僕は俳優志望で、今は大学受験をするために、浪人しているんです。
受験勉強というものは真剣に取り組まなければならないものだと思っているのですが、正直なところ役者になりたい、表現力を高めたい、と思って受験勉強に対して中々真剣には取り組めていません。



勉強したくない人の、勉強するのは何故かという問いに、勉強は自分の可能性を広げる為にするのだという答えをよく耳にします。

勉強の意味はそうなんですかね?


私は惰性で勉強して、浪人までしてしまったので、勉強をやめることもできない自分を少しばかり恨んでいます。
そうは言いながら勉強によって自分の視野が広がったことは、実感しているし悪いことではなかったと思っています。


ところで、勉強は好きですか?

私は好きですが嫌いです。 

というのも、
今回私はここで「勉強」という単語について考えてみたいのです。



すこし前置きが長くなりますが、
辛抱してください。
或いは、読み飛ばしてください。





私は言語についてかなり興味を持っています。

  これまでの人生で私は、様々な悩みを抱える上で所謂「哲学」のような思考
(「ようなもの」ということを強調しておきたい) 
をするようになりました。

  そのような思考行為をする上で、我々人間ができる思考、特に抽象的思考においては、言語の果たす役割が非常に大きいというのは恐らく間違えた考えではないでしょう。
  また言語の役割として、より広く認知されているのは、人間相互の意思疎通という役割だと思います。

この二つの役割を考慮するようになって、私は言語で表された抽象的概念の共通認識が、発話者と受話者に可能な限りあるべきだと思うようになったのです。


哲学「のようなもの」と言ったのも、「哲学」ということばに対する私の理解も足りず、世間一般的な理解がどういうものかわからないと感じていて、そのまま使うのを憚りたいからです。











前置きはこのぐらいにして、「勉強」について私の頭を巡る雑音をここにひろげたいと思います。



勉強の「勉」と「強」をそれぞれ漢和辞典で調べてみると
 【勉】 困苦にたえてつとめる。無理をおしてはげむ。 
 【強】 無理をおす。しいる。 
 だそうです。
また広辞苑の説明には「精を出してつとめること」とありました。

しかしながら、「勉強」の意味を上の通り考えている日本語話者はほとんどいないでしょう。
広く使われている「勉強」は何かを学ぶこと、何かを自分の知識や知恵として身につけるという意味ではないでしょうか。

私はこの意味の「勉強」を「学習」と表現して、漢和辞典の上の意味を「勉強」と捉えることにします。


恐らくは、学習が多くの人にとって勉強であったから、そのように使われるようになったのでしょうね。


私はここで、それは間違った使い方だ、と主張したいのではありません。
余談になりますが、
言語の役割として、相互の意思疎通、があるから、極論的にはことばを交わすお互いが用いたことばを互いに分かっているのならば、それは言語であると言えると私は思います。
但しより多くの人と意思疎通をする上では、ある程度の普遍性を持つことばを使うべきではあります。
そうでなければ意思疎通はできないですから。




話を学習と勉強についてに戻します

私が勉強は好きですが嫌いですといったのは、学習は好きであるけれども、勉強は嫌いだということなんです。
学習というのは、新しいことを知ること、好奇心を満たすひとつの方法であるので、満足感を生む行為だと思います。
しかしやりたくないことを我慢するのは嫌いです。
当然ですね。
やりたくない、のですから。

ここまで言えば、共感してくれる人も多いと思います。

学習を勉強と表現することによって、学習することにつきまとう嫌なイメージ、やりたくないことをやるイメージは、原義にちかいものでしょう。

知りたいことだけを知る、学習をしたいと今は思っていますが、ここで私の置かれた状況を思い返しますと、


浪人生という受験勉強をしなければならないのですね。

受験学習ではなく、受験勉強。

あーやりたくない。。。