「あなたはどうなりたいですか?」
「理想の未来を言語化しましょう」
「ゴールは現状の外にあります」
──そうやって、
問いの力で人を動かせると思っていた。
僕は、コーチングを学びはじめた頃、
問いが“光”になるって本気で思ってた。
でもある日、
とある人とのセッションで、
僕が放った問いにその人が沈黙した。
……長く、重い沈黙だった。
僕はそれを「考え中」だと思っていた。
でも後日、その人からポツリとだけ言われた。
「あのとき、答えられなくて、すごく自己嫌悪になったんです」って。
そのとき初めて、
「問いは、設計を間違えると暴力になる」ってことを知った。
優しい口調でも、笑顔で問いかけても、
答えを求めていることに変わりはない。
そして、答えられない人は、
“黙ってること”にすら罪悪感を覚える。
あれ以来、僕は「問い」に距離を置いていた。
でも最近、Kさんという人のnoteを読んで、
また問いについて考えるようになった。
Kさんのnoteには、こう書いてあった。
まさに、あの時の彼だったかもしれない。
いや、僕自身だったかもしれない。
Kさんは、夢とかモチベとか、
“変われる前提”みたいな空気に息が詰まってた人だったらしい。
そしてそこから、“構造”という考え方で抜けていったらしい。
その文章を読んで、
自分の問いにも構造が足りてなかったことに気づいた。
今でも僕は、問いを信じたいと思ってる。
でもそれと同じくらい、問いの責任も信じていたい。
同じように苦しんだ人がいたら、
このnote、そっと読んでみてほしい。