴きました皆様にご報告と感謝の会を催させて戴けますことは御礼の申上げようもございませんが、感謝の心をお汲み取り戴ければ幸いで御座います。」

 大きな拍手が起こる。

 「今日は勝手ながら、兄の二つのワールドレコードよりゆーりのコーチとしての表彰トを中心に進めさせて戴きます。 それではお二人、前にどうぞ。」

 二人で前に出て、賢が御礼を述べ感謝を表し、理香の司会のこともあり、それだけで自席に戻る。

 さあ頑張って、ゆーりの番だよと理香が腰を掴んで、168の理香と、今は171のゆーりが並んで頷きあう。

 「2年前の自分からは今の私は想像できませんでした。 でも今、私は生きているし、夢、希望があります。 みんながそうしてくれました。 有難う御座います。 もう泣きません。 喜びの涙は出ると思いますが、悲しみの涙は流しません。」

 笑顔でゆーりが挨拶を終えた。

 拍手が鳴り止まない。

 昂太郎がプロジェクターに練習風景、レース、認定証授与式を映し、理香が解説を入れる。

 12分の映写後、佳織が締めの挨拶をして、賑やかな宴会が始まった。

 中華のコース料理が出されるが、後ろと両脇に設置された出店でも料理が用意される。

 賢はゆーりを伴い、全部のテーブルに挨拶をして廻った。

 グラスを差し出す人も居るが、先ず御挨拶ですからと理解してもらってゆーりを解放した。

 ゆーりは怜奈と千代美の間の席に戻り、二人の手を引き出店の料理を取り始めた。

 それでは祝いのグラスは全部受けるぞと覚悟を決めて、ネクタイを緩め、Yシャツの首ボタンを外し、自分の席に戻ると同時にグラスを持たされ、入れ替わりビールやシャンパンが注がれるが、両脇の桂介と父が巧みにグラス替えをしてくれて、クラブの女性が速やかに始末してくれる。

 30分ほどお祝いを受けて、写真を撮られたりしたが、お陰でグラスは舐めるだけで殆ど腹に入っていない。

 ふっと見上げたプロジェクターのスクリーンに、エンドレスで映るレースが眼に入った。

 自分が泳ぐワールドレコード映像は初めて見る気がするが、思わずじっと見入ってしまう。

 こんなにして泳いだんだと思うが、水が気持ち良かった記憶が殆どで自分のフォームを映像で見るのは新鮮な驚きがある。

 ふっと思い直し、御礼の会だから俺がみんなの相手をしなければと廻りを見渡すと、家族と江川家が各テーブルで相手をしてくれている。

 まだまだ修行が足りないと妙なところで思い知らされ、ちゃんとホスト役を果たそうと立ち上がりかけると、予想外なことに怜奈が横に来て少し食べてと、鱶鰭のスープをよそってくれた。

 ゆーりを見ると、大勢に囲まれて賑やかに写真を撮られたりしている。

 知っている人が居なくて、ましてこういう席でどうしていいか解らないのかもしれないとちょっと可哀想になった。

 よし、怜奈と一緒にいてやろうとスープを流し込んで、おいでと手を引く。

 教授と、先輩後輩の間柄の宗元部長とドクが座るテーブルに行き、ドクの隣に怜奈を座らせ、ゆーりの同級生の友達ですと3人に紹介する。

 おずおずと宜しくお願いしますと挨拶する怜奈に、ドクが少し食べようと出店に連れて行った。

 即、全日本、世界選手権を期待すると宗元部長の話が始まった。

 水割りを三つもらい、黙って聞き流していると、お皿を両手に持った二人が戻り、更にホステスの女性が皿を置いてくれた。

 ドクと怜奈がおいしいとお肉や握りを食べるが、ドクに水割りを渡すのは忘れない。

 「桝井君、去年のインカレで日本新、今年のインカレでワールドレコード、これだけでエントリーは充分じゃないかね。」

 教授は何も言わない。

 「ドクとも話したが、真面目な君のことだから出るなら記録という責任感があるんじゃないかな。 今のタイムに近ければ充分勝てるよ。 必ず記録なんて思わないでオリンピックだって楽勝で金だろう。 勿体無いよ。 みんな期待してる。」

 今は整理ができなくて、何も考えられないと水割りを舐める。

 「先輩、出るように説得して下さい。 オールサポートしますから。 やれるんだし、やるべきですよ。」

 怜奈を立たせて、他に挨拶をと席を離れ、自分の席に戻ると誰も居ない。

 水割りを貰い、テーブルの料理を二人で食べながら、怜奈が、ゆーりがコーチで私が通訳でオリンピック行けたらすごいですねとさらっと話かける。

 確かにすごいが、競う俺が一番大変だと頭の中だけで返事した。

 「御免なさい。」

 「ん、どうした?」

 「大変な賢ニイのこと考えないで、変なこと言っちゃった。」

 「そんなことないけど。」

 「ううん、状況も知らないで余計なことだから忘れて下さい。 お願い。」

 「いいよ、気にしてないから。 それより、そのスーツ買ったの?」

 「そう、ゆーりに来て貰ったの。 可笑しい?」

 「いいや、結構大人っぽく見えるよ。」

 両親、特に母親が居なくて辛いこともあるだろうなと、ふと怜奈の淋しさに思い至った。

 「なんか困ったら、うちで理香でもおふくろでも相談すればいいよ。」

 「ゆーりから聞いてます、ツーママなんだって。 でもなんかゆーりに悪くて。」 

 「困ったらしょうがないよ。 怜奈、相談できる人いないんだろ、ゆーりはそんなこと気にしないと思うよ。」

 「有難う御座います。 助かると思います。」

 「それよりさ、そのですます止めてくんねえかな。 何か疲れるからタメでいいよ。 理香やおふくろにも言っとくから。」

 「うわ、いいんですか?」

 「違うだろ。」

 「解った、そうする。 ありがと。」

 女性に水割りを貰い、怜奈に食べるように勧める。

 どうした、呑もうぜと大と昂太郎が横に座った。

 プロジェクターには昨年の日本記録と今年のワールドレコード時の映像がスローモーションで写し出されている。

 二人に怜奈を紹介すると、立ち上がって丁寧に挨拶するが、タメでいいよと座らせる。

 

 

 


 


 

 

 

 

 

 

 


 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 



 

 

 

 


 


 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 


 

 

 


 


 




 スーツにノータイで、昼前にタクシーで大学に行き、教授と昂太郎を乗せて、渋〇の先の水連に向かう。

 タクシーを降りて、ゆーりはどこかと眼で探しながら建物に近づく。

 賢はあちこち見回して探していると昂太郎がこっちと手を引っ張り、ビルに入りロビーのソファの横に立っている黒いスーツの女性がゆーりだと解るのにかなりの時間が必要だった。

 教授は黒いスーツの女性に歩み寄り、似合うね、見違えるよと気さくに話す。

 昂太郎はちょっと離れて、ビデオを撮っている。

 黒いスーツの女性が賢の前に立ち、どうおかしくないと聞かれて、やっとゆーりだと気が付いた。

 ぴたりと身体にフィットした膝上丈の黒いスーツに胸元が少し開いたブラウスからプレゼントのネックレスが見え、ストッキングにヒールが少しあるパンプスを履いている。

 身長が168だった筈だが、少し伸びたのか見事にすらりとしている。

 「見違えて判らなかった。」

 「いやじゃない?」

 「全然だけど、いやあ、まさかでさ。 驚いた。」

 ゆーりが耳打ちしようとしたので、少し腰を折る。

 「今初めてブラしてる。」

 小さな声で囁く。

 はっとしてゆーりの胸を見たが、キャミを着ているようで、膨らみらしきところしか判らない。

 何か変な感じと、ちょろっと舌を出す。

 はあと小さなため息を出したところで、女性がお待たせ致しました、こちらにと4人を案内する。

 かなり広い部屋で前の両横に日の丸やいくつかの旗が並べられ、後方には10台近くのカメラが並んでいる。

 正面に向かって、教授、賢、ゆーり、昂太郎の順に座り、只今から日本水泳連盟の認定証授賞式を開始致しますのアナウンスで始まった。

 インカレの100m平泳ぎの映像が映され、日水連、FINA連名の認定証と表彰状を賢が受取り、200m平泳ぎも同じように受領した。

 最後に異例ですが、この二つのワールドレコードに敬意を表し、このレコード達成に大きく貢献されたコーチの江川優理愛様に、日水連、FINA連名の感謝状が贈られます、江川優理愛様前にどうぞとアナウンスがあった。

 思わず二人で顔を見合わせると、賢の時以上に全体から盛大な拍手に包まれた。

 二人で呆然としていると、女性がゆーりの手を引き、前に立たせた。

 日水連理事長が感謝状を読み上げ手渡し、更に記念品が贈呈されますのアナウンスに、女性が状紙を引き取り、FINAの外国人女性役員からメダルと公式計時メーカーの時計が渡され、抱きしめられて何か会話を交わしたようだった。

 色白のゆーりの顔が、ほんのりピンクに染まっている。

 式が30分で終わって、控え室に移り10分後に式場でのインタビュが始まった。

 冒頭、お願いした挨拶の時間を頂くことができた。

 賢が立ち上がり、盛大な授与式にお礼と、コーチに対する日水連とFINAの心温かい粋な計らいに心からの感謝を述べ、ゆーりを立たせて二人で有難う御座いますと言い終えると盛大な拍手があり、インタビューに移った。

 その時の気持ちとか、トレーニング方法とかに丁寧に回答したあと、ある女性記者からゆーりのコーチはどういうことをしたのかの質問が出た。

 彼女は自分のフォームを見抜いていて、彼女の指摘どうりに泳ぎ、心の在り方が自然体であること、この二つを徹底して伝えてくれた結果であることと、彼女が居てくれたからの結果であることを説明する。

 ではお二人はどういう関係なんでしょうかと、畳み掛ける質問に、進行役がそれはプライベートに触れますのでと制した時、ゆーりがすっと立ち上がった。

 私は、彼に命を助けられ、更に勉強やいろいろなことを教えてもらい、その命を大事にするために私に出来ることをしました。

 自然体であることは、命を大事にするために彼が教えてくれたことであり、私は二人でそうあるようにしましたと答えると、うおーっとどよめきが起こった。

 来年は五輪ですが、金メダル確実ですねという質問が出た。

 来たなと受け止めて、腹に力を入れる。

 座ったまま、とても五輪は考えられませんとだけ答える。

 またざわめきが起こるが、実感が無く、何にも考えられませんと付け加えると、まあそうでしょうねという好意的な返事が出たところで、進行役が以上でインタビューを終わりますと締めると、拍手で送られ控え室に退出する。

 座るとアイスコーヒーが置かれたが、賢は心配でゆーりに大丈夫と聞くが、ゆーりが顔をしかめている。

 ゆーりの前に肩膝を着いてしゃがみ、肩に手を置いて、もう一度大丈夫かと下から覗き込む。

 ゆーりが賢の耳元に囁いた。

 「ブラが。 胸と背中が痒い。」

 思わず、頭がゆーりの膝頭にがくっと落ちた。

 心配した教授が、君たちはもう帰りなさいと水連からの二つの紙袋を賢に持たせて送り出してくれた。

 教授と昂太郎は、打ち合わせと幾つかの確認をするためにもう少し残るとのことで、挨拶を済ませ、ハイヤーまで歩くのにゆーりの背中に左手を添えると、そこ痒いと見上げるのをなだめて車に押し込んで自宅に戻った。

 ただいまーとぴっちりしたスカートを引っ張り上げて駆け込み、リビングに入るといきなり服を脱ぎだした。

 母が笑いながらこっちでしょと、ゆーりを風呂場に連れて行く。

 賢は自室で着替え、リビングのテーブルに授賞したものを拡げていると、バスタオルだけを巻いたゆーりが2Fに駆け上がって行く。

 「正式に認められたのね。 ほんとうにおめでとう。 ゆーりが一緒に表彰されたのが有難いし嬉しいわね。」

 「知ってたの?」

 「いいえ。 佐山先生から佳織さんに服のアドバイスがあって、土曜日理香と4人で買物に行って、服とブラや下着を買ったのよ。 佐山先生はご存知で服のことを教えて下さったと思うわ。」

 「そういうことか。」

 又も自分が蚊帳の外であったが、怒りなどは毛頭無く、教授の心遣いに頭が下がる想いがする。

 ハーパンTシャツのゆーりが降りて来て、ああすっきりしたと賢の横に座った。

 ゆーり、ママに電話しなさいと注意して賢はビールなのと飲み物と果物、ケーキを出す。

 有難うございまーすと一人乾杯し、メダルと記念品をゆーりの前に置くと、電話を切ったゆーりが、ママ泣いてた、なるべく早く来るってと、記念品を開く。

 オOガの最新らしい女性用で、FINAのL8というシリアルナンバーが刻印されている。

 眼に見える形で、ゆーりへのメモリアルウォッチがあることが、自分のこと以上に嬉しかった。

 翌日、昼前にクッキーを持って教授室に行くと、僕にそういう気遣いは要らないから、事務室に上げなさいとにべもない。

 「教授、ゆーりへの感謝状と記念品は教授から水連にお願いされたんですね?」

 「私はゆーり君のコーチ振りと優秀さを説明しただけで、何もしとらんよ。 そんなことより、昨日ゆーり君の具合は大丈夫だったかね? 心配したが。」

 「深遠なご配慮、心から感謝します。」

 その後、どうしようか迷ったが正直に伝えることにする。

 「実は、昨日初めてブラジャーをしたとのことで、胸と背中が痒くてどうしようもなかったようです。」

 一瞬あっけにとられた教授が、厳かな顔つきになった。

 「なるほど。 我々男どもには窺い知れぬ未知の領域の問題だな。 なるほど、そういう問題があるんだね。」

 クッキーを事務室に渡し、昂太郎を探し、大と3人で昼食を摂った。

 教授が、二つの競泳と表彰式その他の映像を交渉して貰えることになっていることも聞かされた。

 ますます頭が上がらない気がするが、昂太郎によれば飄々とした話しぶりで、大したもんですねと感心している。

 どうしてもという思いがあり、桂介の帰宅を確認して翌日の夕方、賞状を持って、ゆーりの家に二人で向かった。

 呑んで食事をしながら、総てを報告すると、一つ一つを確かめながら桂介の眼が潤み圭子は泣いている。

 ゆーりが自室に席を外した機に、先日の30万について聞いたが、桂介が野暮は言っこ無しだと、このことについては取り付く島が無い。

 ついでにあることを頼もうかと思ったが、今それを言うのは付入るのと同じだと思い留まって帰宅した。


 自分のリズムを学生ペースに戻し、ゼミと卒論、ゆーりと理香のサポートに追われる日常に戻ったが、まだ引きずっていることが幾つかあった。

 新記録にお祝いや祝電、電話を頂いた方を母は記録していて、祝賀会兼御礼会の招待者リスト作成を命じられ、江川家では佳織が整理して摺り合わせが必要になってきたが、賢は教授、昂太郎、大にだけは独自で呑み会を持ちたい気持ちが強かった。

 図々しさを承知で、千代美に、3時の桂介のアポを取ってもらった。

 お願いばかりですが、教授、昂太郎、大に個人的にせめて食事の御礼をしたいので、支払いは自分で先日の鮨屋を使わせて欲しいと頼んだ。

 にゃっと賢をみて、一向に構わんよとの返事と同時に千代美が電話のボタンを押し相手を確認して、子機を賢に渡す。

 用件を伝えると、少しの沈黙の後、それではお一人10万頂きましょうという返事に、思わず10万ですかと聞き返した。

 桝井さん、気持ちは解りますがね、こういう訳で会長の顔で呑ませてくれってそれだけでいいんですよ、承りますいつですかと切り返された。

 グーの根も出ず、来週金曜日ですと答えるのが精一杯だった。

 恐れ入りますと、桂介に素直に頭を下げた。

 そんなことはいいが、私こそ教授や皆さんに御礼をしなければならんのに、私が入るとかえってお気遣いされるだろうから遠慮するが、その後はこの前の店のどちらかでご一緒したいから店に着く頃連絡するようにと、そこまで気を使ってもらうことになってしまった。

 他にどうしても聞きたいことがあるから、明日鰻の昼飯を一緒してくれと頼まれ、まだまだ独りよがりで、先の読みが甘いとつくづく身にしみた一日になった。

 翌日、12時に桂介の会社に出向き、鰻屋まで10分ほどゆっくり歩いて、個室に座った。

 山葵の白焼で小ジョッキ1杯に留める心算だ。

 「君には感謝の限度は無いが。 そのことは別にして、聞きたいというか教えてもらえないだろうか?」

 「何でしょうか?」

 「ゆーりは、これから何を目標にするんだろうか? 進むべき前が見えているか心配でね。 君が居てくれるとは思うが、自分を見失うことがないか、どうだろうか?」

 肉親とはいえ、鋭い見方をしていると恐れ入る。

 「ゆーりは賢いし、自分をしっかり見つめています。」

 「そうであってくれと願っているよ。」

 「ゆーりが求めていることは解っていますが、それはちょっと僕にもどうにもできません。ですが、方法はあります。」

 左手でテーブルをおさえ、桂介が賢を見据える。

 「いやこういう言い方は失礼でした。 ゆーりは英会話ができるようになるという目的を持っています。 感謝状授与で、FINAの女性役員と短い会話しましたが、インタビューで、外国プレスを通訳してもらったことと、英語で返事できなかったことがとても悲しかったようです。」

 「英会話かね?」

 「松岡社長の水泳ジムで、土曜日、今井さんとの英語時間がゆーりの心に沁みこんでいましたが、今はできていません。」

 「なるほどそういうことかね。」

 「これは僕の想像ですが、ゆーりは、何と言うか狭い殻を飛び越える視野と意識を持っています。 これはむしろ真っ先に自分が見習うというか、率先しなければいけないことなんですが。」

 しばらく黙った桂介がブザーを押して、肝焼きとビールのお代わりとを追加し、鰻重と一緒に運ばれてきた。

 「プライオリティとしては最優先にしよう。」

 肝焼きと冷えた生ビールがうまい。 

 「ゆーりはしっかり前を見ています。」

 「助けてくれたのが君で良かった。」

 「俺が教えることができれば一番いいんですけど、アウトです。 俺もゆーりと同じで、英会話できるようになりたいんですよ。」

 「正直に有難う。 で、ゆーりは今井君がいいんだろうか?」

 「滑らかに溶け込んでるようですが、今井さんがどうかは解りません。」

 「彼女の良さを見抜けなかった節穴になるかな?」

 「いえ、今井さんの年齢も。 これは重々無礼を承知のうえです。 ですが教え方というか、俺もそのロケーションで楽しいですよ。」

 「やっと垣根を越えて、俺と言ってくれたな。 課題は考えるから知恵を貸してくれないか、頼む。」

 「はい、大した知恵はありませんが、ゆーりが社会人として自立するまでずっと見ます。」

 鰻重を腹に入れて、店の前で別れた。

 自分の勉強と、ゆーりと理香の相手をしながら、明後日夜、外で食事することを母に伝えると、あら、じゃあその日は女性だけのお祝いをしましょうと嬉しそうで機嫌がいい。

 教授への敬意のつもりで、ノータイだがYシャツにスーツで、8時に銀〇の本屋で待ち合わせして、4人で鮨屋に入った。

 謝罪しようとする前に、お互い野暮は無しでと、カウンターに座らされた。

 お話は個室のほうがいいんでしょうが、召し上がって頂くにはここが一番いいんでと、同時にお絞りと生ビールが出された。

 3人に、本当に有難う御座いましたと乾杯する。

 早速肴が出るが、昂太郎がカウンターは初めてなんでどうやって食べればいいのかなと呟くのに、好きにしてもらっていいんですが、肴は箸、鮨は手でもどっちでもいいですよとさりげなく教えてくれる。

 今日も絶妙のタイミングで、教授と我々の量も考えて肴が出される。

 途中でお湯割りに変え、握りまでしっかり食べて鮨屋を出た。

 もう一軒、ゆっくり話せる処にと桂介と行った最初の店に向かい、桂介に電話をした。

 ドアボーイが中に入れてくれて、スーツの男性にどちら様ですかと聞かれた。

 名前を答えるが、どなた様のご紹介ですかと又質問で返される。

 江川さんですがママさんはと訊ねると、まだですとだけの返事でどうしようもないので、3人に断わって外にでた。

 時間は10時前だった。

 教授が安いバーなら知っているからそこにと取り成してくれるが、もう一軒ありますからとしばらく歩き、2軒めのドアを開ける。

 名前も言わないのに、いらっしゃいませと奥に案内され、そこでまた桂介に電話を入れた。

 すぐにママが来て挨拶し、それぞれ好みを聞いて、スーツの男性にあれこれ指示をしている。

 水割りと肴が用意され、ゆったりとしたソファであらためて乾杯する。

 よろしければご紹介をママに促され、3人を紹介すると、ワールドレコードチームですね、お越し頂いて光栄ですと心から喜んでくれているようだ。

 鮨もそうだがえらい店だなと、大が耳打ちするが、すぐ判るからと説明はしない。

 その時々の話をしていると、30分ほどして桂介が入ってきた。

 「今日は気持ちよく食べて呑んで頂く心算でしたが、先ほどは不愉快なことで何とも申し訳ありません。」

 そんなこと全然ありませんよと、大が手を振り、昂太郎も頷く。

 「江川さん、私はどうしても貴方に直接お話しておかなければいけないことがありまして、普段なら辞退するところですが、貴方の御持て成しの席と承知で参りました。」

 「有難う御座います。 私こそ、どうしても御礼をと思いまして。」

 桂介の携帯が鳴ったが、失礼と中を見ただけで閉じてしまう。

 「桝井君は凄い記録を二つも達成しました。 これは、彼の努力の賜物ですが、ゆーりさんが居なくては成し得なかったことです。 ですから、せめて何等かの表彰をと思い、私は日水連とFINAに彼女の努力を何らかの形にして欲しいと働き掛けました。」

 「やはりそうでしたか。」

 「桝井君を前にして、彼にはいささか申し訳ないが、ゆーりさんの一心同体ともいえる努力と頑張りに何か報いてあげることはできないか、それだけでした。」

 「そこまでして頂いただけで、感謝の言葉もありません。」

 「そして、正にこれだけの二つの世界記録ですから、FINAは真摯に受け止めてくれまして、独自で調査をしてくれました。 日水連を通しての調査と、この二人が撮った練習時のビデオ等を提出しましたが、コーチ帯同としての聞き取り調査や、裏付の確認も慎重にしたようです。」

 また桂介の携帯が鳴って、かけるなと渡されたママが席を立つ。

 この電話がさっきの店のママからで、その店が10ヶ月後に閉店になることは、この時の賢には知る術も無いことだった。

 「そして、その結果として表彰状とメダル、時計が贈られました。 ですが、私にしましてもメダルと時計は全く想定外でした。 そういうものがあることさえ知りませんでしたし。」

 桂介が、一言ビールと頼み、すぐに冷たいビールが注がれ、思わず5人で一気に流し込んだ。

 「時計のL8というシリアルナンバーは、水泳に貢献された世界の女性に贈られるもので、ゆーりさんは8人めです。 今までの7人は全員世界記録を出した女性で、コーチとしてはゆーりさんが初めてです。」

 「教授、それは本当ですか?」

 「FINAは、彼等の独自の調査により、ゆーりさんの業績を認めました。 そしてその証として感謝状、公式認定証とメダル、そしてシリアルナンバー8のWSO認定時計をゆーりさんに贈呈しました。 しかも、女性副理事長が来日して自らゆーりさんに手渡したのです。 ゆーりさんは、この栄誉を自分の手で勝ち取ったのです。 見事です。 認めて、讃えてあげて下さい。」

 黙って聞いている桂介が、唾を飲み込むごくりという音が聞こえた。 

 「私は、当日まで表彰状が贈られることしか聞かされていませんでした。 ただ、必ず出席することと、スーツでとのアドバイスだけはありましたが。 まさかこれだけの物が贈られることは知りませんでした。 メダルの裏には刻印と、贈呈に至った経緯とFINAの評価の公式ペーパーが添えられています。 そして近々、FINAはこのことを発表するようです。 尤も、今お話したことは、二人が帰った後に説明を受けたことです。 江川さん、ゆーりさんを誇りに思って、褒めてあげて下さい。」

 桂介は、教授を見つめて涙をぼろぼろ流している。

 賢でさえ、初めて知らされたことだった。

 ママが、ハンカチで眼を押さえながらスーツを呼んで耳打ちした。

 静かにシャンペングラスが並べられ、シャンペンが2本デキャンターで用意された。

 栓が抜かれ、ママがグラスに注ぐ。

 会長、乾杯でしょとママが促す。

 立ち上がり、涙も拭かず、有難う御座います、ゆーりに乾杯とやっと声を絞った。

 皆、ゆーりおめでとうとグラスを干す。

 桂介はお絞りで顔を押さえ、肩を上下させて言葉がない。

 知っていたなと昂太郎に聞くと、全部英語で理解できなかったと小さい声で答えた。

 「江川さん、それに桝井君、全部お知らせして責任が果たせて肩の荷が降りました。」

 「まさか、そんなことが。」

 「FINAが、到底ここまで真摯で粋なことをするとは想像できませんでしたが、桝井君はツーワールドレコードホルダーで、ゆーりさんはワールドレディですね。」

 「有難う御座います。」

 教授が、桂介とがっちり握手した。


 0時過ぎに帰ると、ゆーりはまだ起きていて、大事な話があるからと賢をソファに座らせる。

 お土産のケーキをテーブルに置き、前に正座したゆーりの話を待つ。

 「わたし、女の子から女性になったよ。」

 ん、と意味が解らずゆーりの次の言葉を待つ。

 「解った?」

 「ん、いやどうしたの?」

 「もうー。 生理があったの。 女性になりました。」

 少しのタイムラグの後、そうかと、まだだったのかとが入り乱れ交錯した。

 「おめでとう。 そうか、良かったね。」

 「今日お祝いしてもらったの。 でも何かちょっとめんどくさいかもかな。」

 「身長、バストも大きくなってんだよね。」

 「身長は170、バストはよくわかんないけど、幾つかのCだって。」

 おめでとうと言いながら着替えて、ゆーりにFINAからの贈呈品を持たせて、皆がいるリビングに降りて、お土産のロールケーキを渡し、渇いた喉にビールを流し込む。

 今ゆーりから女性としておめでたいことを聞いたけど、僕からもおめでたい報告があると、さっき教授から聞いたことを正確にみんなに話した。

 父母は、そんなに凄いことなんだと感心し、聖と理香は認定証やメダルの裏を確認して読んでいる。

 けろっとしているゆーりに、ワールドクラスの凄いことだよと念押しするが、本人は頭の後ろに手を組んで遠くを見ている。

 水割りを二つ作り、一つを父の前に置いて、ゆーりの向かいに座った。

 「賢と一緒だからこそできたんだし、もう終わったことだしなあ。」

 簡単に終わったことって言えることじゃないよと、理香がたしなめる。

 どれだけの栄誉か、ゆーりまだ解ってないんじゃないのと聖美も心配するが、本人は遠くを見て何か考えている。

 とてもおめでたいことが二つもあったことが解ったところで、もう休みましょうと母が引き取り、各自部屋に戻った。

 賢はシャワーを使い、PCの明かりだけで水割りを呑んで寝た。

 翌土曜日、いつものように起きて朝食後、ゆーりに贈呈品を持たせて自宅に連れて行って、自分だけすぐ帰って来た。

 賢の意図を見抜いているのか、母は何も言わない。

 自室のソファに引っ繰り返り、これからのことについてプライオリティをぼんやりと考えてみるが、以前のいつかの時のように、ゆーりのことしか浮かばない。

 ペーパーに書き出すことも思ったが、結局同じことだろうと横着に済ませる。

 ゆーりも居ないことだし、今日はOFFと冷蔵庫の缶ビールとミニサラミを取り出し、

微かな後ろめたさを押さえつけ流し込むと、女性3人に洗われドライヤーされた猫3匹が、フローリングに寝そべった。

 そのまま眠ってしまい、ぼーっと眼を覚ますと1時間近く経っていたが、まだ昼前だ。

 冷たい水で顔を洗い頭をしゃきっとさせると、ゆーりが居ないからといって勝手に怠けちゃいけないと思い直し、デスクにノートを広げPCに向かい論文を進めた。

 50分論文、10分柔軟体操で、詰まるとゆーりと自分の水泳に関するニュース等を拾い集め気分転換しながら没頭していると、もう夕方6時を過ぎていてふっと身体の力を抜き椅子に寄り掛かり横に眼をやると、チーコだけがソファに寝そべっている。

 チーコにおいでと声をかけて下に行くと、母が一人リビングで新聞を読んでいる。

 ゆーりが居ないし、理香と貴方も勉強だったから静かだったわと、のんびりしていたようだ。

 2Fの自室で、携帯が鳴る音が小さく聞こえて、ゆーりからよの母の声をあとに、上に駆け上がる。

 「ゆーりが、理香と一緒に晩御飯食べに来てだって。」

 「あら、いいじゃない。 行ってくれば。」

 「せっかく家族水入らずにしとこうと思ったんだけどな。」

 「それは解ってたけどさ。 チームメイトも一緒に話をしたいのよ。 でも理香はどうかしら? これ、お土産に持って行きなさい。」

 理香は机上のノートに頭を載せて寝ていた。

 おおい理香、起きろと肩を叩く。

 ああ寝ちゃったんだと身体を起こして、大きく伸びをする。

 ゆーりが、二人で晩御飯にってだけどどうすると聞くと、ちょっと待ってと顔を洗いに行く。

 リビングに来た理香が、昨日ゆーりとあのケーキ食べたいねって話したんだけど、おにい買ってくれるとねだるのをみて、母がじゃこれでと1万出してくれた。

 歩いて駅手前のカフェに行くのに、吟醸酒2本入りの箱を下げる賢に腕を組んでくる。

 止せよとたしなめる賢に、久し振りだからいいじゃないと胸も押し付けるが、 一年近く過ぎて、前より大きくなった感じがする

 カフェでお目当てのケーキを買って、タクシーで向かった。

 食事の前に、佳織からこの家の鍵を渡された。

 断わったが、今まで以上に出入があるだろうし、ゆーりの為にもと言われ受取ることにした。

 ゆーりは、自宅で6人の賑やかな夕食が嬉しいようで、理香と二人で太るかなと言いつつおいしいと食べている。

 自宅ということもあり、佳織と圭子もワインを注ぎあい、桂介と賢は上等の肴で持参の大吟醸を舐める。

 桂介は、ゆーりが目の前に居るのと、経緯全部を知ったこともあるのだろう、外での顔と少し違う穏やかな顔だ。

 「昨夜は君の顔を潰すことになって済まなかった。 他の店もいろいろ教えておきたいから、懲りずに付き合って欲しいが。」

 「そんなことはありませんが、すねかじりの身でちょっと分不相応ではないかと思います。」

 「そんなことは気にせんでよかろう。 それだけのことはしているんだから。 とにかく付き合ってくれ。」

 その言葉を聞いたせいか、食事を終えてケーキを出したゆーりが、月曜日私に付き合ってと言い出した。

 佳織が中学に挨拶に行くのに、賢に来て欲しいと譲らないらしいが、俺で良ければ行くよと引き受けることにした。

 リビングのソファに移り、君にはなにもかも世話になるなと桂介がある意味で嬉しそうだが、チームメイトですからと軽く答えると、ゆーりを見て黙ってしまった。

 余計なことだったかなとちょっと心が痛んだが、桂介がずっとそう受け止めていて欲しいと囁いた。

 はいの返事のつもりでお湯割りのグラスを小さく上げた。


 翌日、日曜日午後、佳織がゆーりと一緒に来て、母と結構長い時間話をして帰ったが、ゆーりは残っている。

 同室が夏休みまでで、そしてここに居るのがインカレが終わるまではということだったはずだが、多分二人で話し合った上での了解事項だろうとは思うが、ゆーりの生理が始まったこともあり、いいのかなとは思うが何か支障がある訳でもなく、自分の中では生活のリズムになっていることもあり、男で年上の自分がどうこうは言わないことにする。

 ゆーりの勉強を見ていても、本人が何かを気にする様子は微塵も無い。

 月曜日起きたのは9時近くでゆーり、理香は勿論、聖や父も家を出たあとだった。

 学生としての生活時間に戻し、運動不足気味も考えねばとゼミに集中する。

 2時に帰宅し、ノータイのスーツに着替え、FINAの贈呈品を入れた薄いPCバッグと佳織が用意した手土産のコーヒーセットの紙袋を提げて、タクシーでゆーりの学校に向かう。

 小から大学までの一貫女子校の正門で車を降りて、中学の建物に向かう途中、ひそひそ囁き合う女子学生とすれ違い、中学の玄関で数十人の生徒に取り囲まれた。

 賢の身体に触る手があるが、無視して中に入り、待っていたゆーりと校長室の応接ソファに座った。

 ゆーりの休みに礼を述べ、贈呈品を見せて説明すると、驚きの中でコピーや写真を撮り、江川優理愛さんは我が校の誇りですとの評価を聞いて退出した。

 帰りは先生達が生徒を整理してくれて、ゆーりの鞄とPCバッグを持って正門近くまで来たところで、一人の女子生徒があのうと声を掛けてきた。

 知り合いは居ないので、自分ではないと黙っていると、賢を振り返ったゆーりが、あたしと聞き返す。

 声を掛けてきた女子生徒が、赤い顔になって頷いた。

 少し固い顔つきのゆーりが何かしらと問いかけると、その女子生徒がゆーりにすっと近づいて耳に何か囁いた。

 ゆーりが驚いた顔でその生徒を見返すと、少女はいよいよ顔が真っ赤になり、身じろぎもせず鞄を両手で握り締めて立っている。

 少し腰を折った賢に、私と友達になりたいって報告する。

 遠巻きに中高大の女子生徒達が集まりだしたので、カフェかどっかで話をしてみたらと促すと、ゆーりが少女にそうすると聞いてはいと返事をしたので3人で歩きだした。

 ゆーりがどこか決めるだろうと、二人の後ろから歩くと少女の鞄が重そうで、持つよと取り上げ、PCバッグをゆーりに渡す。

 10分以上歩いてビル2Fのパーラーに入り、二人を隣同士に座らせ、自分は向かいで話には口を挟まないことにする。

 二人に注文を決めさせ、自分は瓶ビールを頼む。

 パフェとケーキを少しずつ口に運び、小さな声で話す二人の好きにさせて、携帯でニュースをチェックする。

 少女は9月からの転入生で誰も友達が居ないこと、ゆーりも自分には殆ど友達がいないことを話して、携帯番号とメルアドを交換している。

 少女の住所を見て、私の家の近くじゃないか聞いてみると、少女はゆーりの家を知っているらしい。

 一緒に登下校したい考えを聞いたゆーりが、どうしたものかと賢の顔を見る。

 これはゆーり自身の問題だろうし、何時までかの確証も無かったので、賢は口を出さなかった。

 クラスは違うけどこれから学校でねとゆーりが話を切り上げ、自分の分を出すと言う少女を賢が押し留め、支払いを済ませた。

 3人でタクシーに乗り、少女を自宅前で降ろすと、大きな門構えの和風の結構な邸宅、ゆーり宅と徒歩で5分位の近さだった。

 帰宅して、ゆーりの勉強を見ながらどうするか聞いてみると、学校で少しずつ話をしてそれから考えると、優等生の答えで、ただここに居ることは、対外的にはイレギュラーとして受け止めていることが伺えた。

 まあしばらくは自分が口を出すべきではないと判断し、様子を見ることにする。

 内山怜奈というゆーりの同級生との出来事は、一応母に情報をインプットしておくことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 


 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 


 

 


 

 

 不思議だったのでご主人に知ってたんですかと聞くと、苦笑いしながら頷く。

 ゆーりと佳織が奥さんに連絡していて、賢が何をしていたか全部知っているし、奥さんが撮ってくれた写真もあるとゆーりが携帯を見せてくれた。

 「裸で薪割りしてるのかっこいいよね。」

 「あーあ、また俺が何にも判らないとこでみんなが何かしてたんだ。 知らないのは俺だけか。」

 驚き殆ど、悔しさほんの僅かでビールを呷る。

 「それで不愉快だったり腹が立ったかい?」

 ご主人がずけっと聞いたが、顔は笑っている。

 「いやそんなことは全然無いけど、ばれないように隠さないでもいいんじゃって。」

 「みんな、俺もそうだけど、君のためにっていうか何かしてやりたくなるんだよ。 これは逆に言うと、君が廻りを動かしてるということだな。」

 えっと虚を衝かれて、グラスを持つ手が止まった。

 「いいかい、君が君自身の言葉、行動で周囲の人を動かしてるんだよ。 ここでだって、やってる君を見て漁師や山の仲間が食べさせろっていつも以上に持って来てくれたよ。」

 「そうだったんですか。 済みません、勝手なことを言いまして。」

 「君が謝ることは無いよ。 会長にも言ったけど、やっぱりそうかって。 桂介は君の姿勢と誠実さを見抜いていたよ。」

 はい難しいのはそれ位にして食事にしましょうと奥さんが遮って、豪華な海鮮の皿が並んだ。

 賢のお土産の焼酎2本は殆ど空いていたので、佳織が持って来たダンボールから新しいのを出してくれた。

 ゆーりの発想というか行動にも驚かされていると、当の本人と2人はおいしいと目の前の海鮮を食べていて、はいはいと思うしかない気がした。

 それにしても自分は3日間、余計なことを頭から追い出して炭焼きに没頭していたが、周囲がそれを見てということは、今までゆーりに何かをさせるような圧迫感を無意識に与えてしまっていたのかとふと思うと、可哀想なことをしてしまったのかもしれない後悔で胸に小さな鋭い針がささった気がする。

 黙って呑んでいると、3人の美女が4日ぶりにわざわざ会いに来たのに嬉しくないのかなあと、理香がちゃかして突っ込んできた。

 「嬉しいさそりゃあ。 嬉しいからちょっとしんみりしたんだよ。」 

 そういうことにしておこうというべき返事をした。

 「いいねえ、美女3人、涙が出そうなくらい嬉しい? でも、何か違うこと考えてるよね。」

 理香ねえ、そうみたいだからそのへんまでかなとゆーりが間をとって賢に助け船を出したところで、佳織が奥さんに聞きながら小さめのお握りを握って、奥さんは買って来てあったらしいケーキの箱を冷蔵庫から出した。

 そこで夕食をお開きにして、別荘に戻った。

 別荘のダイニングで佳織が手早く持って来た糠漬けや塩辛で肴を用意してくれて、3人は風呂に行く。

 一人で呑みながら、無意識にゆーりを圧迫してそうさせることを強いてしまったかもしれない彼女のリアクション、行動を思い返す。

 そうやって記憶を繰り返しても、そうさせてしまったかもしれないゆーりの行動を今更元に戻すことはできないだろうしと、堂々巡りで出口が見当たらない。

 どうしたものかと思い悩んでいると、3人が風呂から出て来た。

 ソファに座ろうよとゆーりが賢の肴とグラスを運び、理香と佳織が手際よく冷たい飲み物とケーキ、果物を用意した。

 髪がまだ乾いてない3人がソファやラグに座り、賢のことで話が賑やかに始まった。

 「おにい、TVで次のオリンピック、出れば金二つ確定だって言ってたよ。」

 「知らないよ。 俺、ここでTV見てないから。」

 「本人抜きでちょっとあんまりかなとは思うけどさ。 それに、ゆーりが学校でヒロインになっちゃったってよ。」

 どきっとしてゆーりを見つめる。

 「うーん、何かちょっと学校の中で今までと違うんだよね。」

 即中1時のいじめに短絡し、やばいと思い聞いてみる。

 「いやなことない?」

 「それは全然ないよ。」

 聞いたことの本質をしっかり理解してのゆーりの返事だった。

 「少し仲いい子がね、泳ぎ方とかタイムとか貴女がほんとにコーチしたのって聞くから、他のいろんなこともねって言っといた。 賢、ノープロブレムだよ。」

 賢の心配を見通しての、一緒に親指が立った返事だ。

 圧迫したかもしれないことについては、近いうちにゆーりと二人でじっくり話そうと、この時決めてお湯割りを作り、ビールを出して、ポジションをきっちり変える。

 「佳織さん、ビールどうぞ。 お造り、糠漬け、塩辛全部美味いし、祝い酒につきあってよ。」

 「頂くわよ。 嬉しいの一言よ、有難う。」

 二人の会話を完璧に受け止めた上での返事だ。

 グラスを合わせ、賢はお湯割りを口に含みしみじみ旨いと思う。

 「凄いタイムよね、今更だけど。 でも我慢してたこと全部言っちゃう。 賢クン、ゆーりさんおめでとう。 やったぞー。」

 グラスを持って上にかざす。

 ゆーりが驚いて佳織を見た。

 「ママ、ゆーりさんって?」

 佳織もゆーりをじっと見つめて、瞳から涙が二筋流れた。

 多分ではあったがさん付けの意味を理解して、その涙に込められた時間の長さと重さを思ったが悲しみは無い。

 佳織がビールを呷り、うまいと一言発してバスタオルで顔を拭う。

 「そうか、そうなんだ。 佳織ママだからこそゆーりにそう言ってやれるんだよね。」

 「理香ねえ、なんなの?」

 「おにい、いい?」

 黙って頷く。

 「おにいの二つの世界新記録に対して、ゆーりが居なければ無かったことで、コーチとしての在り様と働きの結果を、一人の女性の存在と仕事として認めてくれたってことじゃないかな。」

 賢は頷いて大きく拍手する。

 「ママ、そうなの?」

 「そうです。 貴女の努力と頑張りは一人の女性の存在と仕事の結果でしょう。 我慢してたのよ。 ゆーりさん、おめでとう。 今、貴女は私の誇りです、そして賢クン有難う。」

 「ほんとに?」

 「そうよ、この4人だけだから言わせてもらったのよ。」

 レディゆーりおめでとうと立ち上がると、3人もそうして拍手したが、グラスを通してそこまで読み切ってくれた理香に感謝は忘れない。

 もう一つ、大きなお礼を言わなくちゃいけないと、佳織が続ける。

 「賢クンがね、ゆーりを自分のコーチだって紹介してくれたことよ。 一瞬いろんなこと考えたけど、プレスに言ってくれて身体が震えたわ。 本当に有難う。」

 「事実だから当然のことで、お礼を言われることじゃないよ。」

 「でもね、とにかくありがとう。 さあ、我慢してたことぜーんぶ言ったわ。 すっきりしました。」

 グラスのビールを、一息で空ける。

 佳織に頼まれて、お湯割りを二つ作った。

 何年かぶりでお酒がおいしいと、佳織がしみじみグラスに呟く。

 佳織の酒の世話をする心算で、肴を小皿に取分け並べる。

 二人が葡萄を食べる手を止めて見つめる中で、蛸の塩辛を噛んでお湯割りをぐびっと流し込む。

 「ゆーりさん、この一年半いろんなだったよね。」

 「ママ、後ろは見ないよ。 でも今日はお酒どうぞ。 」

 「賢クン、相手してね。 じっくり呑みたいわ。」

 黙って頷き、瓶とポットを横に置いてお代わりをつくる。

 「今日はつぶれるかな。 明日起きなかったらそのままね。 いい?」


 朝、賢が寝ている部屋にゆーりと理香が来て、ママが居ないと身体を揺する。

 時計を見ると7時半過ぎだった。

 昨夜は二人が11時半に寝て、佳織と2時近くまでいろんな話をしてベッドに入ったが、おかしな様子は無かったなと思い返す。

 どうしようとゆーりが賢のシャツを握った時、リビングにあったゆーりの携帯が3回鳴って終わった。

 ゆーりが走って開き、ママからだと即リターンすると、早く朝御飯においでで切れたと固まっている。

 じゃあ管理人さん家だと告げたとたん、ゆーりが飛び出して行き、お茶飲んでたと帰って来たので、洗面して3人で向かった。

 昨日結構呑んだのにけろっとして奥さんと朝御飯の用意をしている佳織を見て、強いなと感心した。

 朝取りの卵焼きや干物のおいしい朝食を食べていると、ご主人の友達の漁師が釣りに船を出してくれるので行こうということになり、ご主人のワゴン車で5分の港に出掛けた。

 出港して20分のところで、ご主人と賢が3人の世話をして、さびき釣りで鯵を釣り始める。

 女性3人とも、面白いと騒ぎながら慣れないリールを巻いて、次々と釣上げ、男二人で針をはずし生簀に入れ、こませを詰めて竿を出させる。

 小一時間でかなり釣れて、スチロールに3箱氷と一緒に入れてもらい、11時前には戻り、干物作りの手伝いをする。

 濃い目の海水に開いた身を浸しペーパータオルで拭きとって、干し網籠に並べ、木陰に下げて作業が終わり、別荘でシャワーを使い一段落した。

 保養所には今日3組の予約があるようで、近所の奥さんが2人来てもう準備をしている。

 お手伝いの奥さんも一緒にお昼を済ませ、一休みしたあと、山のほうに4人で散歩に出掛ける。

 のんびり歩いて、木陰の下にシートを敷いて飲み物を渡して座り、賢は缶ビールのプルトップを引いた。

 二人きりの時と思っていたが、昨夜佳織とそのことを話したこともあり、ゆーりに二人の前で聞いてみた。

 「昨日、ご主人が俺が廻りを動かしてるって言ったけど、何かそうしなければいけないように圧迫してしまったこと、あったのかな?」

 ペットボトルから口を離し、賢を見返す。

 夏休みが終わり、色の白さが戻った顔がさっきの釣りでほんのり赤らんで、少し精悍な印象になっている。

 「あるよ。」

 一言だった。

 やっぱりか、もしかしたらそんなことないよという返事を微かに期待したが、その通りだった。

 知らずとはいえとんでもないことだなと、返す言葉が見つからず黙ってしまうしかなかった。

 手洗い用のボトルの水で顔をはたき、お手拭を絞り三人に渡す。

 「おにい、何か弱ってんの?」

 理香が傷口に塩を塗る。

 「押し出された感じだったけどさ、やってみたらはまったなあ。」

 「案外面白かったみたいだったよね。」

 二人の会話の意味が理解できない。

 「もうゆーりは先にいるんだよ。 おにい、そんなとこでうろたえなくていいんだって。」

 「まあ賢だったから私にもできたって、一応誉めといてあげる。」

 「ゆーりが昨夜ママにも言ったでしょ、後ろは見ないよって。 それが答なんだよ。」

 横を通りかかった軽トラックが止まり、頭にタオルを巻いたお年寄が降りて声をかけて来た。

 お年寄というにはいささか失礼な、がっしりとした体躯の日焼した壮年の男性だった。

 炭焼き大変だったね、あそこまでやってくれて有難う、あそこのビニールハウスが俺んとこだから、トラックに乗って来てくれと言うが、見ず知らずだし女性も居るのでいいえ結構ですと断わると、それもそうだなと携帯を出して誰かと話して切った途端、ゆーりの携帯が鳴った。

 大村のおじさんからと電話に出て、軽トラのナンバーを教えている。

おずおずと、ゆーりが何があるんですかと聞いた。

 電話で聞くように言われたらしい。

 苺だよの返事と同時に佳織の携帯が鳴り、一言二言話して、お邪魔しますと応え、3人を荷台に乗せて、賢は最後に乗った。

 ゆっくり4分ほど進んで大きな家の庭に着くと、ご家族6人が待っていて、いらっしゃーいと迎えられた。

 ビニールの下部が上げられたハウスに歩き、ミルク入りの器を渡されて、好きなだけ食べてと中に案内された。

 暑いが、甘い香りが満ちている。

 ゆーりが大きい赤い粒を口に入れて、あまーいと笑顔で驚く。

 どんどん食べて、ここは竹炭の粉を土に梳き込んでいるからと説明してくれる。

 この説明で何となく経緯を理解できたような気がした。

 遠慮なんかしないでと励まされ、ぽつぽつちぎって食べていると、大村管理人がやって来た。

 この人のお陰で、アイデアを貰ってこの土地を綺麗にしてるし、以前は仲が良くなかった海付きの連中とも協力してるからと、様子が伺い知れた。

 炭で小川がきれいになって来年はもっとたくさん蛍が出るだろうし、苺やみかんの糖度も上がったということらしい。

 無償で炭焼きをするあんたをみたら、嬉しくて身内と同じだと握手され、レコードホルダーと写真をと、ご家族と一緒に写された。

 帰りには苺の4パック入りを3箱と、何にでも合うからと昨日ちぎったかぼすをビニール袋一杯持たされて、管理人のワゴンで戻った。

 別荘の庭で30分近く柔軟体操で身体を解し、シャワーを浴びてリビングに行くと3人が苺を食べていて、私の今のロケーション解ってくれたかなと質問してきた。

 「理解したよ、進学、英会話、新しい部分の勉強、なんでもやっていくだろう。 しかも自分の主体性でね。」

 「そうしたいの。 だから私に悪いことしたって悩まないで。」

 「そうするよ。 ゆーり、強くなったね。 理香の進学のサポートもするよ。」

 「おにい、頼りにするよ。 お願いね。」

 「だとしたらビールが欲しいのかな?」

 「ゆーり、意地悪言わないで持って来てあげなさい。」

 はーいと立ち上がり、頼りになる賢、まだ5時過ぎだからゆっくりねとグラスに注いでくれて、思わず一息で呑んでしまった。

 「賢さあ、どんなに呑んでも変わらないから安心だし、なんかいいよね。」

 「おっ、やっと誉めてくれるかい。 でも佳織さんのほうがもっとかな。」

 「ママ、昨日そんな呑んで朝起きたの?」

 「半分も呑んでないわよ。 でも賢クンとだからおいしいお酒だったな。」

 佳織の携帯が鳴った。

 はい、はいとの返事だけで、賢クンちょっと待っててとゆーりと理香を連れていった。

 賢は、バスタオルを首にかけ、缶ビール2本とクッション2個を持ってベランダに上がりベンチに座った。

 海は細かなさざ波を浮かべ、オレンジ色の夕陽がまんべんなく海や僅かな雲、みどり葉と自分を照らしている。

 何の思惑や猜疑がなく、公平であってくれて素直に眺めて受け入れるだけだ。

 ビールのグラスを夕陽にかざすと、夕焼けとビールの色がシンクロして溶け込み、呑み干すと、黄金の太陽を体内に取り込んだ気がする。

 やっぱりここだと、ゆーりが左側のクッションにそっと座った。

 「来ると解った?」

 「うん。」

 「賢、ほんとによくやったね。 おめでとう。 まさかあそこまでなんて。 とっても嬉しい。 でも、もう言わない。」

 「何かプレゼントするよ。」

 「今してる賢と同じのプラチナのネックレス。」

 「解った。」

 「きれいな凄い夕陽だね。」

 「ビールと一緒に呑んだよ。」

 「でも消えて暗くなるよ。」

 「明日、新しいエネルギーでまた出てくるから。」  

 ゆーりが賢の顔を見上げ、右手で賢の左手を抱え込み、頭と全身でもたれかかる。

 一緒に何かに打ち勝とうとした者二人の、大きなしみじみとした時間だ。

 言葉を交わさなくとも、二人はもう通過した点は見ていないことを分かっている。

 次のステップに向かって、より心を滑らかにすることを確かめ合うだけでいい結びつきだろう。

 缶から直接ビールを呑む自分の喉の音が思いのほか大きく、耳奥に響いた。

 ゆーりを見ると、見返して、その音好きだよと応える。

 続けて情けないげっぷは出さないとように、慎重に押さえ込んだ。

 拡がる夕闇のなかで、小さくなる黄金色を二人で眺め続けた。


 別荘から戻り、休み明けの火曜日2時、アポの上桂介の会社を訪ねた。

 応接室でお祝いと労いの言葉を貰い、眩しそうに千代美がコーヒーを出してくれる。

 早速ですがと、ゆーりの預金通帳を出して用件を切り出す。

 「当初大きなことを言いまして恥ずかしいことですが、この通帳から30万出させて頂きたいんですが。」

 桂介が通帳を手に取り、最初からずっと眼を通し、約2年で140万の金額になっていることを認識した。

 「これはゆーりの家庭教師代の積み重ねかね?」

 「はい、理香の分と半分ずつです。」

 ソファに背を預け、空を見て考え込んでいる。

 「自分のバイト代を全部貯めて、自分でも必要なことがあるだろうに?」

 「自宅ですし、小遣いや臨時もありますのでどうにかなってます。」

 「これを使うのは君の自由だし、私が口出しできることではないが、差し支えなければ何に入用なのか聞きたいが。」

 「それはちょっと、できれば何も。」

 桂介が立ち上がり戻ってくると、印鑑ケースをテーブルに置いた。

 「この通帳の印鑑だ。 これは君が自由にすべきものだから渡すよ。 これで一々、頭を下げないでいいし、そうであるべきだからな。」

 そこまでは考えていなかったが、これから自分の自制心でコントロールすることを言い聞かせ、受取ることにした。

 「突然勝手なお願いで申し訳ありません。」

 「それは全然構わんが、使いみちを聞きたいもんだ。」

 「いえそれは。 ではこれで失礼します。」

 その足で銀行に行き、ゆーりの口座から30万引き出して、プレゼントされた品と同じ宝飾店に行き、女性用プラチナのネックレスにYURIAとネームを刻印して貰った。

 5分ほど歩き、ステーショナリー専門店で頼んでおいたM.Rikaとネームを入れたク〇ス

24K男性用シャープボールペンセットをケース付きで、これは自分の財布から6万支払って買物を終えた。

 5時半を過ぎて、外で呑みたいなと思ったところで、桂介からの電話で6時半に鮨屋で待ち合わせすることになり、母に電話して本屋をみて鮨屋に向かうと、

桂介が歩いて来た。

 前回の個室ではなくて、カウンターの少し奥だった。

 ささやかなお祝いとお礼の心算だったが、君と呑むのが楽しみで、遠慮無用だとビールで乾杯して、食べ始めた。

 大村管理人宅で食べた獲れ立ては新鮮で美味しかったが、カウンターに出る仕事を施したものは別の旨さがある。

 生を2杯のあと、一合枡の大吟醸に変えた。

 「大村から全部聞いてるよ。」

 「勝手にしたことですから。」

 「なるほど。」

 何も頼んでいないが、吟味されたものが絶妙のタイミングで出される。

 「しつこいかもしれんが、使いみちを聞かせてもらえないかな?」

 ちょっと詰まったが、隠し事はしないと決めて、ゆっくり経緯を総て話し、二つの包みを見せた。

 「せっかくというか、労働の対価を貯めて自分のものではなくて、プレゼントで高価すぎないかね。」

 「対価を頂いている方に対して不遜かもしれませんが、ゆーりが自分に与えてくれるものは掛け替えのないもので、金銭に換えることはできません。 だけどせめて自分が出来ることはしようと思っています。」 

 「何か他にあるのかね?」

 「二人の進学、ゆーりの新しいいろんな勉強をしっかりサポートして、そして自分の勉強や卒論ですね。」

 桂介が、黙って枡の酒を干し、お代わりと枡を上げた時、芋のお湯割りはありますかねと小さな声で聞いた。

 ちょっと咎める顔の桂介に、いや優しすぎて20年早いかと言い訳すると、賢をじっと見て破顔一笑に激変した。

 「いやあ、面白い。 君と呑むのは実に楽しい。 おやっさん、芋のお湯割を二つと、ワールドレコードホルダーにもっと肴を出してくれ。」

 やっぱりそうでしたか、ではと包丁を振るう。

 酒が変わり、あてがまた別の味を教えてくれる。

 「うちの企画部長が、あの二人は誠実だが切れると誉めていたな。」

 「いやあ答を出せませんでした。 大は自分のパートでは幾つか考えたようです。 あいつは優秀ですから。」

 「その辺だろうな。 なあ、おやっさん。」

 ここで聞いててそうだと解ります、あの大村さんが驚かれたようですからと、まな板に視線を落としたままおやっさんが返事した。

 桂介に合わせて同じペースでお湯割りを4杯空けて握りを腹に入れ、おやっさん、彼が来たら呑ませてくれの一言で店を出た。

 あと1.2軒つきあってくれと、二人とも乱れのない足取りで5分ほど歩いてビルの中に入った。

 エレベーターで8Fに上がると、黒服がドアを開けてスーツの男性がBOX席に案内する。

 賢なんか見たこともない超高級クラブだが、さっきのおやっさんの眼のほうがごまかせない確信があって、ここで臆することはなかった。

 たちまちボトル、氷その他が運ばれるが、長居はせん、一杯だけだと桂介が告げると、スーツが飛んで行く。

 休み明けの火曜で、広いフロアに他の客は2組しか居ない。

 二人の横には女性が夫々ついて飲み物を作っている。

 悠然と着物姿の女性が、会長お久し振りですと向かいに座る。

 おうと応えて、賢とグラスを合わせる。

 そのママが、今日はお若い方とご一緒で、でもほんとにお久し振りですよと科をつくる。

 彼は桝井君だ、一人でも連れでも来たら歓迎してくれと、賢をグラスで指す。

 承知しましたとにこやかに賢を見たママのゆっくりしてらしての挨拶に、私の支払いで粗末にせんでくれと一言告げると、ママの姿勢がしゃきっと変わった。

 今度は賢を穴が開くように見つめる。

 確かと呟くママに、粗末にせんでくれともう一回告げて、グラスを空けて立ち上がり、賢も同じに干す。

 もうお帰りですかとうろたえるママを手で制して、彼をよろしくなと店を出た。

 もう1軒つきあってくれと、賢の返事も聞かず歩き始める。

 10分ほどゆっくり歩いて、ビルの3Fの重厚なドアを開けた。

 さっきの店ほど広くはないが、ソファが覗けないような巧妙な配置と、グリーンやシックな照明を使い寛げる雰囲気だが、さっきの店より高いだろうなと感じる。

 スーツの初老の男性に案内されソファに座ると、すぐに水割りが作られ、同時にママらしき女性が、江川さんいらっしゃいませと挨拶する。

 珍しくお一人じゃないんですねと微笑んで、賢の顔を見る。

 「おめでとう御座います、桝井さん。 お越し頂きまして有難う御座います。」

 ママが深々と頭を下げる。

 「流石だな。」

 「ニュースで、嬉しくて身体が震えました。 光栄ですわ。」

 「今日は長居はしないが、ママよく聞いてくれ。」

 「何でしょう? どうぞ。」

 「二つのワールドレコードを叩き出したが、私にとってはそれだけじゃない。 孫娘の命の恩人だ。」

 賢はまさか他人にと、はっとしたが黙っていた。

 「もしかして、コーチの綺麗なお嬢さんですか?」

 「そうだよ。 2年前の夏、自栽しかねなかった孫を救ってくれて、生きる希望と、これからの可能性を引き出してくれている。」

 ママは小さく頷くが、賢がそれはと言い掛けるのを手で制する。

 「独り言だ。 孫に対してくれている彼に、ささやかなことしかできんが、私にできるだけのことはしたい。 あの大村も唸ったな。」

 ママが等分に二人を見る。

 「ほぼ承知いたしました。」

 ママが手で合図すると、桂介と同じ新しいボトルとキャビアのカナッペが置かれた。

 「これはわたくしからのプレゼントにさせて頂きます。 桝井賢聖さんですわよね。」

 「それから彼は、芋のお湯割りが要るかもしれん。」

 カナッペの粒々感と旨みがMc.GIBBON'Sにマッチする。

 「それも承知いたしました。 では私の名刺をお受け取り頂けますか?」

 桂介に名刺を見せる。

 「営業用じゃない自宅、携帯、メルアド入りだな、解ってくれて有難う。」

 「いいえ、桝井さんにお越し頂ければ嬉しいですから。 お湯割りのお好みは何でしょう?」

 「芋であれば何でもいいんですが。」

 「解りました。 ご用意いたします。」

 「一人でも来てやってくれないか。 では今日は失礼させてもらうよ。」

 「有難う御座います。 桝井さん、すぐ必ずいらして下さいね。」


 夕食時前に、二人の前に包みをそっと置く。

 ゆーりはすぐ開くだろうと思ったが、二人とも不思議そうに賢の顔を見る。

 意外で、お祝いとお礼のプレゼントだけどと説明した。

 二人ともきゃーあっと喜んでくれると思ったが、予想外に包みを握って見つめている。

 ゆーりは自分で欲しいと言ったのに、突然のことのようにじっと握っている。

 理香が、開けるねと断わってペン2本を取り出した。

 「きれい、うわネーム入り。 そうか、頑張れだね。 でもこれで打ち合わせできたらかっこいいな。 おにい、ありがと。」

 「男性用だけどどう?」

 「女性用はどうなの?」

 当然の質問だ。

 「少し短くて、クリップが無い。」

 「こっちがいい。 使いこなせば男性とタメだよね。 よーし、頑張るかな。」

 ゆーりは不安そうな顔で賢を見ている。

 「どっかからお金借りたの?」

 母には、既にお金のことは話しておいた。

 「だって賢、こんなお金持ってる筈ないもん。」

 「心配しなくていいわよ、賢だって少しは貯めたお金持ってるから。」

 母が先に答える。

 母の返事に頷いて、包装紙を丁寧に開ける。

 手に取り、ネームを確かめ賢に差し出すので、ゆーりの首に着けた。

 賢に抱きついて、お揃いだ、こんなに早く貰えるなんて思ってなかったと告白した。

 学校には駄目よと母が釘を刺して、食事にする。

 途中で聖が帰宅して、二人とも大人の物持ったねと褒めてくれた。

 大学に行くと、佐山教授から呼ばれ水泳連盟からの認定証授与が来週水曜日11時との連絡があり、出席者の返事を求められているからどうするかということだった。

 授与式とプレスインタビューがあり、今度は外国のプレスもいるが、教授はゆーりの出席をどうするかを思案しているらしい。

 普通であれば、賢、部長の佐山教授、マネージャー兼コーチの園田昂太郎だが、ゆーりの存在あってこその結果だから、どうすべきかねと問いかける。

 ゆーりが出てもおかしくないか逆に聞き返すと、未成年、中等義務教育生徒であっていけないことはない筈だが、保護者の判断なり了解は必要だと考えているということだったが、教授は水連にゆーりの出席の可を確認したうえでの打診だと受取った。

 相談しますのでと、明日一番までの時間の猶予を貰った。

 教育者の立場でなんだが、それだけの成果を君にもたらしてくれたゆーりさんは、学校を休んででも出席すべきじゃないかなと笑顔で付け加える。

 昼職を大と学食で食べて自宅に戻り、母に報告し、佳織に電話すると驚いて、夕方ここに来るという。

 記録を出したんだと改めて思い返し、庭で猫たちにじゃれ付かれながら柔軟体操と腹背筋、スクワット等を1時間こなして汗まみれになり、芝に引っ繰り返った。

ニャーミーがすかさず胸に乗り頭を擦り付け、シーザが足に飛び掛り、チーコは最後に腕におずおずとお腹を乗せる。

 猫たちと遊ぶのも久し振りだが、いつも勝手だなとしばらく好きにさせる。

 頃合を見た母が、缶ビールをくれた。

 上半身を起こし、一気に半分呑み干す。

 チーコのお腹と眼の間を丁寧に撫でて残りを流し込み、毛をはたいてシャワーを浴びる。

 自分の部屋のフローリングに上半身裸で、バスタオルを腹に乗せて寝てしまったらしい。

 ただいまという声を、ぼんやりした頭で聞いて目を覚まし座っていると、ただいまと、ゆーりが下着とキャミになってシャワー室に行った。

 下に降りて冷蔵庫から缶ビールを出しソファに座ると、ママから電話があったとハーパンTシャツに着替えたゆーりが、麦茶を出す。

 どうかなと伺うゆーりに、それは佳織ママが来てからと母が留め、2Fでゆーりの勉強を2時間ほどみた。

 6時過ぎに佳織が来て、出前の鮨で女性5人の意見交換が始まった。

 賢が教授の考えも含めて説明し、ゆーりの希望もあり、出席という結論になり、中学への許可申請は明日行けない佳織の代わりに賢が行くことにした。

 翌日、木曜日朝9時に教授室に行きゆーりの出席をお願いすると、それは良かった、佳織さんに電話をくれるように伝えて下さいと頼まれて退出した。

 久々にゼミに出て、大、昂太郎と昼食を食べ、近いうち呑む約束をして戻り、一応スーツにノーネクタイだが、シャツの腕を捲り上げて、3時に車でゆーりの学校に向かった。

 小学校から大学までの女子校で、建物が幾つもあり、教えられたとおりに駐車場に停めて、中学に向かうと正面玄関から制服のゆーりが走って来る。

 女子校は初めてだが、逆にすれ違う生徒達に見られながら職員室から応接室の通された。

 担任、副校長とも女性で、事前の佳織の電話もあり、スムーズに欠席の了解を得ることができた。

 驚異的なワールドレコードのコーチが江川優理愛さんで、本学の生徒であることは誇りですとの副校長の言葉で送り出された。

 ゆーりに手を引かれ談話室に行き、自販機からアイスとお茶を買って椅子に座ると、きやーかっこいいという声と一緒に10人以上の女子が廻りに群がり、携帯で写真を撮り始めた。

 ちょっとと思ったが、ゆーりのためになればと何も言わなかった。

 アイスを食べ終わるのを待って、早々にゆーりの鞄を持って校舎から出て帰宅した。

 金曜日珍しく自宅に帰るゆーりを荷物と一緒に送り、勉強をみていると帰宅した佳織から遅れたけどと9月前半のバイト代を受取り、帰りに銀行に半分ずつ預金すると、ゆーりの口座に母の名前で30万振り込まれている。

 驚いて、帰宅して母に問い質すと、一昨日佳織が来た時、事情を聞かされ母は納得して振込用紙に署名捺印して佳織に渡した結果だった。

 母は、そのままにしておきなさいと言い置いて、明日は理香と買物に出掛けるとだけ言ってキッチンで支度を始めた。

 腑に落ちない思いだが、しばらくこのままにしておこうと先送りを決め、ゆーりが居ない自室を見回した。

 土曜日は大学に行き、図書館で卒論に取り組み、没頭して昼食を忘れ、原チャリで戻り、ビールを頂く。

 父はゴルフ、母と理香は買物からまだ戻らない。

 聖はデートか仕事か解らない。

 家の窓やサンルームを開け、サラミとチーズを切って自室でパソコンに論文を打ち込んでいると、母の車の音がして5時を過ぎていた。

 あら、しっかり勉強してるねと感心されつつ、理香に荷物運びに引き出され、木箱や結構重い紙袋を持たされた。

 木箱は芋焼酎12本入り2箱で、賢専用だから好きなところに置きなさいと言われ、1箱をキッチンの収納床、1箱は自室に置いた。

 さっとシャワーを済ませた理香が、買ってきたあてを手際よく小皿に分けて出してくれる。

 母と理香が食事の支度の間、ビールを呑みながらPCに入力する。

 一段落してお盆を持って降りると、ちょうどステーキが焼きあがるところだった。

 ステーキでお湯割りに変えて、論文の起承転の展開を考える。

 ゆーりのことだとの前提で何考えてるのと聞く理香に、論文と答えると、へえーと意外そうな返事が返ってきた。

 「切替早いんだ。」

 「本業だよ。」

 「見習うべきなんだろうね。」

 「みんなそうだよ。 そうなるよ。」

 「ゆーりもそうだって。 勉強するって。 私の今日の分、後でみてね。」

 「いいよ。」

 ステーキで3杯空けて、沢庵の小皿を持って上がり、PCの前に座った。

 ノートに書き込むのと入力を繰り返し、合間にお湯割りを舐める。

 理香が数学と物理のテキストを広げて、一番小さいきっかけだけと限定する。

 意味を理解して、覚えているだろう当然のことを一つずつメモする。

 賢のデスクでしばらく考え、20分経ってペーパーを持って来た。

 ゆっくり辿ってOKし、もう学校の授業のウェイトは無視して、この一ヶ月で不得手の基礎を見直したらとアドバイスした。

 んと見上げる理香に、これから先の学校テストの結果はどうでもいいから不得手を無くすことが最優先だと諭す。

 「解った、割り切る。」

 「自分のことだ、遠慮無用だよ。」

 「有難う。 聞いてよかった。 これでおにいから卒業できるよ。」

 理香の眼に涙があるような気がしたが、気付かないふりで頑張れ、できるからと返した。

 吹っ切るように、おにいサンキューと理香が立ち上がった。



 


 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

   



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「決勝、駄目かもな。」

 「ねえ、決勝が目的?」

 決勝を目指すのが当然の意識の虚を突かれた。

 「中1の夏、初めて泳いだんだよね。 気持ち良かったでしょ? 水が助けてくれて自然体だったのかなあ?」

 「多分そうだったからできたと思うけどね。」

 「順位やタイムが気になる?」

 「そりゃあやっぱりそうだよ。 なるべくね。」

 「一昨日まではそうじゃなかった筈だよ。」

 えっとおもって、怒っているのかなとゆーりの顔を見ると、笑顔で見返す。

 「自然体で水に助けてもらって、気持ちいいかどうか、そのためだったでしょ。

結果なんか考えてなかったはずだよ。 泳げるのが嬉しいが原点でしょ。」

 大きな記録を出して、根本を見失っている。

 表向きではまぐれとか、すぐ破られるとか繕いながら心のどこかでいつの間にか記録、順位に囚われてしまっていた。

 たった二日で取り返しがつかないほどの自分の心の変わりように驚き、いい気になった己を俯いて恥じるしかなかった。

 しばらく頭を抱えたあと、スポーツドリンクを飲んで天を仰ぐように、木葉とこぼれる陽光を見上げる。

 「泳げてさ、気持ちいいことあったでしょ?」

 うーんと、じんわり意識が中学時代に飛ぶ。

 「泳ぐのはさ、いつも気持ち良かったよ。」

 「何かさあ、やったーとかいうこと無かった?」

 「そうだなあ、そういえば中2の夏休み前に2年の水泳大会があったなあ。」

 二人の間で時間が止まり、ゆーりは嬉しそうに賢の自分の世代と同じ頃の話を待つ。

 中2の夏休み前学年水泳大会があった。

 プールの横、25と50mの長さで、ちょっと無茶だがクロールとそれ以外は一緒という区分で、同クラスだった大に言われ50mのクロール以外の一緒という競技に出ることになった。

 1回ターンする50mの出場は少なくて、賢の時は5人だったがとにかく飛び込んだ。

 平泳ぎで3コースを泳いだ賢は、5コースで泳ぐ背泳の選手を追いかける。

 後半の25で、背泳の選手が必死の顔で泳ぐのが見えて、気持ち良く追いかけて、頭一つ遅れてタッチする。

 疲れの無い身体でプールから出ると、賢速えな、あいつ中学大会に出る背泳の選手だぜと教えられた。

 あの時は嬉しかったし、気持ち良かったよとゆーりに話した。

 「その時と同じになって泳げばいいんじゃないの。」

 ゆーりの一言だった。

 身体がぶるっと震え、頭に衝撃が来た。

 「後ろを見ちゃ駄目だよ。 誰かに悪いことをしたんじゃないからね。 修正して前を向くのよ。 迷惑をかけたんじゃなくてちょっと迷っただけだから、正しい方向に向きなおせばいいのよ。 結果やタイムなんて気にしないの、関係ないでしょ。 自然体で水と仲良く、気持ち良くだよね。 賢だからこそできるよ。」 

 上を向いて、ペットボトルの水を頭からかける。

 滲んだ涙と一緒に、余計なことを流してしまおうと思ってのことで、涙にゆーりが気付いても構わない。

 有難うと呟いて、いじめにあっていたであろう時のゆーりの心を推し量り、その時一緒に居れなかった分を更に注ぐことを言い聞かせる。

 なお頭に水をかける行為の意味を、ゆーりはしっかりと理解して受け止めていると直感で解る。

 ゆーりが、前を向くの、そうしてと言っている。

 もう後ろめたさ、恥ずかしさは一切ない。

 「そうか、じゃあBでも決勝でも一緒だね。」

 「気が付いた? やーっとかな。 でも多分決勝だよ。」

 「そうかな? でも今ならどっちでもいいよ。」

 「賢のその言葉聞きたかった。 完全に理解してくれたのね?」

 「オフコース。 ノープロブレム。」

 二人の間で時間がたゆたっている。

 「お腹空かない?」

 「おう、少しね。」

 「ツーママが持たしてくれたお握りがあるよ。 保冷剤と一緒だからちょっと冷たいかもしれないけど。 食べて。」

 タッパーから小さいお握りを出して、サーモボトルからこっちは熱いからねと味噌汁

を注いでくれる。

 二つ食べて、よーしと背伸びしたところで昂太郎が走ってくる。

 「5番めで、17時の決勝、2コース決定だよ。」

 「有難いな。 どっちでもって言うのは罰が当たる。 感謝しないと。」

 「さすがだわ。 賢、もう大丈夫だね。」

 「何かあったの?」

 「賢の頭の中をクリーニングしたの。」

 昂太郎が、ゆーりの前のコンクリートに胡坐で直に座る。

 準備運動と一言だけ言って、アリーナ周囲を大股上下動で歩き出す。

 勝手に思い上がってしまった自分のエゴを洗い落とすつもりで、汗を出して3周廻り、二人に自然体でやるよと伝える。

 身体を大きく動かしてゆっくりもう一周廻る。

 ゆーりから受取ったものは沢山ある、しかしゆーりにあげたものは金で買えるものと些細なものでしかない。

 ゆーりが自裁を思ったとき、その寂しさと腹立たしさは12歳の子女の頭脳のキャパを凌駕せずには終わらなかったのに、周囲のことを思い辛うじて踏みとどまったのだろう。

 それでいて、ゆーりの無言の言葉が直裁に頭に響く。

 「賢、ゆーりが必要なの? 賢のどこかにゆーりが居る場所あるの?」

 あるよ、たくさんあると応えながら、自分自身が焦らないことと言い聞かせる。

 サブプールで水に馴染みながら、中2の大会を思い返す。

 決勝に入場し、2コースでアナウンスされ、ゆーりを見ると思いつめたような真剣な眼差しで賢を見ている。

 ホイッスルと同時にスタートブロックから飛び出した。

 最初の50で、一つコースを挟んだ背泳の選手を追いかける。

 一度ターンすると、水が自分を押し出してくれるのが解かった。

 100に入ると、前に出した両手を掻くと大きな力が前に押し出してくれる。

 もう背泳の選手と殆ど並んでいる。

 150のターンを終えると、もう誰も見えない。

 大きな力で前に押し出され、身体がローラーの上を流れるように水が滑らせてくれる。

 初めて泳げて、水が浮かせてくれて前に滑らせてくれた時と同じに助けられている。

 嬉しいと感じたところがゴール板へのタッチだった。

 水の中から顔を上げることができない。

 感謝と喜びで、身体に思うように力が入らないがやっとゆーりを振り仰ぐと、瞳から涙がこぼれているのが眼に入った。

 すぐ出るはずの電光掲示板になかなか結果が出ない。

 一位でフィニッシュはできたなと、コースロープに凭れて結果を待つ。

 観客席がどよめき始めた時、掲示板に結果が出る。

 一位、2コース桝井賢聖 2″7″06 WorldNewRecordと出て、館内がうおーっとどよめく。

 ゆーりと自分との、水泳の部分が完結した瞬間だった。

 一緒に泳いだ選手達から肩を叩かれ、プールサイドに上がり、3人の立会いで採尿を終える。

 一応の流れで表彰式まで済ませ、ロビーで応援の皆と顔を合わせると、ゆーりが真っ先に賢の胸に飛び込んで泣きじゃくりTシャツをぐしゃぐしゃにしてしまう。

 「すっごく気持ち良かったよ。 記録は多分オマケだね。」

 ゆーりが泣きながら頷くのがしっかり判る。

 佳織がゆーりを引き剥がして化粧室に連れて行き、理香が着替えのTシャツを出してくれてその場で着替えた。

 みんなに囲まれて祝福されていると、連盟や関係者からプレスインタビューを促され、教授、昂太郎とゆーりの手を握って会場の会議室に入る。

 連盟から、世界新の百と二百の結果が発表され、そこではじめて二百を0.54秒とほぼ1秒近く短縮した驚異的な記録であることを知らされる。

 世界選手権やオリンピックについてまでいろんな質問や確認が出るが、実感がないし何にも考えられませんとだけ答える。

 最後の質問で、ゆーりが下げているコーチというADカードに質問が出る。

 「たった一人の自分のコーチで、彼女が居てくれたから泳げました。 水泳だけじゃなくて生きることでのコーチでもあります。」

 恋人ですかの質問が飛んできた。

 「いや違います。 自分の一番大事な宝で、パートナーです。」

 プレス側が、笑顔でどよめく。

 教授が、彼が一番大事に思っていることをお話しましたのでこれで終わらせて下さいと遮ってくれる。

 母に電話すると、おめでとう、理香が連絡くれてTVも見たよとの返事で、解ってるとおもうけどゆーりをしっかりガードしてと念を押された。

 閉会式が終わり、ドクにハイヤーを頼み大や昂太郎も一緒に帰宅する。

 母は鮨やお造りを出前で頼んであり、女性達で肉を焼いたりしてテーブルを飾り、20時からささやかな祝宴が始まった。

 

 昨夜は23時にゆーりは佳織、大も昂太郎と帰り、賢は残った肴で呑み続け、1時過ぎには自分の部屋で呑んだが、ゆーりが居ない自分の部屋が広く感じて多少物寂しい気がしたが、もしかするとゆーりがもっとかなと思いなおし、ゆーりの携帯にありがとうと送って寝た。

 昼頃ぼーっと起きて、顔も洗わず庭で3匹の猫をじゃらしながら、500の缶ビールを流し込む。

 洗濯や掃除をしている母は何も言わない。

 4本呑んで、またベッドに戻る。

 1時間ちょっと寝て、よしと起き上がり、こうはしていられないと長くシャワーを浴びる。

 ゆーりは、疲れているだろうがもう本来の自分の生活に戻っている。

 出掛けるのと聞く母に、ゆーりの家庭教師と応えると食事を用意してくれて、タクシーで行きなさいと1万くれる。

 「10万渡してたけど、タクシー代だけで9万5千返してくれたのよ。 お金のことだけじゃないわ。 ゆーりに何かお祝いしてあげなくちゃね。 でしょ?」

 ありがとうと親指を立てて、タクシーでゆーりの家に向かった。

 タクシーの中で携帯が鳴り、ゆーりがまだ寝てたと聞く。

 もうすぐゆーりの家に着くと返事すると、少しの空白ののち、駅に来てとだけで切れて、急いで駅に向かった。

 駅から出て来るゆーりと会い、制服姿の鞄を受取る。

 「ビール呑んで寝てると思った。」

 「そうだったけど、ゆーりが本来の生活に戻ったんだから僕がちゃんとしなきゃね。」

 「そうか、偉いね。」

 「お腹は?」

 「あまーいパフェ食べたい。」

 駅から少し離れた帰る途中のカフェに入る。

 カフェのマスター夫婦が、久し振りに来てくれたのね、おめでとうと祝ってくれる。 

 「月水金の先生?」

 「そうだよ、ゆーりの大事な時間を一杯盗っちゃったから、これからその分しっかり返さないとね。」

 「そんなことないって。 新しい勉強したつもりだよ。」

 「それはそれでいいけど、高校大学への知識と技術は必要だからね。」

 「うん、賢が見てくれるからやるよ。」

 支払いを済ませると、マスター夫妻から顔見せに来てと、お祝いにクッキーを貰った。

 誰も居ない家の鍵を開けて入り、シャワーするというゆーりをぼーっと部屋で待っていると、賢君が来てくれてたのねと祖母が入ってくる。

 おめでとう、疲れてるのに有難うと、ビールがいいのかなと言いつつジュースを出してくれた。

 聞くと、平日は佳織と祖母でどちらか早く帰宅するようにしているという。

 2時間ちょっとゆーりの勉強をみて帰宅した。

 夕飯で呑みながら、母に状況を説明して夏休みと同じでどうだろうと聞いてみた。

 母は当然ながら予想していたかのように、整理された返事が返ってきた。

 うちは全然構わないが、江川家には江川家のルールがあるし、一番大事なのはどうすることがゆーりに最良なのかであって、それは貴方がゆーりや皆さんと話しなさいと下駄を預けられた。

 それと、貴方のことを聞かなくちゃと、矢面に立たされる。

 「頭と身体の切り替えはすんなりできるの? それと、今度はこちらでお祝いのお礼をするけど、時期はいつ頃がいいのかしら?」

 最初の答はとまどう部分があって保留したが、二番目は二週間後頃に認定証を貰うから、それからで一ヶ月先でいいよと頭を下げた。

 今夜と明日の晩まで呑んで好きなようにするから勘弁してと話を遮ると、母、理香と聖も笑って見逃してくれた。

 翌日、午前中に大学に行き教授と水球部に挨拶し、大と学食で久し振りにいつもの天蕎麦と稲荷の昼食を食べて、クッキーの手土産を買ってアリーナに出向く。

 笑顔と拍手で迎えられ、事務所の応接室に通された。

 宗元部長が、素晴らしい記録だ、これからは世界をリードするスイマーだから世界大会が楽しみだし、ここでしっかり泳いでと褒めてくれるが、今は泳ぎはいいと、お礼と挨拶だけして退出する。

 外のベンチでドクが聞いてくる。

 「もう終わりにするの?」

 「そうだな、多分ね。」

 「あれだけのタイムでさ、世界水泳やオリンピックでやりたいと思わないの?」

 「ゆーりが居てくれてのタイムだし、これ以上ゆーり自身や彼女の時間を犠牲にしたくないんだよね。」

 「そうかなあ、もっと独り立ちできると思うけどね。 惜しいというか勿体無い気もするけどさ。」

 「いや俺自身がね、このタイムの意味を判ってないんだよ。 おそらく判ろうとしてないんだな。 ウェイトポジションが社会の評価とずれてるだね。」

 「それでいいと思い込んでる?」

 「だね。」

 あの時以上に純粋になれることは無いと思うという言葉を、忘れないゆーりの涙の姿と一緒に飲み込む。

 「そうか、そこまでならいっそ潔くてかっこいいか。 でも泳ぐ気になったらすぐ連絡してね。 聖やみんなと呑みたいな。」

 アリーナを眺めながらゆっくりと一周すると汗が滴り落ちて、そのままゆーりの家に向かう。

 門の横のTVフォンを押しても暗いままで、返事がない。

 4時半を過ぎているが、学校からの帰りが遅いのかなと思って、迷ったがゆーりに電話した。

 「賢、今どこ?」

 「ゆーり、まだ学校なの?」

 少しのタイムラグのあと、早く帰ってらっしゃいとの母の声で切れた。

 訳が解らないまま急いで小走りで帰ると、ゆーりが母とキッチンに居る。

 「どうしたの?」

 汗びっしょりだからシャワーどうぞと、ゆーりから追い立てられて言われるままにシャワーを使いリビングに座った。

 「家に行ったの?」

 「うん。」

 「どうして? 今日火曜で先生の日じゃないよ。 ねえ、どうして?」

 「うん、まあさ、ちょっと心配だからね。」

 照れくさかったが正直に返事する。

 嬉しいと、いきなり賢の膝に横座りして身体に抱きつく。

 ツーママが言ったとうりだと、更にしっかりと抱きついて顔を胸に押し付けるので、その思いがけない身体の弾力と甘い匂いに一瞬陶然とたじろぐ。

 ゆーりこれよとの母の声で、はーいと立ち上がりお盆にビールとつまみを運んで来た。

 自分が話をする前に、母と佳織が決めたに違いないと詮索することを止めて、ゆーりが注いでくれたビールを一気に流し込む。

 心からそう感じて、思わずうめーっと声が出た。

 首を傾け笑顔で缶を持つゆーりに、自然と笑みが出るが、自分の傍に居るという安心感と喜びが奥底にあってのことだと自覚する。

 理香が猫たちの足を拭いて、聖も帰りキッチンが賑やかになる。

 猫にじゃれつかれ、サラミを噛み潰し食べさせながらその塩っけでビールがすいすい入る。

 食事の用意ができて、母と聖がビールを呑んだあとで、聖が一段落したからと、ゆーりに話しかける。

 「ゆーり、おめでとう、そして有難う。 でね、ゆーり、もう自分を犠牲にして身体にブレーキかけたら駄目。 もういいでしょ、縛るの止めなさい。」

 一瞬賢は意味が解らなかったが、母も理香も、そういった聖をも笑顔だし、言われたゆーりさえ首を傾けて笑っている。

 ビールから代えたお湯割りを流し込むと、ぐびっという自分の音が耳に響いた。

 和やかに食事を終えた理香、ゆーりに聖が一緒にお風呂と誘う。

 またリビングのソファで肴をつまみお湯割りを舐めて、さっきの聖の言葉を頭の中で繰り返す。

 朧気ながら意味は想像できて、それほど圧迫させていたのかと頭が自然にうなだれてしまった。

 「どうしたの? 頭抱えて後悔する?」

 母が向かいに座って聞く。

 「俺が無意識に圧迫して、それで自分を殺したのかな?」

 「ゆーりが貴方に言ったでしょ。 後ろを見ちゃ駄目、誰かに悪いことをしたんじゃない、修正して前を向く。 迷惑をかけたんじゃなくてちょっと迷っただけだから、正しい方向に向きなおせばいいって。 今も正にそのとおり、ゆーりにとっても貴方にしてもよ。」

 ゆっくり受け止めて、解ったと答えた。

 多分、今聖がお風呂で話してると思うし、今まで以上に普通に接してあげなさいとキッチンに立った。

 俺が知らないことばっかりだねと聞くと、あらその方が気楽なんじゃないのという返事が返ってきた。

 苦笑と肯きをお湯割りで流し込んでいると、風呂場からのTVフォンが鳴りで呼んでるよと母が言う。

 風呂場に行くと、洗面所でTシャツハーパンの3人がバスタオルで髪を拭きながら、ゆーりの身長を測って記録してというので、自分の部屋から定規、スケール、ペンを持って測ると4cm伸びていて印する。

 リビングに戻り、帰宅した父と呑みながら4cmを考えていると、3人が果物やケーキ、冷たいものをだしてたちまち賑やかになった。

 話を聞いていると、ゆーりは夏休みと同じに月~金はここから登校し、理香と一緒に朝出ることになっているようだ。

 下駄を預けられたと思ったが、即というスピードで決まったらしいことは推測したが、確認の必要は無かった。

 身近で今まで以上にゆーりを見ることだと思いながら、心中にどこかでのんびりしたいという気がするのも事実だった。

 「賢、熱〇の別荘に行けば?」

 ゆーりが、完全に賢の心中を見抜いている。

 すぐに、佳織に経緯を電話すると、明朝管理人にお願いするからいつでも構わないし、ついでに週末の連休にゆーりが行くことにもOKを貰って携帯を切る。

 翌水曜日、ゆーりを送り出したあと、4~5日分の着替と二冊の本をバッグに入れて出掛けようとすると、管理人さんにお土産と母が10万くれた。

 勿論、ゆーりが来た時の費用を含めてだなと受取った。

 JRに乗る前に、お土産に和菓子と4合瓶の焼酎2、本を2冊買った。

 電車でビールを呑みたかったが、人の眼があるなと本を読む。

 熱〇に着いて、生ビールと鮨の遅めの昼食を摂りのんびりと海を見ながら40分近く歩いて保養所の上の別荘に着いた。

 御主人は留守で、奥さんが鍵を開けてくれて、お湯を出してある温泉、冷蔵庫、干してある羽毛とタオルケットと説明してくれ鍵を受け取り、お土産を渡した。

 念入りな柔軟体操で身体を解し、温泉のシャワーで汗を流してハーパンに上半身裸で広いベランダのデッキチェアーに、本とビールを持って座る。

 本を開くが、木々の緑、青い海と空、雲を見ているほうが楽しくてぼーっと眺めてしまう。

 一缶があっという間に空になり、ボールに氷と缶ビールを4~5本押し込んでデッキチェアーに戻る。

 ここに居る時間は、諸々のことは頭から追い出そうと、非常に都合のいいルールを思い浮かべる。

 刻々と変わる海と空の施しに心打たれながら、冷えたビールを味わう。

 海と空が夕焼けの黄金色で一体になった6時半過ぎ、奥さんが夕食を運んできてくれた。

 何にも食べないでビールばっかり呑んで、冷蔵庫に一杯いれてあるのにと小言を喰らい、恐縮していると、折畳みテーブルに食事を置いて冷蔵庫からもいろいろ出してくれる。

 朝食はいいですからというと、はいはいと聞き流し片付けなんかしなくてそのままでいいからと帰って行った。

 焼酎とポットを持ち上がり、旨い肴で、暗くなり星明りの下で呑む。

 いろいろな思いが浮かぶが、深く考えることはしないで星のきらめきにたゆたうだけで呑み続ける。


 10時頃起きて洗面後、海まで歩くかと外に出るとご主人の大村さんが薪割りをしているのが見える。

 近づいて今日は、お久し振りです、お世話になりますと挨拶すると、おう昨日は土産有難う、すごい記録を出したねと祝ってくれる。

 薪割りを聞くと、去年の秋から炭焼きを始めて、明日火入れをするがこれから先の材料の薪を作っているという。

 何も考えないで汗出しするかと、条件反射で手伝わせてくださいと言葉が出た。

 怪我させちゃ申し訳ないからと断わられたが、先ずできないことなのでどうしてもとやらせてもらうことにした。

 大きさ等を教えてもらって早速始めてみると狙ったところに当たらなかったりしたが、30分もするとコツを掴んだ。

 無心になって割っていると、汗がアルコールと一緒に出るようで爽快になり、Tシャツを脱ぐと風が心地よい。

 続けていると、やって来る人が結構多い。

 今朝海から上がった魚介類や取れたての野菜や果物を持って来てくれて、その度に奥さんが、二人で作った干物や塩辛、佃煮や炭を持たせている。

 実に和やかな思いやりのやりとりでなるほどなと感心し、このご夫妻の地元との信頼感が垣間見える。

 家の裏というには広い空き地で陽を浴びてやっていたが昼にするからと呼ばれた。

 ここでシャワーしてと板囲いの外にバスタオルが置いてある。

 遠慮なく裸になりコックを開くと熱めのお湯がほとばしる。

 温泉だよとだけ説明して一人にしてくれて、頭から微かに硫黄の匂いがする温泉を浴びた。

 バスタオルを首にかけてサンダルにハーパンだけの上半身裸で出ると、こっちだと手招きされ、木陰のテーブルに行くと昼飯があり、奥さんが缶ビールを持って来た。

 食べて呑まなきゃだめよと奥さんから言われ、ご主人と二人でビールを開けた。

 午後もこの手伝いをするつもりで根掘り葉掘り教えて貰う。

 今朝干したという小鰯の生干しが、柔らか味があってビールに合うが、午後からのこともあり2本だけにして、段取りを確認し、出汁がおいしい素麺と磯の香りがするお握りを腹に収める。

 午後からは割った薪を一輪車で干し場に運んで積上げ、帰りに釜に入れる干し薪を釜の前に置く。

 竹、みかんの木、樫の順番だ。

 釜の口に扇風機を廻し、ご主人が木を積並べているが、ふーっと言って出てきたので、やりますから教えて下さいと、ゴーグルをして四つんばいで釜に入った。

 外から教えてもらいながら、休憩を挟んで全部入れ終えた。

 若いし体力があるから大したもんだ、早かったと感心している。

 ちょっと港まで行って来るから、汚れを落としてと言われたが、もう少し薪割りをと続けることにした。

 コツを掴んで、上段から斧を振るのが結構楽しい。

 割った薪を干し場に積み終わるともう日が落ちている。

 斧を片付けて別荘に戻り、温泉で汚れを落としお湯に浸かると心地よい疲労感に包まれてソファに引っ繰り返っていると、奥さんが夕食は家に来てと呼びに来た。

 「いや、つまみは冷蔵庫にありますから充分ですから。」

 「何言ってんですか。 肴があるし早く。 あの人、嬉しいのよ、一緒に呑むのが。」

 奥さんに引っ張り出され、管理人さん宅の広いダイニングに入ると、テーブルにご馳走が並んでいる。

 さっき上げたばかりだと、海栗と鮑のお造りを持ったご主人が、ビールからと注いでくれて、今日はご苦労様でしたと乾杯する。

 海のものが新鮮でどれも美味しい、乾いた喉にビールが心地よい。

 いろんな話の中で、江川家や桂介との関わりやエピソードを聞かせてくれて、お土産に渡した芋焼酎を開けてくれる。

 奥さんが糠漬けを出して、これがお湯割りに合って美味しい。

 ご主人がトイレに立った時に、本当に嬉しいのよね、息子位の年の貴方と仕事して呑んで、昔の話もできたんだもんと、奥さんがうっすら涙ぐんでいる。

 勝手に図々しくさせてもらっただけですと謝罪したが、桂介さん、佳織さんがゆーりさんと一緒に居させるのが解りますとOKを出してくれた。

 そろそろこれで失礼します、ご馳走様でしたとお礼を言うと、地元のよと巨砲を持たせてくれて、朝御飯も来て食べてと念押しされた。

 別荘に戻り、缶ビールを持ってもう一度かけ流しの温泉に浸かる。

 身体をゆっくりと伸ばし、汗が出る前に上がり、お湯割りを一杯だけのつもりで、ゆーりへの連絡を考えたが向うから何もないこともあり、電話は止めてベッドに入ったのは11時だった。

 7時に起きて釜にいくと、ご主人がもう火を入れている。

 釜が小さいから、夕方までで充分らしい。

 朝食を頂き、チェーンソウを出してもらい、野積してある木の枝を落とし30センチの長さに切り分けていく。

 みかんの木の緻密さと油分に感動しながらやっていると、休憩しようと缶ビールを貰った。

 奥さんから洗濯するから出してと言われ、遠慮なくハーパンTシャツと、着替えを持ってきた。

 ご主人はうまそうにタバコをくゆらせて、お互い2缶呑んで仕事に戻る。

 混合油を給油しながら、頭を空っぽにして汗を噴出し、チェーンソウの音の合間に誰かが入れ替わり来てるらしくいろんな声がする。

 チェーンソウに汗を落とさないように額にタオルを巻いて、切り分けながら斧で割るのとそのままのを足で捌き分ける。

 お昼と手招きされ、温泉シャワーで流してダイニングに座り遠慮なくビールを流し込む。

 「くーっ、ビールうめえ。」

 「はーい、いくらでもどうぞ。 でも、貴方今日火入れ早かったのね。」

 ご主人はばつが悪そうにビールを飲む手を止めて、早く起きたからとぼそっと返事した。

 昼食を手早く済ませ、午後は休憩もせずに薪を干し場に運び枝を横に積上げる。

 ブロック塀で屋根つきの干し場はほぼ一杯になり、野積みされていた大木が綺麗に片付いた。

 掃除して道具を片付け、火の番をしているご主人に終わりましたと声をかけて

別荘に戻り、温泉に手足を伸ばしてゆっくりと浸かった。

 ベランダに上がり、ビールを呑みながら火照る身体で風に吹かれていると、昨日と同じ金色の夕焼けが微妙な変化を総て見せてくれる。

 奥さんにお待たせどうぞと呼ばれ、ダイニングに上がると料理が並べられ3人で乾杯のあと、烏賊の細作りを地卵の黄身にくぐらせて頂く。

 柔らかさの中の歯ごたえと甘みが何ともうまい。

 「昨日来た漁師さんが賢クンを見てね、他の漁師さんにも美味いの食わしてやれって2人持って来てくれたの。 全部食べてね。」

 海栗、サザエのお造りがおいしいが小鰯の生干しが焼酎に実に合う。

 「お父さん、早く火を入れたの賢クンと呑みたかったからでしょ?」

 ご主人がお湯割りを空けてにやっと笑った。

 仕上げに鯛めしを食べて別荘に戻り、流石に多少疲れたのか温泉シャワーを浴びて寝た。

 翌日、まだ暖かい釜出しするが、夫々に分けるために殆ど賢が釜から取り出し、マスクや全身が真っ黒になるが中を箒で掃除して終わったのがもう夕方の4時だった。

 温泉シャワーで流して、着ていたハーパンTシャツを絞って置いてバスタオルだけ巻いて別荘に戻りそのままソファに引っ繰り返っていつの間にか寝てしまったらしい。

 起きて、晩御飯ですよと揺り起こされた。

 時計を見ると6時20分になっている。

 疲れたのね、シャワーでも浴びてからいらっしゃいと奥さんが出て行く。

 のろのろと身体を起こし、湯船に浸かり顔をごしごし洗ってから管理人さん宅に向かう。

 海を見ると黄金色の終わりが見事だ。

 しばらく見とれたあと、管理人さん宅のダイニングに座り、ご主人と乾杯した時、ただいまーと声がして、ゆーりが駆け込んできて賢に飛びつき、理香と佳織が入ってきた。

 訳が解らないまま車からのお土産荷持運びに引っ張り出され、3人は手と顔を洗い、食卓の準備を手伝っている。

 学校が終わってすぐ3人でここに来たらしい。

 来るとしたら明日だろうと思っていたのに、管理人さん夫婦は驚いてもいなかった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

   

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


 

 



 


 

 

 

 


 

  

 

 

 

 9月8日(金)、大会初日、昂太郎も一緒の3人で8時半前には大会受付を済ませ、3人のADカードを受取った。

 ゆーりはコーチとして登録されていて、カードを首にかけた時に、ドクが来て皆で悔いの無いようにしましょうと優しい応援をしてくれる。

 開会式が9時で、9時15分には予選が始まる。

 100平の賢の予選は3組で14:20、クリアすればB決勝が16:50、決勝が17:00の予定になっている。

 選手控えの体育館は空調してあるが、賢たちは外に出てゆっくり柔軟体操を始める。

 10分もしないうちに汗が出るが、注意しながら少しずつ水分補給をする。

 11時過ぎに早めの昼食を済ませると、理香、聖、佳織、大らが応援にやって来た。

 サブプールで少し流し、どんどん進んでいく予選の中で自分の3組を待つ。

 スタート台後ろの椅子に座っても、焦りみたいなものは全く感じない。

 スムーズにスタートし、初めて泳ぐことができたことが頭に浮かび、更にターンするだけ泳げることの嬉しさの気持ちのままゴールタッチする。

 3組ではトップ、予選全体で3位で、決勝進出になった。

 応援の皆とアリーナから出て、ベンチに座る。

 大が押さえたのかと聞くが、一杯だよと答える。

 眼で問いかけるゆーりに、中1で初めて泳いだ時の感覚で、不思議だったと打ち明ける。

 ゆーりが何も言わず、小さく拍手したことで、これでいいんだなと手足を伸ばす。

 昂太郎が、先輩お腹に少し入れときましょうと、4人で蕎麦を食べて柔軟体操をしながら決勝を待つ。

 欲も気負いたつことも無く、ゆったりと構えてコース順に並び、決勝時だけの紹介アナウンスを聞く。

 ゆーりや理香達は、観覧席の中列に座っているのが見える。

 中1の夏の夕方、一人で出掛けたプールでトレーニングしている人達を別のコースで秘かに追いかけるように泳いだ記憶が蘇る。

 体はまだ細く、しかし柔軟だったし、それほど離されないで泳げることが、たまらなく嬉しかった。

 その時に乗り移るかのように、一度体の力を抜いてゆっくりと3コースのスタート台に立つ。

 ホイッスルと同時に滑らかに飛び込み水を掻くと、中1の時と同じように水が身体を動かしてくれる。

 初めて泳げた時に、水に逆らうんじゃなくて力を借りて助けてもらうことを直感で悟ったが、今まさに水に助けられてると全身で受け止めてターンし、後半を滑らかによどみなく滑り進む。

 水に送り出され、感情が心地よいと受け止めた時点がゴール盤だった。

 ゆるやかに気持ち良かったと受け入れて、もう一度全身で水に浸かり頭を上げると、4コースの選手が手を伸ばして肩を叩く。

 コースロープに身体を凭れて電光掲示板を振り返ると、3コースの自分の名前の横に、58秒50 WorldNewRecordと出ている。

 すぐに着順どうりに表示が変わった。

 黙って見ていると、アナウンスで只今の百m平泳ぎの結果、一位桝井賢聖さん、タイム58秒50 、世界新記録ですと放送された。

 両サイドの選手から握手を求められ、観覧席を見上げるとゆーりが小さく拍手し、理香や佳織がビデオを廻している。

 プールサイドに上がり礼をすると、おめでとうの言葉と共に連盟の人に付き添われプールを後にする。

 身体を拭いて、連盟、判定員、ドクター、3名の立会いで採尿を済ませ、競技ごとの表彰式を済ませる。

 式では、鳴り止まない拍手に包まれ、控え室に戻るとゆーりと昂太郎が、信じられないという顔で待っている。

 ゆーりが黙って賢を見上げて左腕に抱き着く。

 「気持ち良かった?」

 「うん、すごく。 でもほんとなのかな?」

 「先輩、もう報道されてますよ。 0,02秒短縮だって。」

 昂太郎が携帯の画面を見て答える。

 シャワーを浴びてハーパンTシャツに着替えると、連盟の人からプレスインタビューに引き出され、まさか想像もしないという当たり障りない返事をして、まだ競技がありますからと早々に退散し、ロビーに出る。

 みんなから凄い、おめでとうと拍手が起こる。

 「凄いぞ。 一気にやったな。」

 「大、止せよ。 まぐれだ。」

 「まぐれでも凄えじゃねーか。 しかしやったな。 だけどそれにしちゃ冷静だな。」

 「いいんだよ、実感ねえし。 それにまだあるしな。」

 佳織がドクに頼んでくれたハイヤー3台で,夫々帰宅した。

 おめでとう、よくやったわねという母の言葉に迎えられ、ありがとうと返事をして、1Fのバスルームで長くシャワーを浴びる。

 すっきりしてリビングに戻ると、理香がビールを出してくれて聖がチーズとサラミを切てくれる。

 「ゆーりは?」

 「洗濯してるよ。」

 洗濯室に行くと、賢の水着やバスタオル、汚れ物を分別して洗濯機に入れている。

 「ゆーり、いいから休んでてよ。」

 「これは私がやるの。 賢、疲れてない?」

 「いや全然だよ。」

 「すぐ行くから呑んでていいよ。」

 一口でグラスのビールを空ける。

 ぐーっと背伸びして、うんめえと足を投げ出す。

 母が用意しておいたらしいステーキや心づくしのものを3人で調理してくれて、おめでとうの乾杯で食事を始める。

 「凄いよね。 世界新記録だもん。 理香はワールドレコードホルダーの妹になんだね。 聖ねえは姉だし、ママは生みの親だもんね。」

 「じゃあゆーりは?」

 答は持っているらしい母が、ちょっときつい質問をした。

 理香はふっと返事に詰まる。

 「ワールドレコードホルダーの創造者で、ゆーり無くしては成し得なかったビッグコーチよ。」

 「そうだよね。 じゃあもう一回ゆーりに乾杯。」

 少し頬を染めて嬉しそうにはにかんで母を見る。

 「賢くん、結構落ち着いてるね。 世界新だよ。 もっと浮かれるかと思うし、そうしてもいいと思うけどさ。」

 いつも冷静な聖ねえが、多少甘い労りと誘惑の言葉をかけてくれる。

 「まぐれだし、記録なんてすぐ破られるよ。」

 「なるほどね。 でもそう醒めてるの結構いいよ。」

 そうではなかったが、もうそれ以上は言わない。

 聖ねえだけじゃなくて、母、理香、それにゆーりも全部解っているんだろうなとビールを流し込む。

 「賢、明日はどうするの?」

 「昼頃、大学のプールで泳いでくるよ。 教授にお礼も言いたいし。」

 「私午前中行くとこあるから、帰るまで待ってて。 それから一緒に行くから。」

 「がさつなとこだからいいよ。」

 「駄目よ。 私が行かなくちゃ。 だから待ってて。」

 「おにい、ビッグコーチゆーりの言うとおりにしなきゃ。」

 有難うと返事してお湯割りを舐める。

 ゆーりが聖と理香に、一緒にお風呂と誘って3人が立ち上がったところで、重大な決心でお湯割りをあと2杯と決めてゆっくりと腰を落ち着ける。

 「本当におめでとう。 良くやったわね。」

 「止せよ、おふくろ。 こそばいーよ。」

 「ゆーりが居てくれたからよね。」

 「おっ、そっちかい。」

 「そうよ、頑張ってるよねえ。 いじらしいというのとは少し違う、ひたすらなんでしょうね。 明日、車運転しちゃ駄目よ。 ゆーりにお金渡しとくからタクシーで行きなさい。」

 「え、何で。 いいよ。」

 「事故は駄目でしょ。 ゆーりはきちんとできるわよ。」

 了解と、最後の一杯のグラスを自室に持って上がる。 

 10時前に眼を覚ますと、ゆーりの姿が見えない。

 軽い朝食を済ませ、庭の木陰で柔軟体操で身体をほぐして30分もすると汗が

滴り落ちる。

 腕立てや腹筋をやっていると、3匹の猫たちが背中や足に乗って纏わり着く。

 猫とじゃれあいながらみっちり身体を柔らかくしていると、佳織の車が停まった。

 ゆーりがただいまと駆け込んで、佳織に呼ばれ車から荷物を運ぶ。

 「身体疲れてない? もう嬉しくて、なんか一杯買ってきちゃった。 お昼にしましょう。」

 「また髪切ったんだ。」

 「中途半端に伸びたから。 おかしくない?」

 「いや可愛い。 似合ってるよ。」

 身長が伸びたのか、一層小顔になって心なしか高い位置にあるような気がする。

 理香が塾から帰り昼食にして、佳織の車で大学まで送ってもらう。

 まっすぐ教授室に向かい、出場やインタビューを短く切り上げてもらったり、様ざまを含めてお礼を述べると、監督者として当然のことでそのような気遣いは無用とにべもない。

 「ゆーりさんが居てくれて、二人での頑張りの結果です。 ゆーりさん、貴女自身が胸を張って下さい。 おめでとう。」

 ショートカットで少し陽に焼けたゆーりの顔が薄いピンクに染まるのを見て、自分が褒められるより以上に嬉しさがこみ上げる。

 プールで泳がせてもらいますと、教授室を後にする。

 水球部員の祝福の中で、1時間半泳ぐ間、ゆーりは昂太郎と木陰の下で何やら話をしていた。

 タクシーで帰宅し、猫とじゃれあって少なめのビールとお湯割りでベッドに入った。


 もう8時過ぎたよと、ゆーりに起こされる。

 いつもと一緒だよと言いながら、朝食時に駅での待ち合わせを10時半と昂太郎に連絡している。

 庭でゆっくりと身体をほぐすが、疲労感や倦怠感は見当たらない。

 ニャーミーとシーザがじゃれついて、芝生に座ったらチーコが股に乗るのもいつもどおりの流れだ。

 この子たちは、人の動きに合わせる中で自分達の楽しさを見出して、それを強要することはしない。

 ありがとうのつもりで、身体と喉を撫でる。

 シャワーで汗を流し、二人で歩いて駅に出掛ける。

 平200予選2組の12:50分に合わせて、アリーナ周囲を大歩幅、上下動で歩き、上半身の屈伸伸張を入念にこなす。

 汗を拭きながら、昨夜寝る前に浮かんだ一つ記録を出したからもう安心しているのかという自問自答を思い出す。

 緊張は無いし、リラックスしている自覚はある。

 着替えて、サブプールで身体をほぐしながら流して、予選2組のスタート台に立つ。

 無心で飛び込み、100より200が好きだから長く泳げる嬉しさでターンを繰り返し、ゴール板にタッチしたが、充足感には程遠かった。

 予選2組で3位のタイムで、予選3組が終わらないと決勝に出れるかどうか判らない順位だった。

 応援の皆には手を振っただけで、ハーパンに着替え、ゆーりと外の木陰のベンチに座る。

 

 


 

 

 

 


 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 

 

  

 

  

 

 

 



 2~3日オフにするから、どこか行きたいとこがないかゆーりに聞くと、気にしないでいいからと言うが、自身の気分転換だからと説明してもなかなか納得しない。

 「疲れたの? それともサボりかなあ。」

 「どっちも当たり。」

 正直に答える。

 「じゃあね、一日目は水族館、二日目は象さん、いい?」

 象さんは解るが、水族館とはと思いつつ、ゆーりにネットで確認させて、金〇〇景に決めた。

 理香を誘ったが、夏期スクールだから諦めると淋しそうだったので、別の日に時間を作ることを約束する。

 9時に家を出て、1時間半ほどで八〇島駅に着いて、ゆっくりと歩くと、電車の中は涼しかったが、外は暑い。

 タオルでゆーりの汗を拭いて、青いバンダナを頭に巻いて結ぶと、細身のGパン、白い半袖のポロシャツに良く似合う。

 ゆーりのバッグと、自分のザック両方を持って歩くと、ゆーりが賢のGパンのベルトを掴む。

 ゆーりのバッグはいつもより軽い。

 飲み物とチケットを買って中に入り、ロケーションを確かめて順番に見て廻る。

 思ったより巨大な施設で、賢は驚いたが、ゆーりも眼を大きくして左右、上下を見回している。

 ゆーりの視線を追って、泳ぎ回るいろんな大きさの魚を見ていると、ずっと泳ぐのも大変だなという気がする。

 狭いところに入れられてなんて考えないようにしようねと言い合ってみて廻り、海水の中の魚類の美しさに見とれ、ゆーりはきれいだと呟いている。

 気が付くと1時近くになって、お昼は外で食べたいというので、バーガー、サンドイッチ、ポテト、缶ビールコーラ、おにぎり、お菓子まで買って、外の木陰の下で拡げると、ちょっとしたピクニック気分だ。

 海からの風が心地いい。

 バンダナに水を絞り、ゆーりの顔を拭いて額に巻いてやると、冷たくて気持ちいいと

背伸びをする。

 どれからでもいいと聞くゆーりに、全部を開けると、サンドイッチとポテトを口に入れた。

 「私、水族館初めてだよ。 きれいだよね。」

 「俺も久し振りだけど、今は凄いね。」

 ビールを一気に流し込む。

 「いろんな泳ぎ方するんだね。」

 「魚が?」

 「うん、面白いよね。」

 「ゆーり、もっと気持ちよく上手にってメッセージだろ。」

 「ううん、違うよ。」

 ゆーりがバーガーを齧る。

 「確かめたかったの。」

 ポテトとサンドイッチでビールがうまい。

 「俺は迷ってないよ。」

 「賢、ありがと。 そうだよね。」

 「で、確かめた?」

 「ううん、いいの。 私の独断だった。 人と魚は違うんだもんね。 反省だなあ。」

 ゆーりが、バーガーを頬張り、ポテトとコーラを飲むのをビールを飲みながら眺めて、言葉をかけることはしない。

 黙っておにぎりを渡す。

 黙って受取って、丁寧に剥がし、下を向いて食べ終える。

 「俺は、ゆーりの独断が信頼なんだよ。」

 ゆーりが顔を上げて賢を見つめる。

 両足を開き、左膝を立てて、ゆーりを脚の間に座らせる。

 立てた左膝に身体を持たせかけ、胸に頭を預ける。

 30分くらい、そのまま会話もなく黙っている。

 うんと小さく頷いたゆーりが立ち上がり、賢の手を引いて立たせる。

 「もう見なくていいよ。」

 紙袋と缶、ボトルを片付ける。

 「ゆーり、帽子買おう。」

 ゆーりが賢のベルトを握り歩き始めた。

 横〇に戻り、トイレでバンダナに水を絞り、顔や手、首を拭かせついでに自分も顔と首を拭きすっきりして、デパートのショップをゆっくり見て歩く。

 あるショップの奥に展示された白いワンピースが眼に留まった。

 じっとみていると、その白いワンピースを着たゆーりの姿が浮かぶ。

 どうしたのと言うように、ゆーりが賢のベルトを揺する。

 ゆーりの手を引いてショップに入り、これ着てみてと指差す。

 帽子だよと言いながら、ゆーりも嬉しそうにそのワンピースを手に取る。

 「賢、だめ、帽子いこ。」

 ゆーりがタグを見せると6万となっている。

 とっさに考えを巡らし、自分はゆーりがこのワンピースを着ているのを見たいと確信して、ゆーりの身体に当ててみる。

 後ろから、似合いますから是非試着して下さいとショップの女性に誘われ、ゆーりが試着室に入り、賢はショップの外で待った。

 しばらくすると、ショップの女性にどうぞと呼ばれ、フィッティングルームにいいですかと声をかけると、カーテンがゆっくりと開いた。

 ゆーりが、恥ずかしそうに賢をみて身体を回転させる。

 膝下丈、肘上までの半袖、生地に細かい刺繍模様で、ゆーりにぴったりで、ショートヘアの小顔でより全体が細く見える。

 ゆーりが不安そうにどうかしらと聞くが、賢は、可愛いよと言うのが精一杯だった。

 ゆーりに親指を立てて、ショップの女性に、これをとお願いする。

 カードで支払いをしていると、ワンピースを持ったゆーりが出てくる。

 「高いのにいいの?」

 「似合ってて可愛いよ。 あと帽子と、それに合う靴もだね。」

 ショップの女性が自分の名刺をだして、一緒に探させてと言う。

 このショップのオーナーの娘で店長だが、このワンピースを着るゆーりに合うものを一緒に選びたいといって、もう一人の女性にしばらくお願いと、ワンピースを入れた袋を持って別のショップに案内してくれて、少し踵のあるサンダルと靴の中間くらいのものと、ストローハットとキャップを買う。

 「ねえ、うちで、も一回着て合わせて見せて。」

 ゆーりがそうしたいと言うので、彼女のショップに戻り、やはり外で待っていると、最高よと呼ばれる。

 中に、夏の妖精がいる。

 「白いワンピース、ストローハット、素足にミュール、ぴったりだわ。 ね、写真撮らせて。」

 賢もデジカメを出して撮る。

 「貴方、カードの名前桝井賢聖さんですよね。 どっかで聞いたことあるんだけど。

お嬢さん、良かったらお名前と電話教えて下さい。 似合うのを探しますから。」

 ゆーりが賢を見上げるのに頷く。

 「江川由理愛です。」

 その女性がゆーりを驚いて見つめる。

 ゆーりが賢の横に少し隠れる。

 「貴女、もしか江川佳織さんのお嬢さん?」

 「はい、そうですけど。」

 その女性が、ゆーりの帽子を取り抱きしめる。

 「きれいになったね。 良かった。」

 ゆーりも賢も驚いて、あわてて彼女がくれた名刺をみると、宮原千秋とある。

 ゆーりの肩を抱いたまま、携帯をかける。

 「佳織姉さん、あたし千秋よ。 久し振り。 今、ゆーりがお店に来てるのよ。 驚いたわ、きれいになって。 ゆーりに替わるね。」

 ゆーりが、賢と水族館に行って、その帰りに買物したことを説明して携帯を千秋に戻す。

 二人をガラステーブルのスツールに座らせ、うんうんと佳織からいろいろ聞いて、また後で電話するからと切った。

 「ゆーり、帰るまでこのファッションでいてね。 ゆーり、私覚えてない? よく家に行ってたんだよ。 小学生だったから駄目か。」

 ゆーりが首を横に振る。

 「桝井賢聖さん、ゆーりのことで佳織姉さんが信頼している家庭教師さんで家族ぐるみのお付き合いのレコードホルダーさん。 うちのワンピースに気が付いてくれて有難う御座います。 さっきの支払伝票は破棄してお二人へのプレゼントにします。」

 「いや、それは困ります。 支払いはちゃんとしますから。」

 「いいんです。 ね、時間まだいいでしょ。 カフェで話ましょう。」

 カフェに入ると、中に居る人たちの視線が全部ゆーりに集まった気がする。

 女性はフルーツパフェ、賢は瓶ビールを頼む。

 話の途中に千秋が佳織に電話をしたりして、あっという間に40分経っている。

 「引き留めて御免なさい。 ゆーり、近いうちに家に行くからね。 用心して帰ってね、こんな可愛い娘を連れてるんだからさ。」

 帰る途中、電車の中でも男女の区別なくゆーりに視線が集まっている気がする。

 「ね、今日のデート楽しかったよ。 このファッションも嬉しい。」

 腰に手を廻してゆーりをガードする賢に、身体を折らせ耳に囁く。

 6時前に帰ると、ただいまと駆け込んで、母と理香を呼ぶ。

 庭で両手を拡げるゆーりに、二人が可愛いと声を上げる。

 ここでも賢はデジカメを構える。

 千秋の名刺を見せて説明し、佳織さんに見せてあげなさいとの母の言葉で、さっとシャワーをあびて、理香も一緒にタクシーで出掛ける。

 「賢クン、どうしてこのワンピースだったの?」

 「いや見回してたら、ゆーりに着せてってぴたっとはまったから。」

 「有難うと言うしかないわ。 あの頃を、、、」

 「もうそれは終わってるからいいって。 でもみんなゆーりを見てたな。 やっぱ可愛いし、夏の妖精だよ。」

 「でも、母として何にもできてない気がする。」

 ママ、理香ねえとお鮨に決めたとゆーりが催促の声をかける。 

 はいはいと返事して、電話で鮨の出前を品を確認しながら頼んでいる。

 ハーパンに着替えたゆーりと理香、祖母の3人でサラダや吸い物の準備をしている。

 「佳織さん、祖父母さんがいるからこそ安心して俺んちに来てるんですよ。 じゃなかったらこんな笑顔にならないでしょうよ。」

 「ゆーりさん、ビールくださーい。」

 佳織が立ち上がって、自分の部屋に向かう。

 はーいと返事があって、ビールとグラスをリビングに持って来たゆーりに、佳織の部屋に手をかざす。

 振り向いたゆーりが、腕組みして頬を膨らませて母を視線で追うと、理香がつまみを置いて、佳織の部屋に行く。

 理香がノックして佳織の部屋に入ると、綺麗に片付いた室のドレッサーの前に肩を落として座っていた。

 「佳織ママの部屋に始めて入ったわ。」

 「御免なさい、心配かけて。」

 「ゆーりが私の部屋に居たとき、寝る前必ずPCに入力してた。 何かなって聞いたら、毎日ママに話すことを書いてるって。 賢にいの部屋でもそうだと思う。」

 「母としてなんにもしないで失格じゃないかしら?」

 「ゆーりは気丈に頑張ってる。 佳織ママと離れて一番淋しいのはゆーりかもよ。 でも、彼女は自分の世界を開こうと一生懸命だわ。 ずっと見てくれてる佳織ママが居るからできるんじゃないかな。」

 「ほんとにそうなの?」

 「賢にいはそれがよく解ってるから、ゆーりがうちに居ても何の心配もしてない。 ゆーりと佳織ママの無距離をしっかりと見てるから。 だからさっきも佳織ママの言葉に動じないでしょ。 別の意味であの二人は凄いよ。 ゆーりだって期限は持ってるし、その間にいろんなこと一杯やってみたいのよ。 でもそれができるのは佳織ママが居てくれるからでしょ。」

 「何にもしてやれなくて、あの子が離れていきそうで。」

 「そりゃあ子供は幾つかのことで親から離れていくわ。 私もそうよ。 だけど親との信頼までは無くさないでしょ。」

 「そうなんだね。」

 「みんなにお世話になって、ゆーりがアドバイスして記録を出せた。 だからおにいがもう1回チャレンジしようとして、ゆーりが懸命にバックアップしてる。 ここに入る隙間はないけど、そうでないときは母と離れてるのを我慢して責任を果たしてるの。 賢にいがしっかり受け止めてるから私は心配しないわよ。 期限が来たらゆーりはもっと成長して佳織ママの前に立つわ。 自信を持って待っててあげて。」

 「解った。 理香さんに教えられちゃったね。」

 「ゆーりがお祖母ちゃんとお吸い物造ってるよ。 行きましょ。」

 リビングに二人が戻り、理香がゆーりに、ママにビールよと言うと、嬉しそうにグラスに注ぐ。

 「ママ、お吸い物の味見して。」

 佳織がキッチンに立ち、グラスを洗い口をすすいで小皿で味見をする。

 「おいしい。 OKよ。」

 やったーと、ゆーりが佳織に抱きついた。

 翌日11時前には動物園の象舎前に、二人で居た。

 ゆーりは細身のホワイトジーンズ、タンクトップにブルーのポロシャツに昨日買った大きめの白いキャップ、賢は相変わらずスリムジーンズ、Tシャツで首にタオルだ。

 園の木陰で、ゆーりの頭にバンダナを載せてキャップを被せ、襟足をガードする。

 さすがに炎天下では冷たい飲み物が放せない。

 象さーん、コンニチワ、久し振り、夏になって良かったねとゆーりが手を振る。

 「1年前までは悲しみの象さんだったよ。」

 「今は?」

 振り向いたゆーりが周りの人を見回して、賢の身体を折らせ耳打ちする。

 「今はね、輝きと希望の象さん。」

 その一言で、ゆーりの心をしっかりと受け止める。

 笑顔で賢を見つめるゆーりの瞳が大きくきらめき、額に汗が浮かぶ。

 しゃがんで自分のバンダナに水をかけてゆーりの顔を拭き、絞って首に巻く。

「ゆーり、象さんバックに写真撮るよ。」

 人が離れた時にシャッターを押すと、両手を上に拡げて背伸びしている。

 「可愛く撮れた?」

 「ALL OKだよ。」

 液晶画面を覗いたゆーりが、賢、撮ってあげるとカメラを構えるが俺はいいよと象の方を向く。

 もうと膨れるゆーりに、近くで見ていた女性が撮ってあげましょうかと声をかけて、

即、お願いしますと応える。

 カメラを渡し、賢を振り向かせて横に並び、左手の下に立つ。

 シャッターの音で、お互い見下ろし見上げる二人に、またシャッター音が聞こえる。

 「何か素敵だったからつい2枚撮っちゃった。」

 「いいえ、全然。 有難う御座います。」

 二人で丁寧にお礼を言って、象舎から離れる。

 「賢、カキ氷食べよ。 ママからお小遣い貰ったんだ。」

 ゆーりがお金を払い、木陰のベンチで食べる。

 「お腹、大丈夫?」

 「すぐ汗で出ちゃうよ。」

 「昨日と今日で少し陽に焼けたね。」

 「嫌い?」

 「全然、どっちも可愛いよ。」

 「良かった、でもすぐ戻るんだ。 ねえ、孔雀見ようよ。」

 鳥のゾーンに行って、孔雀を眺める。

 「孔雀も好きなの?」

 「んーん、きょろきょろしないですむからね。 お猿さんなんか目が廻って頭痛くなるもん。」

 「そーか、そいうことね。」

 「ねえ、明日からタイムだよね。」

 「そうだね。」

 「夏休みが終わったら心配だなあ。」

 「大丈夫だよ、ちゃんとやるから。 ねえお昼何にする?」

 「そうだねえ。」

 「ねえ、ちょっと脚延ばして深〇寺に蕎麦食べに行こうか?」

 「いいね、お蕎麦好きだよ。」

 お寺にお参りしたあと、門前の蕎麦屋に入る。

 「どれにする?」

 「冷たいのと、天麩羅盛り合わせセットがいい。」

 セットを二つと、お稲荷さん、生ビールと盛蕎麦を2枚頼む。

 「そんなに食べきれないよ。」

 「いいから好きなものを一杯食べて。」

 生ビールでセットをゆっくり食べる間、ゆーりもおいしいと言いながらセットに稲荷1こ、ざるを半分食べた。

 蕎麦湯を注いでやって、残りをきれいにたいらげていく。

 「賢が食べるの、見てて気持ちいいね。」

 「旨かったし、腹へってたからさ。」

 ゆーりが払うというのを押し留めて、残りをママに返すように言い聞かせる。

 蕎麦屋を出たところで、賢の携帯が鳴った。

 佐山教授が、確認したいことがあるので明日9時半に来て欲しいが、昂太郎も呼んであるとのことだった。

 翌日、原チャで学舎に向かうと、昂太郎と出会った。

 お互い久し振りと挨拶して教授室に入る。

 呼び立てて済まないとの後で、他大学から大学選抜メドレーリレーのチーム編成申し入れが来ているということで、それに対する賢の意思を確認するためだった。

 経緯は、先日昂太郎が村石ドクのアドバイスを貰いながら賢のエントリーを済ませた時、他学のマネージャーから打診があって昂太郎は多分無理と断わったらしいが、正式なルート上でのオファーなので確認して回答しなければということのようだ。

 思いもよらないことだった。

 教授が、コーヒーメーカーからプラスチックカップにコーヒーを注いで昂太郎があわてて受取って持ってくる。

 「どうかね?」

 「考えてもいないことで、それに応えることは無理です。」

 「ふむ、では無理だという理由を整理して説明してくれないか?」

 佐山教授の、思考プロセスにたいするこういう確認の手順は良く理解している。

 「先ず、自分には一人の100、200しか意識が在りませんのでこれ以上は神経が持ちません。 次に3日間のタイトなスケジュールで、競技数の増加は身体が持ちません。 そしてリレーは全く解らないし、自分の競技だけで精一杯です。」

 「君らしい整然とした説明だね。 私も多分そうだろうとは思ったが、君がもし出ると言えば、私が説得して出ることにするということにしなければと杞憂してね。 でないと園田君が辛い立場になると思ったもんだから。」

 昂太郎が眼を見張る。

 「オファーには私がきちんとお断りしておく。 ところで、ゆーりさんは元気かな?」

 「はい、夏休みで日に焼けて元気です。」

 「そうか。 彼女のためには頑張りなさい。 今日は有難う。」 

 昂太郎と、学食横のロビーに座る。

 エントリーの礼を告げると、手を振って当然ですからと取り合わない。

 「ゆーりさん、ドクと連絡してるし、時々はアリーナに行ってますからね。」

 「なんだ。 じゃあお祝いと一緒で何にも知らないのは俺だけなんだ。」

 「いいですよ。 没頭してれば。」

 冷やし中華とお握りの昼食を奢って帰宅した。

 原チャリのヘルメットの頭に、教授の彼女のためには頑張りなさいという言葉が響く。

 ソファに寝そべり、今年のインカレのスケジュールを思う。

 9月8(金)、9(土)、10(日)の三日間で、平100の予選決勝は8日、平200の予選決勝は10日とタイトで厳しいが、これは皆同じということだろうと思う。

 今年は8日9時の開会式にも出なくてはいけない。

 ゆーりのためには頑張るとはどういうことだろうと、思いが渦巻く。

 起き上がり、アリーナに出掛ける用意をしていると、ゆーりが行くよと手を引っ張る。

 2日休んだアリーナに行くのに、昼食前から用意していたようだ。

 「休んだからさ、昂太さんとやったように周囲を大きく上下して大幅で歩こうよ。 腕もうごかしてね。」

 二人ともザックを背負って歩いた。

 4周してびっしょりになり、もう1周プラスする。

 スポーツドリンクを補給して、女子更衣室でゆーりを着替えさせる。

 ハーパン、キャミソールTシャツの着替えを確認して、自分も着替えてジムでのトレを始める。

 たった二日の休みだったが、身体以上に心を絞る幅が大きい感触が少しやりきれない気がする。

 ジムで汗を絞り、2千追い始めるが、彼女のためには頑張りなさいという言葉

が頭のどこかに木霊する。

 それでも遮二無二2千追い、さらに千引っ張るがなにかしっくりしないまま休み明けの初日を終えた。

 二日のOFFのせいか、身体にどよんとする重みがある。

 更に3日、2千の競技の心算で2本づつ追い、重みは消えたが、頭か心なのか

濁りがある。

 8月23日、インカレまであと20日、それでも頭のもやもやは晴れない。

 追い込むしかないつもりで泳ぎ込む。

 帰宅してシャワーを浴びると、ゆーりがサンルームに賢を呼ぶ。

 「はーい、ビールどうぞ。」

 「おっ、嬉しいね。 サンキュー。」

 胡坐でグラスを持つ賢の膝にすかさずニャーミーが乗っかる。

 脚を伸ばしたゆーりの太腿にシーザが乗り、チーコはゆーりに身体を擦り付けてお尻の後ろに横になる。

 空けたグラスにゆーりが注いでくれるが、お互いの身体が身体が動いても二匹は動じない。

 「ニャーミーはね、社交的なヤンママで、シーザはナイト気取りだけどずれてるとこがあんのよねえ。」

 シーザの眼の間を撫でる。

 「チーコは?」

 「怖がりで臆病よ。 でも相手に安心すると全身で寄りかかるよね。 相手が読めるのかなあ。」

 サラミを噛んでニャーミーに食べさせる。

 「いつもならさあ、チーコ、賢の横に来るんじゃないの?」

 それもそうだなと思いつつビールを呑む。

 「賢、いい記録出したい、勝ちたいと思ってない?」

 真正面から、ゆーりが賢を見つめる。

 賢もゆーりを見返すと、悲しみのような揺らめきに気が付いた。

 そんなに一方的なっていただろうかと、ここしばらくを思い返す。

 「佐山先生からさ、何て言われたの?」

 えっと虚をつかれ、未だに消化できないプロフェッサーの言葉を飲み込む。

 「何て言われたの?」

 「うん、ゆーり、彼女のためには頑張りなさいだったね。」

 「それはどういう意味ですか?」

 「正直に言うよ。 彼女のためにはの、は、が解らなくてもやもやしてんだよね。」

 「賢のばかあ。 ゆーりとの約束は何だったのよ。」

 めまぐるしく頭が過去を切り刻み、一点に結びつく。

 「自然体になることだ!!」

 「そうでしょ、それしかないでしょ。 ゆーりのためには。」

 総て腑に落ちて、忘れていたことを煌めきと一緒に蘇らせることができた。

 「去年、賢が自分で言ったんだよ。 ゆーりが居たから自然体になれたって。

私はそのことでしか賢を見ていないし、以外のことでは解らないから。 だから自然体で、水と仲良くすることだけをお願いしたよ。」

 怒って泣くだろうかと思ったが、チーコを撫でて笑っている。

 「昂太さんが電話くれたの。 先生の話を聞いた後、ぼーっとしてて受け止めてないみたいだから注意しといてって。」

 周りは全部解ってて、気付かないのが自分だけというのをまたやらかして、そして丁寧に教えて貰った。

 ただ、好きで泳ぎたいからだけで始まったことなのに、たった一つ記録を出しただけで、一人前にスケジュールに気を取られ根本を見失ってしまっていた。

 チーコと眼が合うと、立ち上がりニャーミーの間に乗ってきた。

 「チーコ、安心したんだ。 最近賢の傍に行かなかったもんね。 よーし、御飯だよ。」

 3匹を引き連れ、お盆を持ってキッチンに行くゆーりの後ろに従う。

 「どうだった?」

 「りかねえ、ノープロブレムだと思うよ。」

 「全く手間がかかるおにいだわ。」

 「いいじゃないの、そのために私達が居るんだから。 ゆーり、賢にビールあげなさい。」

 「ご褒美にしようかな、ね、ツーママ。」

 夕食を終えて、ゆーりが理香をお風呂に誘う。

 次の日からは、もう迷うという贅沢は許されない中で、タイムを無視して、水との調和と頭を空にすることを目指した。

 心にあったのは、駄目でもどうでもいいことだし、結果に恐ろしさや左右されることは何もないという割り切りだった。

 最初の二三日は違和感があったが、四日目には水中の抵抗がない感じで手足が動くようになった。

 頭が空というか思考が無いようで、泳ぎ終わると爽快感が残る。

 ゆーりの夏休みがあと4日となった8月28日(月)、2千追って休憩、400を3本やったあとのプールサイドで、だいぶマシになったねとゆーりが声をかける。

 練習している選手の中には、コーチが計測している者もいる。

 それを見ても気にならないのが自分でも不思議だが、平穏な気持ちのままで400を2本追う。

 ゆーりに諭された日から、帰宅後、まだ日差しが暑いサンルームでビールと猫と会話が習慣になった。

 「賢、目標は?」

 ニャーミーが脚に乗るが、チーコがおずおずと付け根にもぐり込んでくる。

 「テストでも何でもいいけど、自然体で水と仲良くすること。 それだけだね。」

 ゆーりが、サラミを2枚噛んで3匹に公平に食べさせる。

 「もっと掴んでるよね。」

 「怖さ、恥ずかしさ、一切何にもないよ。」

 「学校が始まるけど、居なくても大丈夫?」

 六つも年下の少女が自分のことを心配していることに驚きながら、そんなに頼りないか聞くと、正面から見返して頷く。

 「大丈夫だって。 もう迷わないよ、はっきりしてるからさ。」

 あーあと、思わず苦笑が浮かぶ。

 聞くと、9月1日(金)の始業式に、4日(月)から8日(金)まで休む届けをするつもりらしいので、それは絶対駄目、8日(金)だけ休んでくれればと言い聞かせると、1日休みと五日とどう違うと食い下がる。

 ふと、この子は、俺がまた自分を見失わないように真剣に心配していると胸を衝かれた。

 「そんなに信用ないかなあ?」

 「勉強、学校、賢が言うのもその通りだって解ってるよ。 でもね、私の存在意義って賢の大事な時の直前にさ、しっかり見ることなんだよ。 ゆーりがしてあげられることってそれしかないの。 それが、賢と私を結び付ける意味だもん。」

 賢は、言葉を返すことができなくて、ビールを流し込むのが精一杯だった。

 「学校行くよ、賢が大丈夫ならね。 さあ、ツーママのお手伝いしまーす。」

 ゆーりが立ったあとで、チーコの喉を撫でながらいろいろ考えたつもりだったが何の結論も出せず、ビールの追加でリビングに戻った。

 29日、いつものように9時からゆーりの勉強と自分の論文を始める。

 ゆーりの学校の課題はとっくに全部終わっていて、高校の受験問題集の数理をやっているが、数学の質問は殆ど無い。

 勉強の頑張りにも感心する。

 お昼を済ませ、アリーナに行く途中でゆーりのタイムを出すのという質問に、その心算は無いと返事すると、じゃあ今日はビデオだなと笑っている。

 二千と四百を五本、それでも体は軽い。

 「もしタイム出すって言ったら、悲しかった気がするよ。」

 「だから解ってるからって。」

 「OK、信用してあげる。」

 31日、アリーナを終わらせて、ゆーりを自宅に送ったが自室が妙に広くて空気さえもよそよそしい感触があるが、それは誰にも言えなくて自分で飲み込むしかなかった。

 結構な期間ゆーりを預かって、事故や病気も無しに返せたことにはほっとする部分はあったが、多少の空虚感まであるとは思いもしなかった。

 まあ2~3日すれば元に戻ると言い聞かせてビールとお湯割りを呷った。

 大学はまだ休みでも、翌日から図書館、帰宅、アリーナの時間割を始めたが、

4日(月)、迎えに来てとのゆーりの電話で夕方、車で向かう。

 聞けば、昨日下校前に佳織も学校に行って、今週休むことの許可を得たのでインカレ終了までまた一緒に居ることにするという。

 シーザと一緒に帰ると、母がお帰りなさいと既定のことのように迎えて、理香も聖も当たり前に接している。

 母と理香、三人でキッチンに居る景色を見ると、ずっとそうだったかのような錯覚で、ついお湯割りの量が増える。

 翌日から忙しくなった。

 朝から部長室に行き、昂太郎も交えてエントリーやスケジュール、ウエアの確認、その他を済ませる。

 教授が、ゆーりさん少し大きくなった、桝井君と分かち合ってくださいと不思議な激励をしてくれる。

 午後、アリーナで千と四百を四本追う。

 大会前日の夜、500の缶ビールで食事を終え、自室で今日はもうこれだけとお湯割りを舐めながら、初めて泳いだ中学1年を思い出していた。

 はっきりとは覚えていないが、夏休み前の体育での水泳は2回しか無かったような気がするが、その時のプールの記憶は無いが、夏休み初日の7月21日、午前中から一人で公営の大きな施設に出掛けた。

 何故だか今でも解らないが、泳げなかった自分が水の中で自在に動く意識が頭にあった。

 準備運動の後、25mを平泳ぎでそっと泳ぎ始める。

 もがくこともなく、滑らかに水に滑り込んで一掻きごとに進み始め、足を着かないで済む底を見ながら手足を動かし、向うの壁にタッチした。

 後ろを振り返り、25を足を着かず泳ぎきったことを確認してプールサイドに上がり、歩いて距離を確認して何度も泳いだ。

 それから殆ど毎日プールに通い、確か3日目位には50mに移り、平、クロール、バックと小学校時の憂さをはらすかのように泳いだ。

 憂さをはらすというよりも泳げることの喜びを全身で表し、受け止めていたというのが真実だっただろうと今でも思う。

 細くて色白だった自分が、少しは焼けて筋肉らしきものがつき始めたのも微かな誇りになった。

 この年の夏、少年の身長は16cm伸びた。

 「思い出したの?」

 風呂上りのゆーりが、ショーツと長めのTシャツでバスタオルを頭に乗せて寄りかかる。

 「何で解るの?」

 「遠い顔だし嫌そうじゃないもん。 嬉しい?」

 「んー。 どうかな、懐かしいかな。」

 「賢、原点でしょ。 いつか聞かせて。」

 普通なら有り得ない会話だが、二人では不思議にも思わない。

 9月8日(金)、大会初日、昂太郎も一緒の3人で8時半前には大会受付を済ませ、3人のADカードを受取った。

 ゆーりはコーチとして登録されていて、カードを首にかけた時に、ドクが来て皆で悔いの無いようにしましょうと優しい応援をしてくれる。

 開会式が9時で、9時15分には予選が始まる。

 100平の賢の予選は3組で14:20、クリアすればB決勝が16:50、決勝が17:00の予定になっている。

 選手控えの体育館は空調してあるが、賢たちは外に出てゆっくり柔軟体操を始める。

 10分もしないうちに汗が出るが、注意しながら少しずつ水分補給をする。

 

  

 

 

 



  

 

 

 

 

 

 


 

 

 


 

 

 



 


 


 

 

 



 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 試験結果をネットで確認した次の日に合格通知が来て、4日後に認定証が届き、二級の認定証の額の前に入れた。

 「ママ、おにい合格したんだって。」

 良かった、一つクリアね、お祝いしましょうと喜んでくれる。

 自分では通過点の一つのつもりであったが、安堵感は確かにあり、慢心してはいけないと戒めながらお祝いをして貰った。

 「ゆーり、試験OKだったよ。」

 「うわ、やったね。 おめでとう。」

 「ありがと。 ゆーりの入試はどうなるの?」

 「今の成績だったら推薦で大丈夫だって。」

 「そうか、でもきちっとやろうね。」

 「ね、火木は4時からアリーナだよね。 どっちか一緒に行くよ。 家に居ても一人だもん。」

 佳織がそのほうが安心だからと頼まれて、まあ9月までと判断し、火木を一緒に行くことにして、日曜は家に居させることにする。

 これで、月曜から土曜まで一緒に居ることになった。

 火曜日、4時前に迎えに行って、アリーナへの電車でバッグの中身を聞いてみると、携帯、ビデオ、オペラグラス、ペットボトル2本、ノートと筆記具、タオル、干葡萄、それにお小遣いで買ったというストップウォッチ、まるでどらえもんのポケットだと二人でうける。

 「りょうねえ、こんにちわ。」

 「ゆーり、久し振りね。 今日はどうしたの?」

 経緯とこれからを説明し、コーチするからと張り切るゆーりをりょうねえが事務所に連れて行き、みんなに紹介して出入りしやすくしてくれた。

 スリムのGパン、半袖の白いポロシャツに薄いピンクのコットンベストのゆーりは、殆どジャージ

姿の中で場違いのように見えなくも無いが、可愛さで周囲を納得させる力があるようだ。

 観覧席でビデオを廻して、計測する姿は不思議に輝いている。

 早めに7時で終わらせるが、外はまだ明るい。 

 「退屈じゃないの?」

 「何で? やること結構あるんだよ。 ビデオは当然だけど、タイムをいつどれだけ計るかとか記録とかさ。」

 そうかと思いつつ、そこまでさせていいのかという思いもある。

 「お腹すいた。」

 「何か食べる?」

 「ううん、我慢しておうちで食べるよ。 」

 木曜日、二人でアリーナに入ると、りょうねえからの電話で事務室に呼ばれ、宗元部長から、コーチがADカード無しでは片手落ちですからとゆーりのADカードを渡された。

 月曜日、家にいくと、いつもと感じが違う。

 「あれ、ゆーり髪短くしたの?」

 「おかしくない?」

 「いや全然。 似合ってるよ。」

 少し茶色ががった肩まであった髪がショートカットになって、小顔がいっそう強調されて手足が長く見える。

 「夏に向けてさ、軽やかな妖精になったよ。」

 「観覧席蒸し暑いから思い切って切っちゃったの。 こんな短いの初めてだよ。」

 帰って来て冷たいものを運んできた佳織が、賢くんが何て言うかってそればっかりだったのよと打ち明ける。

 観覧席が蒸し暑いから切ったらしいけど、アリーナどころか髪までいいのかなって心配を伝えると、応接室に連れていかれた。

 「賢クン、そんなこと言わないで。 ゆーりは自分が誰かのためというか、賢クンのために役に立ちたいのよ。 それがねゆーりの希望なの。 私も勉強だけよりそうして欲しいし、外で社会経験させてやりたいのよ。 だから気にしないで。」 

 「それはまあね。」

 佳織がゆーりを応接室に呼ぶ。

 「じゃあこの話はお終いね。 これ、合格のお祝いです。 ゆーり、着けてあげて。」

 ゆーりが包みを開けて、賢の首にネックレスを着ける。

 「プラチナのネックレスだよ。 身体にもいいんだって。 シャツ脱いで見せて。」

 立ってポロシャツを脱ぐ。

 「うわ、かっこいい。 賢の胸に似合うよ。」

 「金はあんまりだし、それなら若い賢クンには厭味なくいいわね。 支障がなければ着けといてね。」

 こんなと言いかけるのを、佳織が遮って、ケースと保証書をゆーりがザックに入れた。

 家で報告すると、賢の首にぶら下がっていいなあとキスをせがむ理香にディープで応え、大学OKだったら買ってあげると約束する。

 二人でアリーナへの回数が増えるにつれ、ゆーりに声をかける女性が増えてきた。

 トレやスタッフの女性が、ゆーりを入れて写真を撮り合ったりしている。

ドクの助手の女性が、観覧席はお尻が痛くなるからこれ使ってと、エアクッションをくれた。

 ドクが、注意を頼んでいるのかもしれない。

 プールからゆーりを見上げると、凛々しいが柔らかい透き通るようなオーラを発している。

 三千流して帰り支度を終えたとき、助手の女性からゆーりも一緒にスタッフルームに案内され、宗元部長とドクが入ってきた。

 「疲れてるのに申し訳ない。 特別練習生の君に、我々が口を出すべきではないことを承知の上での話だが、ドク、後は頼むよ。」

 「はい、承知しました。 賢君、もう7月になったし、そろそろタイムトライアルに入ってもいいんじゃないかと思うの。」

 「私たちの経験則からして、予選から逆算するともうその時期じゃないかと判断してるんだが。」

 なるほどなと思いながら、そこに移行するのは自身ではまだ違和感があり、そうですねと答えてしばらく考える。

 横で聞いていたゆーりが、いいでしょうかと口を開いた。

 「私、必ずビデオを撮って、記録の時の3台のビデオと比較してフォームをチェックしています。 まだ身体が真直ぐなってないんです。 まだ泳ぎ込んだほうがいいと思います。」

 驚いた顔の宗元部長が、二つ質問していいかとゆーりに聞く。

 「桝井君のフォームの素晴らしいところは、上下動が無いことだが、まだそこまでなってないというこかね?」

 ゆーりが頷く。

 「3台のビデオは観覧席から撮影したものだと思うが、その角度から上下動の比較上下動がチェックできるのかな?」

 「はい、PCソフトでその角度からの上下動を推測して真横からの角度に置き換えて上下動を比較チェックしてます。」

 「貴女は誰にも言われず、それを見抜いてるということですか。」

 うーんと腕を組んで考え込んだ宗元部長が、なるほど了解した、ではこうしたらどうだろうかと提案を出した。

 「ゆーりコーチの手腕に敬意を表して、その比較チェックは尊重しましょう。 ドク、あの時の横、下からと前後からの記録がある筈だから、それを媒体に移してコーチに差し上げてくれないか。 そして、これからコーチがプールサイドや撮影室に入れるようにするから、周囲に周知させるようにしてあげてくれないかな。 ゆーりコーチ、これからも桝井君をしっかりコーチして下さい。 お願いしますよ。」

 握手を求める宗元部長に、ゆーりが恥ずかしそうに手を出した。

 「部長、そこまでいいんですか?」

 「ドク、原則口出しはできんが、配慮は構わん。 では僕はこれで。」

 宗元部長が退出したあと、りょうねえがゆーり良かったねとハイタッチして、事務所のみんなに伝えて改めて紹介した。

 ドクが、これを使ってと、透明のビニールカバー付きの記録用バインダーと、プールサイド用のビーチサンダルをくれた。

 「このビーサン、23だけど大きくないかな?」

 靴下を脱いで履いたゆーりが大丈夫だよと答える。

 「ゆーり、身長伸びてない?」

 「伸びてるよ。」

 「そうか、よしよし。 媒体は用意して渡すからね。」

 ゆーりがそこまでしていることと、臆さず考えを表示したことに驚き、自分の違和感さえも見抜いてるというか、感じ取っていうことに共感と安堵感さえ抱いた。

 ベンチでアイスを食べながら、賢はゆーりに聞いてみた。

 「そのチェックの仕方、どうやって考えたの?」

 「私は賢に気持ちよく泳いで欲しいの。 技術的なことは解らないけど、記録の時は眼でしっかり視て、気持ち良さそうだった。 だから、あの時を基準にして視てる。

 今の賢はそうじゃないよね。 私の心配ばかりして、どこかずれてるもん。 だから水が逆らってるの。 りょうねえもだし、助手の洋美さんがいつも注意してくれてるから私の心配はしなくていいんだよ。」

 そこまで見通してること、さらにそれが本質であることにまた驚かされ、紛れも無く納得するしかなかった。

 「ゆーり、有難う。」

 それだけで理解できるのだろう、ちょっと恥ずかしそうに賢を見上げる。 

 「ゆーり、僕が教えられてんだ。」

 「そんなこと無いって。」

 出会って1年が過ぎて、賢自身が思っているよりはるかにゆーりは成長している。 


 「ゆーり、大事なこと、思ってることを全部話しとくよ。」

 賢のためにやりたくてやっているというが、自分との時間を逃避の場にしないで、中3の少女の新しいワールドを開かせるためにも、総てを理解しておいてもらいたい心算だった。

 「今さ、いろんな人たちの好意で水泳をさせて貰っててほんとに感謝してるけど、結果がどうであれ10月のインカレで終わりにしようと思ってる。」

 ゆーりは黙って賢を見つめている。

 「勝つとか負けるとかは考えていないよ。 それは力一杯やる。 でもね、何か違うんじゃないか、心のどこかに自分の薄汚い欲望というか、許されない名誉欲みたいなものが渦巻いてるようですごい嫌な自分がいるんだよ。 好きだったからというだけで、途中からみんなの好意に甘えて入り込んでいいとこだけ貰ったような身勝手ばかりの気がするんだよね。」

 俺はゆーりに何を言おうとしてるんだろうと、ふと黙ってしまう。

 沈黙を破るようにゆーりが口を開く。

 「明日土曜日さ、動物園に行こうよ。 10時に迎えに来て。」

 混乱したまま帰宅する。

 

 いつの間にか、こんな季節になったんだと汗を拭きながら動物園への道を歩く。

 デニムのぴっちりとした短パンですらりとした脚を剥き出しにして、スポーツタオルを首にかけて、賢の横を元気に歩く。

 園に入って、アイスを食べながら象舎に向かい、象さん、元気だった、1年ぶりだよと手を振り、じっと眺めるゆーりの横に並ぶ。

 「象さーん、好きな夏になったよー。 冬よく我慢できたね。」

 何を言いたいんだろうかと考える。

 「象さん、無理矢理連れて来られたんだろうけどさ、何にも言えないんだもんね。」

 黙ってゆーりの言葉を待つしかなかった。

 「そりゃあビジネスの部分があるかもしれないし、周囲の思惑だっていろいろあるよね。 私、あれはその時はしょうがなかったのかもしれないし、だから今の自分が居ると思うようになったの。 過去の自分を攻めても何にも生まれない。 それより、これからそうならない、取り戻すにはこれからをどうするかを考えたの。 自分のことや勉強をしっかりして、賢にできることを一生懸命やってるよ。 それは賢が教えてくれたんだからね。」

 ふっと胸を衝かれた。

 「名誉なんてよく解らないけど、それは周りが決めることで、自分の決意というか心の持ち方とは全然違うとこにあるんじゃないかしら。 賢は解ってる筈だけどな。」

 たった一つの日本記録を出しただけで心のどこかが傲慢になって、勝てなかった、負けた時の言い訳を周到に準備しているのではないだろうか。

 では、それができてなかったとしたら、今は自分は何と考えるのだろうか。

 情報処理試験が一つの通過点なのに、日本記録とどこが違うのか、同じ通過点ではないか。

 「終わりかどうかより、それまでどれだけどうするかだよ。 賢、優しくて強く努力する賢でなきや駄目だからね。」

 次の通過点を突破するためにやるだけのことをやるという単純なことだ。

 「最初に私のシーザへの接し方が良くないって教えたの賢なんだよ。 お願い、何の心配もしないで水と仲良くして。」

 「解ったよ。 ゆーり、また教えてもらったね。」

 「賢、役に立った?」

 「ああ、しっかりね。」

 「象さーん、ありがとー。」

 象の眼がこちらを向いた気がする。


 それから、泳ぎ方を変えた。

 ちょうど一年前、自学の25mプールでひたすら泳いだように、頭を空にして手足を大きく使ってひた向きに泳ぐ。

 月水金は勿論、ゆーりと一緒のときも遠慮せず8時過ぎまで毎日4時間以上、無心にひたすら泳ぐ。

 体が軽くなり、ドーパミンが分泌されるのか頭も心地よい。

ゆーりが居る時はネックレスをゆーりの首にかけ、居ない時はザックに入れてロッカーに納める。

 ゆーりは、もう観覧席には居ない。

 撮影室だったり、プールサイドで低いポジションで撮影しタイムを計っているようだ。

 そのことさえも意識から追い払い、没頭する。

 7月も10日を過ぎて、冬季に付いた脂肪が削ぎ落とされた感じがする。

 「賢、感触どう?」

 「贅肉が落ちたようだし、頭もからっぽで気持ちいいよ。」

 「少し変わってきたかも。」

 「やるだけだからね。」

 講義、ゼミ、図書館、家庭教師、プールと、頭と身体のONOFFを切り替えながらのハードな時間を忙しくこなす。


 「ねえおにい、夏休みさ、どっか行きたいなあ。」

 「え、お前さん一番大事な時なんじゃねえの?」

 「そうだけどさあ、一回くらいいいんじゃないかな、ねえ?」

 論文と水泳で、とてもじゃないが時間が足りないと、少々冷たく突き放すと、ちょっとは息抜きしたいよとべそをかく。

 理香だって、課外とスクールだろと聞くと、だからだよと体を揺する。

 約束できないけど、時間ができたらなと宥める。

 「金曜日から泊まっていい? 試験が終わって午前中だけなの。」

 「いいよ。 じゃあ昼迎えに行くから家に居る?」

 「何で? プール行くよ。」

 「じゃあシーザと荷物を先に運んで、お昼外で食べようか。」

 ドライブスルーでハンバーガーを買い、アリーナの木陰のベンチで食べ、周囲を4周、大きく脚を広げ歩いて汗を出して、トレーニングを始める。

 この頃はゆーりはみんなのアイドルで、誰からも声をかけられてゆーりも楽しそうに話している。

 アリーナの配慮で、賢が泳ぐ時は8コースを専用にしてくれたのでゆーりがしっかり撮影してる筈だ。

 「ツーママ、ただいま。」

 「お帰りなさい。 ゆーり少し焼けたね。 ショートヘアに似合うわよ。」

 リビングで、今日の撮影分をPCにダウンロードして整理、チェックしている。

 賢は庭でビールを呑みながら、猫たちと遊ぶ。

 「賢、Dドライブ50%近くなったよ。」

 ゆーりに呼ばれて、Dドライブのプロパティを見ると、使用領域が48%になっている。

 「やっぱり映像はどうしてもね。 じゃあ明日、外付けのハードディスクを買ってそっちに全部移そうか。」

 PCを操作するゆーりのタイピングがえらく速い。

 しかも画面だけを見て、手元はブラインドしている。

 今まで、ゆーりのPC操作をまともに見ていなくて、初めて気が付いた。

 「ゆーり、タイピングどこで覚えたの?」

 「我流だよ。 去年引篭りの時にね。」

 りょうねえに電話して、アリーナでのネット受信環境を確認すると、国際大会の開催のために外国のPressにも支障がないように完璧に設備されていて、どこでもモバイルが使用可能だという。

 志に反して、今月前半の家庭教師のバイト代を使うことに決める。

 夕食後、きよがゆーりを風呂に誘って二人で入った。

 自室でウィスキーのビール割りを飲みながら、もう一度頭を整理する。

 自分のサポートをしてもらいながら、その中でできることを伸ばす、間違ってないよなと自問を繰り返す。

 ネットでモバイルを探し、購入の手続きを入れ終わったところでゆーりが風呂から出てきた。

 「シャワーだけにしようとしたらさ、きよねえが温くていいから浸かんなさいって。 シャワーだけだと代謝ができないからってね。」

 「汗出したほうがすっきりするだろ。」

 きよがビールを持って来た。

 「ゆーり、体重40overしたよ、身長も伸びてるしね。」

理香とゆーりが自分達の部屋に入ったあと、きよに聞いた。

 「結婚、どうすんだ?」

 「秋以降かな。 賢の大事な時は邪魔しないよ。 大げさなことはしたくないし。」

 「彼もそうなの?」

 「うん、式だけしてさ、仲間うちとお互いの家でお披露目しようかなくらいかな。」

 「親父達は?」

 「向うのご両親が了解ならって。 でも、何か言いたそうだったね。」

 「そりゃあさ。 でも本人の姉貴はそれでいいのかよ?」

 「私はそのほうがいいの。 ほんとに大げさなのはいやだもん。」

 「彼はどうなんだよ?」

 「彼もそうなんだって。 ほんとに身内になるみんなだけで飲み明かそうって言ってる。」

 「相談相手にもなれなくてご免な。」

 「いいわよ。 あんたが気にすることじゃないでしょ。」

 「でもさ、姉貴が結婚って何か切ないね。」

 「みんな順番。 理香もそうなるんだからね。 いい?」

 「勿論だろ。 すぐじゃないだろうけどさ。」

 「ゆーりだっていずれそうだよ。」

 「やっぱそうだよな。」

 「心がどこにあるのかなのよ、夢のなかでもね。」


 アリーナのジムの椅子に座り、ビデオを横に置いてモバイルPCのキーを押さえるゆーりの指の動きを洋美がじっと見ている。

 もう8時近いが、ゆーりは小さな画面の映像と、その上に現れる赤い鎖線を比較して、指を上下に操作してタイムと見比べている。

 夏休み前、一学期の試験結果が2番になっても普段どうりのゆーりが操作するモバイルPCを見たドクも驚いている。

 「ゆーり、操作すごいけど、その映像、賢君に見せてるの?」

 「んーん、見せてないよ。」

 「あら、なんで見せないの?」

 「賢が、自分の身体は一番良く解ってるからね。」

 「じゃあ何で映して見てるの?」

 「私が確かめてるだけだよ。 気持ちよさそうか、水と仲良くしてるかね。 技術的なことは解らないけど、水が助けてくれてるかだけを見るの。」 

 「この前、ゆーりが、まだ、もう少しって言ったのは?」

 「うん、水に逆らっててフォームが良くなかったし、賢が言いにくそうだったから私が替わりにね。」

 「二人で話してたんじゃなかったの?」

 「うん、何にも。」

 「驚くことばっかりね。 貴方達二人は。 それで、今はどうなの?」

 「まだもう少しじゃないかな。」

 「解った。 もう余計なことは聞かないし、言わないよ。」

 「私は、賢がのびのび気持ちいいかどうかだけなの。」 


 夏休みは月曜から金曜まで賢の家に居て、土日だけ帰すことにする。

 「ゆーり、理香大事な受験だし、寝るとこ変えてやってくれないかな?」

 「うん、いいよ。 賢のとこがいいな。」

 そう言うだろうなと予測はしていたが、まさか一緒でいいよとは言えない。

 「いいよ、じゃあ僕はもう一つ空いてるとこで寝るからね。」

 ゆーりにしてみれば、まさかの予想外だったかもしれない返事に眼が固定する。

 「どうして? 賢のとこじゃだめなの?」

 いろいろ理由を考えるが、恐らくゆーりはどれも納得しないだろうなとの思いがする。

 ゆーりが、ツーママに聞いてみると下に降りる。

 母が話を聞いて、理香と賢も呼ぶ。

 母は、賢の理香への思いやりだろうけど、ゆーりの返事はそれしかないよねと夫々の意見を求めている。

 理香はゆーりと一緒で全然構わないというが、ゆーりがりかねえの大事な時に悪いからとそのままにはしない意思を表す。

 夫々の思いやりと、男女としての問題だし、ゆーりを一人にするのも可哀想だからなかなかどうするか決まらないわねと笑っている。

 「賢はどういうつもりだったの?」

 「いや俺は単純に、理香が集中できるようにと思っただけなんだけど。」

 「じゃあこうしましょ。 今日、佳織ママに来てもらって相談しましょ。 いいわね。」

 ちょっと軽率だったかなと反省しつつ、母は相談を受けた時点で既に佳織に相談することを決めていたのかもしれないなと推測する。

 母は、いずれ出ることだからいい機会だし、ゆーりが高校生だったら一人部屋にさせるんだけどまだねと気に掛けている様子はないし、区別さえもしていない。

 「ゆーり、全然いいんだよ。」

 「大学受験て大変だし、りかねえに合格してほしいから邪魔したくないもん。」

 「佳織さん、何て言うかな?」

 「賢と一緒でいいって言うよ。」

 「そうかなあ? ゆーり、着替えはどうするの?」

 「いいよ見えても。 ぺったんこだもん。」

 「ねえ多分ね、すぐにそうじゃなくなるよ。」

 「賢ならいいんだ。」

 理香にしてみれば、ちょっと妬けるような気がしないでもなかったが、そこまで兄を信頼するゆーりを誇らしく思う自分も発見した。

 7時過ぎに佳織が来て、応接室で母と二人で話をしている。

 まだ明るいサンルームで、ビールを飲みながらニャーミー、チーコを撫でる自分の手がいつもより丁寧なことに気付く。

 ゆーりに呼ばれリビングに行くと、佳織が立って余計な心配を掛けたこと、理香の受験まで気が廻らなかったことを皆に謝罪した。

 母が、結論は佳織ママからお願いねと佳織を促す。

 「賢クン、迷惑でなければ夏休みの間だけ一緒の部屋にして下さい。 お願いします。」

 少し驚きながら、俺は全然構わないからいいけど、おふくろいいのと確かめる。

 「二人で話し合って、夏休みだけという期限付きで許可しますから。」

 「ゆーり、夏休みだけだからね。 もう貴女もレディになるんだし、夏休み過ぎたら一人部屋よ。」

 佳織がゆーりに念を押す。

 解ったと答えるゆーりが、夏休みだけ一緒にお願いしますと立ち上がってお辞儀した。

 佳織が、明後日7月20日はゆーりが賢クンと出会った1年記念日のささやかなパーティをするから、理香さんと二人でタクシーで来てと招待して二人で帰った。

 夕食時、母が、佳織さんの賢に対する信頼は絶大だし、自分もそう思ってるよと、依頼なのか釘を刺すのか、どちらとも取れる言葉を呟いた。

 夕食後、12畳の若干長方形の自分の部屋にゆーりのベッドを移し、遮るものが何も無いのでカーテンでも付けようかと母に相談すると、余計なことは止めなさいと一蹴された。

 腑に落ちない顔の賢に、佳織さんが言い聞かせてるし、ゆーりだってわきまえてるでしょうから、変に隠すようなことはしないほうがいいわと母が説明する。

 ゆーりと自分は自然体でいることだなと納得して、やはり自分達はそういうことだと腑に落ちた。

 20日、まだ陽がある7時にゆーり宅に花を持って入った。

 一年前の20日から今日までのことで、賑やかに盛り上がり、手間を掛けますが夏休みよろしくお願いしますと依頼される。

 賢は、この際だから話しておきますと、二つ考えていることを伝えることにする。

 ゆーりの今の成績で、今までどおりやっていけば推薦はクリアできるだろうから、その他に、情報処理の勉強も始めて高校在学中に2級の資格を取らせたいことと、英会話ができるようにさせたいと考えているが、こっちは適当な人が見つからないことを正直に話した。

 黙って聞いている桂介夫婦、佳織の眼に涙が浮かぶ。

 「賢クン、貴方はそこまでゆーりのことを考えているのね。」

 一瞬でその有用性を判断したのだろう、桂介が静かに頭を下げた。

 ゆーりがどっちもやってみたいと眼を輝かせる。

 情報処理は自分でいいが、英会話はちょっと無理だからと正直に言うと、佳織がパパの秘書の今井さん、英語ぺらぺらでしょうと尋ねる。

 海外からのクライアントや電話には彼女が応対しているとのことだった。

 教えてくれるか、明日会社で聞いてみるという桂介に断わって、土曜日スポーツクラブで会うからゆーりと二人で頼んでみることにする。

 「では謝礼を、時間関係無しに1回5千円出させてもらうことにしようか。 そのほうが話も早いだろう。 教材が必要ならそれは別途渡すことにしよう。」

 帰り際に、貴方に出させる訳にはいかないし、1年のプレゼントにしますと、佳織からモバイルPCの代金として15万を持たされる。


 千代美は教えることを快く了承してくれたが、最初は家に行ってどうにかするんじゃなくて、夏休みは、ここに来る度に、ここで今から全部英語にしましょうと提案して、言いたい言葉を教えてくれる。

 今日は、久し振り、暑い、疲れるとかの日常会話の言葉を置き換えて教えてくれて、ゆーりに繰り返させる。

 賢も一緒に口に出してみる。 

 これは実践会話だなと賢も感心して、教えられたフレーズを一緒に覚えるようにしてみると確実に面白い。

 帰国子女で留学の経験もある千代美によれば、大きな声でしゃべるのが覚えるポイントだという。

 恥ずかしがらずに口にすることで覚えていくらしい。

 ゆーりは、自分が思ったことを英語で表現することが新鮮で楽しいらしく、何度も繰り返し口に出している。

 千代美が1~2ヶ月でできるものでもないから、ゆっくり一つ一つ覚えて声で出すようにしてねと注意してくれた。

 家に送って、英会話が楽しいならアリーナの回数と時間を減らそうかと言うと、それは駄目と即座に否定する。

 アリーナで賢の様子をチェックするのが自分の原点で、しかもあと数ヶ月だからそれは絶対にしないと譲らない。

 明日夕方、迎えに行くことにして帰った。

 日曜日午後、一人、アリーナで三千泳ぎ、夕方ゆーりを迎えに行く。

 途中のSCの家電ショップで7千円のボイスレコーダーを買って、ゆーりに渡す。

 何という眼で見上げるゆーりに、英会話のフレーズを録音しておけば、何度でも聞けるよと説明すると、そっかあと喜んでいる。

 ゆーりが、ただいまと大きな声で家に駆け込んでいく。

 シャワー浴びたらという母に、ツーママのお手伝いが先と手を洗ってキッチンに入る。

 賢は、まだ明るい庭で汗を拭きながら3人の猫と遊ぶ。

 最近は、シーザもニャーミー、チーコと重なりあったりしながらじゃれあっている。

 7月も残り1/3になって、今年の夏は早いんだろうなとの思いがするが焦りがない自分が心強い。

 食後、賢の机で勉強するゆーりの横顔を眺めながら、ソファでPCを開いたが指が進まない。

 環境が変わる中で、勉強や賢のコーチ、更に英会話まで始めたゆーりを大変だなと思いやる。

 視線を感じたのか、ゆーりが振り向き、今私が大変だって同情したでしょと見透かしたような言葉を出した。

 ゆーりの感の鋭さに改めて驚いて、頭を掻きながら頷き、冷蔵庫からビールを出してソファに座った。

 ソファの横に座ったゆーりが続ける。

 「きついなんて全然思ってないよ。 勉強はみんながすることだし、英会話も塾の一つと思えばやって当然だし。 1年、我侭で何にもしてこなかったよ。 賢が何をすればいいか教えてくれて、その通りにしてて楽しいし、いやじゃないんだよ。 賢の水泳を見ることは私の原点なんだよ。 最初に言ったでしょ、難しいことでもなんでも一杯教えてって。 楽しいんだからさあ。」

 了解の心算で、缶ビールを差し上げて流し込む。

 お風呂に入ろうと、呼びに来た理香とゆーりが下に降りて、賢は2Fのシャワー室でシャワーを浴びて、これからの大まかなスケジュールを漠然と思い描く。

 8月5日までの2週間弱、距離をもう少しのばし4~5千にして目一杯追い込んで身体をこなし、少しインターバル、更に10日仕上げの追い込み、でインターバルのあとタイムトライアルかなと区切ってみたが、それでも去年よりは早いかなと思う。

 誰に相談するわけでもないが、一応のタイムスケジュールを考えたことで、意識の中にどこかほっとしている部分がある。


 アリーナ更衣室手前のロビーで、賢がプラチナのネックレスをはずしてゆーりの首につけるのがセレモニーになった。

 今はゆーりはビデオを撮る時間よりも、自分の眼で賢の泳ぎを見ているほうが多い。

 ビデオに残すことより、自分の眼に実際の賢の泳ぎを焼き付けようとしているのか、

ストップウォッチを持ち、指を折りながら何かをカウントしている。

 賢は、何も考えないでひたすら身体を動かすことに没頭する。

 「ゆーり、最近あまりビデオ撮ってないね?」

 「りょうねえ、解る?」

 「だってあれだけ撮ってたのに最近そうでもないからね。」

 「自分の眼でしっかり覚えときたいんだ。」

 「そうか。 じゃあ賢のフォーム、もう大丈夫ってことかな?」

 「どうしてそう思うの?」

 「だってフォームに心配が無くなったから、それをしっかり見ときたいんでしょ?」

 ゆーりは返事ができなかった。

 「いいのよ、誰にも言わないから。 でも、ゆーりが見てOKなら安心だわ。 さすがにコーチだけのことはあるわね。」

 ロビーで、ゆーりがネックレスを賢の首に戻してアイスを食べる。

 「ねえゆーり、スタート後の50は別にして、残りはどっちがいいんだろうね?」

 これだけでは、他人にはどういう意味か理解できない筈だが、二人にはこれがどういうことか通じている。

 「水に乗せてもらうというか、流れに乗せてもらうのならスピードを落とさないで一定にしたほうが助けてもらえるんじゃないかな。」

 「やっぱりそうかな?」

 「回数が1回少ないほうが、すこし身体が上下してるよ。」

 「よし、解った。 もう迷わないよ。」

 泳ぎ込む中で、迷っていたことへの答がでた。

 やはり、ゆーりが自分のフォームをしっかり見て、不安点を見抜いていることに安堵し感謝する。

 通りかかる女性たちが、ゆーりに元気とか可愛いよとか声をかけて、都度手を振って応えている。

 ふと、折角の夏休みなのに勉強とアリーナだけでは可哀想だと思い、カフェに連れて行く。

 「夏休み、どこか遊びに行きたいとこない?」

 賢と一緒だから楽しいよという返事が返ってきた。

 ゆーりの家、俺の家、アリーナの行き帰りだけじゃ楽しくないだろうし、なんか可哀想だしと続けると、チョコパフェを食べている向かいの席を立って賢の横に座った。

 「そうじゃないんだって。 毎日いろんな驚きで楽しいんだよ。 ネックレスをちゃんとしてくれて、泳ぐ時ははずしてる。 これって賢の思いやりとマナーだよね。 そんなことだって教えてもらって楽しいんだって。」

 「みんなすることだよ。 ほんとにどこも連れて行かないのって可哀想だよ。」

 「あのね、TDLみたいなテーマパークは何回も行きたいとは思わないんだよね。 それより、歩くの好きだから、ハイキングみたいなことはしたいとは思うけど、賢と一緒に居るのが一番いいんだから。」

 「家とアリーナの行き来だけだからね。」

 「今、カフェに居るじゃん。」

 「んーん、そういうことじゃなくてさ。」

 「賢、そんなに私に気を使わないで。 私はね、賢が行くところに差し支えなければ一緒に行きたいの。 決して邪魔はしないよ。 出しゃばったりしないで黙って見てるだけでいいんだから、ね、お願い。」

 「じゃあ、僕がTDLに行くんなら一緒に来る?」

 「意地悪しないで。」

 「そうだね。 ごめん。 ゆーりのどらえもんのポケットのバッグに、どこでもドア入ってない?」

 「残念ながら無いね。 私には賢がどこでもドアだからね。」

 帰宅して、ゆーりの言葉を、ビールを流し込みながら噛み締めてみた。

 自分と一緒に居れば、新しい世界が開けるということかもしれないが、中3の少女にとって、それが総て望ましいことではないだろうことも想像はできる。

 その取捨選択を、ゆーりだけの判断に任せるのは酷だという気がするし、ゆーりが自分を見る以上にしっかり見てやらなければと思い至る。

 寝る前にゆーりに話した。

 「もう余計な気遣いはしないで、インカレまで水泳に打ち込むからね。 したいこと、行きたいとこがあれば、はっきり教えてくれないかな。 いい?」

 「そうだよ。 賢、頑張ろうね。」

 翌日から、ゆーりの夏休みは気にしないで、7時起床、8時半から12時までゆーりの勉強と自分の論文、1時半から6時までアリーナのリズムを始める。

 それでも土曜日は、スポーツクラブでゆーり自身の水泳と英会話、そしてデモ水泳は怠らない。

 日曜日だけ、午後ゆーりの家に行き、二人でアリーナに向かう。

 ゆーりは、賢から見れば健気にアリーナ通いをしているが、本人はスタッフやトレーニングメンバーと楽しそうに話をしたり、お菓子のやり取りをしている。

 ゆーりの周囲が、いつも笑い声に溢れるのが慰めになっている。

 「夏休み、どこか行った?」

 「んーん、どこも行ってないよ。」

 「賢、連れてってくれないの?」

 「毎日ここに来てるじゃない。」

 「それはさ、賢の用事でしょ。 海とか山に遊びに行かないの?」

 「りょうねえ、私ここに来ていろんな人に会って、普通の女子中学生じゃできない経験をさせて貰ってるの。 すっごい刺激的なんだよ。」

 「そりゃあまあねえ。 でも、好きに遊びたくないの?」

 「賢、そろそろ大事な時期だし、私がしっかり見ないとね。」

 「ゆーり、全部賢なんだね。」

 「そうじゃないって。 私楽しいんだよ。 みんなとお話してね、終わってアイス食べたり、パフェの時もあるよ。」

 じゃパフェの時、誘ってねと村石ドクが手を振る。

 8月8日、いつもより2時間以上も早くトレを終わらせ、ゆーりと大学の部室に出掛けた。

 昨日、昂太郎に電話をしておいたので、新キャプテンの吉田以下殆どが居た。

 部から離れていることを謝罪すると、みんなが自分の状況を知っているのが不思議で訳を聞くと、昂太郎がゆーりや村石ドクと緊密に連絡を取って確認していることを知らされる。

 帰って、ゆーりに何で黙っていたか聞くと、昂太郎が先輩に余計な気遣いをかけるから黙っててと口止めされてたことも知らされた。

 昂太郎が、エントリーの手続き等は全部自分がするから状況をインプットしてと頼んだらしい。

 ここでまた、周りから支えられていることを教えられるが、自分のことをしっかりやることだと言い聞かせる。

 お盆の8月15日まで、午後ストレッチと泳ぐことに専念する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 


 

 

 

 

 

 














 6時半になって、お食事の用意ができましたとのアナウンスがあり、食堂の4人テーブルが二つくっ付けられているところに案内された。

 それまでに、缶ビールを一人3本づつ空けていたが、生ビールとウーロン茶で乾杯した。

 旅館から芋焼酎が2本届いていて、野O菜と漬物盛り合わせが出された。

 食べて呑んでいると、戻って着替えた昂太郎が座った。

 腹減ったと、持って来た缶ビールを飲み干し、生ビールもあっという間に空けて、うめえとゲップを出す。

 「昂太郎、まだビールなら自販機で買って来いよ。」

 大がビニール袋を差し出す。

 昂太郎が、ビールを5~6本入れて戻ってくる。

 「昂太郎君、二人でガンガンやったのかい?」

 「人が少なくなったんで、煽って引っ張りましたよ。」

 さっきのカップルが、食事しながら昂太郎を見ている。

 「実家でやってきたんだろ?」

 「いや地元じゃ一緒に滑ってくれるのが居ないんですよ。」

 「そうか、贅沢な悩みだな。」

 「明日は好きにしていいよ。 ゆーりもうまくなったし、4人一緒に俺と大でOKだから。」

 まあ状況でということにして、呑みながらの食事を続ける。

 理香が夜食のお握りと漬物をお願いする。

 きよ、亜紀、紗枝が三人とも久し振りに身体を動かしてお酒がおいしいと言うが、食事がおいしいだろと、大がおちょくる。

 お握り、野O菜と漬物盛り合わせの皿と割り箸、焼酎を貰って部屋に戻る。

 部屋割りは、男3人、ゆーりと理香、きよ、そして亜紀と紗枝の二人にしている。

 女性達が食べ物を持ち寄って、賢たちの部屋に集まり、呑み食べ会を再開する。

 亜紀と紗枝が、東O駅で買ったロールケーキ、きよがりんごを剥き、お菓子やみかんも出して、お湯割りとジュースで乾杯する。

亜紀が、空きベッドに座ったゆーりと理香の髪をブラッシングしながらお湯割りを舐めて、紗枝ときよがお互いに足をマッサージして、ゆーりと理香は、ブラッシングされながらビデオでフォームチェックして明日はこうしようと話している。

 男3人は、野O菜と漬物盛り合わせで更にピッチが上がり、お開き後、もう一度温泉に浸かってベッドに入った。

 ゆーりが、朝食をすっきりとした顔でおいしそうに食べているのをみるが、同時にきよも医師の眼で見ている。

 ふっときよの顔がほぐれて、賢に手で合図する。

 リフトで最上に上がり、体操で解したあと、賢を頭に滑り始める。

 ゆーりの横に付き、理香たちが速くなれば先に行かせて、後尾に着く。

 上がり降りするうちに、譲り、先になりスピードコントロールができるようになった。

 帰りの電車では、ゆーりはずっと眼を瞑っていた。


 「もうすぐ3年生だよ。」

 「そうだよね。 何かさあ、信じられないよ。」

 3学期の結果が、いよいよ1桁の9番になっている。

 「頑張ったね。」

 「全部賢が教えてくれたんだよ。」

 「ゆーりは、普通にやればできるんだからさ。 成績はいいほうがいいけど、身体と心も大事だよ。」

 「それも解ってるよ。」

 淡々と数理を中心に勉強を続けていく。

 3年生としての新学期が始まり、今までと変わらず登校しているが、黒タイツが無くなったせいか、スカートが少し短くなったような気がする。

 暖かくなって、賢はまた原チャで動くことが多くなり、水泳も週3回を復活させる。

 賢も3年生になったが、中高で学年が上がったときのような高揚感は無い。

 ゆーりとの大前提があり、論文を完成し、単位を全て取り、資格と最後に水泳をどうするかを考えてみると、時間はおろそかにできないことをしみじみと再認識させられる。

 一つ一つ片付けるつもりで、大と2回話し合い、江川会長の依頼には無理という結論を出し、車の返却もあり、午後のアポを取る。

 シンプルに、アイディアの期待に沿えないことと、車の返却を伝えると、アイディアの件は頷き、無理を言って済まなかったと逆に謝罪された。

 車についてはプライベートのことだがとの前置きの後で、送り迎えは原チャではできんだろうから使ってくれとさりげなく流され、これからもとお願いされて大学に戻った。

 アイディアが片付いてかなりほっとしている自分に、かなりの圧迫感があったことを自覚して、大に報告した。

午前中講義、午後図書館、逆の時もあるが、少しでも先に進みたいと、真面目に対処していく。

 昼休みに佐山部長に呼ばれ、昼食後部長を訪ねた。

 午前中に村石ドクが来て、アリーナでの無料の特別練習生の資格が運営委員会で認められたので、その認定証とADカード2枚を持って来られたということだった。

 記録のあと、園田君からもお願いがあったそうで、村石ドクが運営委員会に日本の損失だと働きかけて今年度の最初の運営委員会で認定されたから、是非来て欲しいと言い置いて帰ったそうだ。

 「君は、君自身の考えがあると思うが、このままでは残念というみんなの思いと期待があってのことだから、素直に好意を受けたらどうかね。 ADカードのもう一枚は園田君の分だ。 村石ドクの計らいだろう。」

  昂太郎がそこまでという驚きと、りょうねえの行動を無にすることはできないと決心して、有難う御座います、やってみますと返事した。

  最後に、公式な扱いとして本学でも学長以下了承済みであるから心配は無用とのことを聞いて部長室を退出した。

 昂太郎と大を、電話で学食横のロビーに呼び、部長からの話を説明する。

 「昂太郎君、何でそこまで?」

 「俺なんて屁のツッパリにもなりませんよ。 村石ドクが一番惜しいと思った筈ですし、期待があるってことですよ。」

 「賢、良かったな。 応援するからな。」

 昂太郎と二人でアリーナに向かう途中、りょうねえと桂介に電話を入れた。

 アリーナの事務室で宗元部長と村石ドクに会い、お礼と宜しくお願いしますと挨拶する。

 宗元部長から、経緯は水に流してしっかりやって下さいと激励され、みんなを集めて紹介されると、うおっという声と拍手が起こる。

 インカレの予選、決勝の時と、今ではみんなの眼が違うことを実感する。

 村石ドクが、コーチ兼マネージャーとして昂太郎を紹介して、半年以上のブランクがあるからあまり騒がないでと釘まで刺してくれた。

 体力測定を済ませ、明日以降から通うことにしてアリーナを出る。

 急転直下ではあるが、今シーズン、水泳にも打ち込むことを決心する。

 新学期の最初の土曜日、ゆーりとスポーツクラブに行き、松岡社長に状況を説明し、謝罪もしたうえで、スクールまではできないが宣伝になるなら使って下さいとお礼のつもりで申し入れをした。

 しばらく考えた社長が、江川会長の手前もあるのであまりえげつないことはしたくないが、日本記録ホルダーが来ているという張り紙と、4コースを20分空けるので泳いでもらえないかとの依頼を了承した。

 二人ジムで身体を解していると、千代美とあゆも来て、三人の泳ぎに1時間ほど付き合っていると、“4コースを20分お空け頂きますことにご協力下さい。 200m平泳ぎ日本記録保持者の桝井賢聖さんがデモンストレーションで泳がれます。”とのアナウンスがあり、ゆーり達をサポートしてくれる女性インストが、賢を4コースに案内する。

 プールに入り、バック100、クロール100、平泳ぎ200を泳いで上がると拍手が起こる。

 礼をして戻り、更に1時間3人を泳がせる。

 翌日曜日、一人でアリーナに行き、いつもより人が少ない中で、助手に断わって3千泳がせてもらう。

 50の距離は泳ぎ甲斐があり、久し振りに身体が重くなったが、休憩後、更に千流してずっしりとした疲労感と共に帰宅した。

 4時から7時までゆーり、そのあと8時から10時までアリーナ、火木は4時から8時までをアリーナの時間にして泳ぎ込んで、疲労度合が軽くなるのを実感する。

 4月は、タイムは一切気にしないで、泳ぎこむことに専念する。

 5月の連休直前まで、一日のうちに頭と身体のスィッチを何回も切り替える日が続く。

 何の計画も立てないまま、4月30日になってしまう。

 夕方、車でゆーりを迎えに行き、勉強道具、シーザ、PC等の荷物も一緒に運ぶ。

 「ゆーり、高校はどこにするの?」

 「うん、ママと話したけど、今の高等部にしようと思ってる。」

 「ゆーりなら私学の進学校もOKだと思うよ。」

 「そこまでガリガリしたくないな。 まだいろいろ怖いし、今のところで頑張って大学行こうと思ってる。」

 「そうか、解った、応援するよ。」

 「ねえ、明日アリーナ行くの?」

 「うん、できたら3時間くらいね。」

 「見たいから連れてって。」

 面白くもなんともないと言っても、ビデオも撮るから行くという。

 早めの軽い昼食を済ませ、1時にアリーナに着き、りょうねえは居なかったが、助手の女性に入れてもらい、アスレチックジムでの柔軟やマシントレを撮らせる。

 身体を解したあと、アリーナの観覧席にゆーりを座らせ、3千流す。

 4月初めに来た時より身体が軽くなっているのを感じながら泳いだ。

 「退屈だったろ?」

 「いや面白かった。 全然違うんだね、あれだけ泳ぐんだもん。 時々来てチェックしたいな。」

 「おっ、リトルコーチに頼むかな。」

 クレープを食べて帰宅する。

 連休中は病院に不定期で勤務予定のきよが、ゆーりと並んだ時に身長が伸びている気がするが、今迄のデータが無いか聞くので、考えてみるとスポーツクラブのジムに有ることを思い出し、電話してFAXでの送付を依頼すると、すぐ送ってくれる。

 11月の最初からの週単位のデータを見ていたきよが、やっぱり3月から伸びていることを見つけた。

 3月から4月で11ミリ伸びて、160近くになっているが、体重は殆ど変わらない39.5kのままだねとチェックして、ゆーりを体重計に乗せた。

 いい傾向だからと、スポーツクラブのジムでの数字を毎回メモするように頼まれた。

 ゴールデンウィークは、特別どこかに出掛けることもせず、午前中勉強、午後緑の若葉を見ての散歩や買物に行ったり、3匹の猫と遊んで過ごし、最後の日にもう一度アリーナに出掛けた。

 しばらく歩いたり、ラジオ体操をするとうっすら汗ばむ季節になっている。


 連休が終わった最初のゆーりの部屋でのことだった。

 「賢、5月18日、誕生日なの。 来てね。」

 「えっ、15歳の? 誕生日、初めて聞いたよ。」

 去年の7月にゆーりと初めて出会って、1年が経過しようとする最後のビッグイベントになる。

 「そうかあ。 3年生になって15歳か。 お祝いだね。 プレゼント何がいい?」

 「何にも要らないから一緒に居て。」

 「いいよ、木曜日だね。」

 理香ときよに、プレゼントの相談をして、理香とお揃いのバッグに決めたが、当日渡すのがいいか、一緒に行って買うのがいいのかを聞くと、きよが目の前でのやりとりは刺激が強いからというアドバイスで、事前に買っておくことにする。

 「ねえ賢、このバッグ、理香と私からのプレゼントにするからさ、賢のは自分で考えなよ。」

 「そうだよね。 プレゼント、多いほうがいいよ。」

 「なんでよ。 判らないから相談したんじゃないか。」

 洋服はサイズが変わるし、指輪やピアスは駄目だし、結局結論は出せないまま自分だけで考えることになってしまった。

 考えながらネットで検索して、これからも毎日使うボールペンとシャーペンで、クOスの男性用18K張り、Yuriaのネーム入りセットをケースともで発注した。

 理香が何にしたのと聞くが、恥ずかしいからと笑ってごまかして教えないが、ゆーりが喜んでくれる自信は全く無い。

 駄目だったら、欲しいものを聞き出すか、佳織に聞いてみて、やり直すしかないかなと思いつつ、毎日の予定を律儀に消化していく。

 ふと、いかんなと気が付いて、理香に大学はどこにするんだと聞いてみる。

 「もう、おにいの馬鹿、今頃やっと気が付いた?」

 「ごめんな。 忘れてたんじゃないけど、初っ端からいろいろあったからついな。」

 「お姉ちゃんと同じところにしようかなって、ママやお姉ちゃんと話してる。」

 「ドクターかデンタルか。 現時点でどうなんだ?」

 「ちゃんとやればどうにかかな。」

 「偉いじゃん。 応援するよ。」

 「お願いね。」

 二人の進路を確認したところで、自分のスケジュールを見直し、ベースの論文は続けるとして、6月の一級情報処理試験をクリアし、水泳のタイムトライアルは7月から始めることにして、それまでは泳ぎこむことにする。

 しかし、忙しいし大変だなと改めて自分に言い聞かせた。 

 月~金は今まで通り、土曜は午後スポーツクラブ、日曜アリーナというリズムで、日曜のアリーナにゆーりが一緒に来たがる。

 が、退屈だろうし、自分の都合で振り回すことはできないとゆーりに言い聞かせ、少ない自分の時間を大切にするように諭している。

 5月18日、きよの帰りを待って花を買い、タクシーで7時前にゆーりの家に行くと、ダイニングテーブルにご馳走が並べられていて、桂介もほぼ同時に帰宅した。

 「ゆーり、15歳のお誕生日おめでとう。 これ、私ときよねえからのプレゼント。」

 「開けていい? うわ、りかねえとお揃いのバッグだよね。 嬉しい、ありがとう。」

 祖母が、花を花瓶に挿してソファテーブルに飾る。

 「これ僕からのプレゼント。」

 小さな包みをそっと渡す。

 「何だろう?」

 中から、金色のペンが2本現れる。

 「うわあ、きれいだ。 ネームが入ってる。 どうするの?」

 「右に回して。」

 どちらも試し書きして、ありがとう、これ持ってれば賢といつも一緒だよねと、ペンとバッグを持って、3人に抱きつく。

 理香ときよがハッピーバースデイゆーりと手を叩く。

 「少し大人になった気がするよ。 ありがとう。」

 桂介が、みなさんにこんなにして頂いて、こんな誕生日がくるとはと言いかけるのを、それは無しにしましょうと遮る。

 結構遅くまで、賑やかな時間になった。

 次の日曜日、ゆーりがどうしてもアリーナに一緒に行くといって聞かないので、原チャで行き、二人で電車でアリーナに向かう。

 アリーナ廻りの緑の若葉が煌めいてまぶしい。

 歩くと額に汗がにじむ。

 プレゼントのバッグにビデオやタオル、ノートなんかを入れているようだ。

ジムでのトレーニングを撮って、スタンドでも流すのを撮影している。

 今日も3千流して終わり、アリーナ入口手前のベンチにすわってアイスを食べていると、ゆーりがバッグからビデオを出して再生しながら、焦ってないかと聞く。

 自身にそんな意識は無かったが、注意するよと返事すると、ゆーりが、自分は力を与えるコーチだからねと輝く瞳で見上げる。

 自室で、良好な環境を与えられていい気になって欲が出たなと謙虚に反省し、できることをきっちりやって、それで駄目ならきっぱり終わりにすることを腹に落とし込む。

 6月半ばの土日二日間で行われる一級情報処理試験に向けて、論文も一時停止して、約2週間集中的に取り組むが、このカテゴリは日々進化していて以前の問題のおさらいをしてもあまり役に立たないが、新概念についてはきっちり押さえる。

 試験会場は賢の大学なので、その辺の心配は皆無だ。

 ゆーりの勉強で、PCについてのゆーりの質問が新鮮に聞こえるときがあるが、自分の勉強も含めて、回答と可能性の両方の説明を心掛ける。

 二日間の試験を終えて、多分大丈夫だろうという気はするが、2週間後の通知を待つことにして態勢をルーチンワークに戻す。

 自身のプライオリティでは5番目で下から2番と低いが、それでも課題を一つ終えたことにはどこかに安堵感があった。

 「おにい、試験どうだった?」

 「できたと思うけどね。 試験は結果だからね。」

 「そうだね。 怖いよね。」

 「なあ理香、俺の今回の試験はラインをクリアすれば全部OKだけど、入試はさ落ちるやつを選ぶんだからちょっときついぞ。」

 「どういうこと?」

 「できる人が沢山だったらハードルが上がる相対的結果だろ。」

 「そうか。」

 「手伝うからさ、弱いとこはっきりしといてな。」

 お願いと唇を寄せてくる。

 

 松岡社長に、20分はあんまりだから10分に短縮をお願いして、アスレチックルームでゆーりの身体を計測すると、また身長が伸びていて、体重も僅かながら増えて40オーバーになった。

 家に行って、佳織に身長が伸びたことを教えると、制服のスカートが膝上に短くなって、靴を1月と4月に買い換えて今は22.5だという。

 「ゆーり、身体が成長してるよ。」

 「ひょろっと痩せっぽちになるのかな?」

 「きよねえに聞いてるけど、体幹が伸びてそのあと骨格に実がつくんだって。 僕も

中3から高1にかけて20cm以上伸びたけど、筋肉はそのあとだったよ。」

 身体を押さえながら、そんな感じはないけどなと呟く。

 「ゆーり、しっかり食べて、運動して、頭も使ってってさ、今しっかりやってるじゃん。

続けようよ。」

 「うん、それはやるけどさ。」

 スカートを新しくしなきゃと頬杖をつく佳織の眼が潤んでいる。