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本書は、2008年12月に川崎市民ミュージアムで行われた「特集上映:脚本家 荒井晴彦」の記録である。特集上映された各日2本9日間の上映と共に行われたトーク・セッションで荒井晴彦とゲストによって18本の映画が解題されている。さらに幾つかの対談と、エッセイと、シナリオが掲載され、荒井晴彦という映画作家の姿を捉える貴重で豊富な資料となっている。
 『映画芸術』最新号(2012年春号)の編集後記に「書いている途中から主人公が勝手に動き出すんですよという脚本家がいる。そんな馬鹿なと思っていた」「七転八倒の苦しみから逃れるために泥酔して愚行を繰り返しながらホンを書いてきた神波さんや俺は非才ということか」と書いてしまう荒井晴彦という作家の不器用さと誠実さが、ここに露呈されている。
 根岸監督が「『Wの悲劇』を見れば、やっぱりストーリーテリングは好きじゃないしうまくいかないな、ってところからスタートしてああなっちゃった」(p.15)と喝破しているように、極めて無骨で不器用な脚本家だ。その『Wの悲劇』の初稿が本書に掲載されている。37歳、円熟期とも絶頂期とも言える時期なのに、気恥ずかしい程の純情さに満ちたその初稿を読んで僕は、不覚にも目頭熱くなってしまった。夏樹静子の原作を映画の中の劇中劇にしてしまい、全く原作とは独立した物語が綴られたそのシナリオには、20歳の女優の卵と、26歳の役者を諦めた男、その男の女々しく、ブザマな、純情がひたすら赤裸々に書かれている。その延々たる描写の多くが2時間弱の映画に収まりきらずカットされ、澤井信一郎監督によって完成した映画は、ウェルメイドかつ80年代において突出した傑作の一つだ。しかし映画以上に、このシナリオの女々しさに僕の心が鷲掴まれてしまう。
 主人公の世良公則は「汚い」「汚い」と罵る。三田村邦彦の車に乗り込んだ薬師丸ひろ子を追いかけて、三田村に突っかかる。「汚ねえ。汚ねえ、汚ねえ、あんた結婚してんだろ、女房や子供がいるんだろ、浮気じゃねえか、遊びじゃねえか。芝居の世界って、汚ねえよな」と。或いは映画からはバッサリ切られているが、身代わりのことを知った世良は「汚ねえよ。芝居やるって、そこらへんの奴より、真面目に人間が好きだから、人間がもっと分かりたいから、人間と人間が傷つけあったり、憎みあったり、そういうことが嫌だから、だから芝居やるんじゃないのかよ。芝居やったり、観たりしたって、何もそんなこと解決しないけど、この次、そういう問題にぶつかった時、前よりも少しはひどくないようにって、それでみんな芝居やったり、観たりするんじゃないのかよ」(pp.305-306)と、三田村と、身代わりを頼んだスター女優(三田佳子)をなじる、映画ではカットされているこの長セリフの青臭さ。
 37歳の脚本家が26歳の登場人物に託して吐露した心情の初々しさが、56歳になってしまった僕の心をギュッと締め付けてしまう。シナリオなんて感情移入がしにくい形式のはずなのに、心が締め付けられて、しばしば本を閉じて深呼吸をしなければ、読み進めることができない。
 劇団の前で薬師丸が出てくるのを待つ世良を、薬師丸が三田村の車に乗せて貰って避けようとし、その三田村の車を追う世良のシーンの長さ(pp.272-276)。映画では大部分がカットされざるを得ないのかも知れないが、その狂おしさにも胸が痛む。薬師丸が死んだ会社社長と居たと報道されたTVを見てからの、狂ったようになる世良のブザマさも長い(pp.289-290)。世良が別れた女と飲んでいると、偶然三田村と三田の会話を聞くことになり真相を知るシーン(pp.304-306)、これもまた長く痛々しい。とにかく今どきなら「ストーカー、変質者」として忌避されかねない、ブザマさが延々繰り広げられている。
 内舘牧子は荒井晴彦の「少年っぽくなさ」と「清潔感」が好きだと言う(pp.211-213)。確かに世良が演じる昭夫は、青年として薬師丸と寝るが、「俺は遊びでネたわけじゃない」(p.266)と誠実であり、そのうえ狂おしく煩悶し、ここでも「嫉妬という感情を持った時が愛じゃないか」(p.48)という荒井的「愛」が充満している。
 荒井晴彦が「俺は映画少年じゃなかったから、映画が好きで映画を見始めたわけではないんだよ。(中略)大学受験で失敗して(中略)東大とか一橋に行かなくても生きていい理由を本や映画の中に探したんだ」(pp176-177)と言い、「アメリカン・ニューシネマで育って、(中略)だからニューシネマ風の弱さを知っている」(p.185)と言う、この2点に対して、僕もまた映画少年じゃなく、映画が好きで見始めたわけではなく、大学とは別の世界を探して見始め、ニューシネマとニューアクションとATGとロマンポルノから入って、映画と同時にシナリオを読み始めた。だから僕は人より荒井晴彦に共感する点が多いのかも知れない。
 「安いけれどお金と引き換えでしか書いたことがない。基本的に書くのが好きじゃない」(p.178)というのも僕はよく分かる。僕も書くのは、特に物語を一から作るのは好きじゃない。数年前に僕はどこまで物語が書けるのか確かめようと、北村想の想流私塾で戯曲を書いてみたが、たかだか5分や10分のモノを書くのに身を捩らせて七転八倒してしまった。金にでもならない限り二度としたくないと思った。でも何とか一度書きあがったモノを何度もいじくり倒して書き直すのは好きだった。荒井晴彦もそうなのかも知れない、だから「原作の小説を脚色する場合にはそれを材料として組み替えるわけだから(中略)編集作業に近い」(pp.178-179)ものになる原作の脚色を得意とし、オリジナルの場合は、『大鹿村騒動記』のように初稿を共作者(ここでは阪本順治)に書かせて、それを「荒井さんは僕が書いてきたものをバーって削っていくんですよ」(p.205)って言う方法を取るんだろうと思う。このいじくり倒しながら自分の世界に引き寄せていくのは、僕はよく分かる。
 これは、荒井晴彦の存在価値を貶めるものだろうか。いや所詮今までにない斬新な物語なんて無用の長物なんだと僕は思い出している。物語は「Boy meets Girl」「Seek and Fine」に収束し、ギリシア神話のような神話的世界に還元されていく。シェークスピアだって、その戯曲の多くには原作にあたる物語があったという。でもそのことがシェークスピアの凄さを何ら貶めていないと僕は思うのである。原作があろうとなかろうと、新たな創作物として存在しているシナリオの魅力を本書を通じて、多くの映画ファンに少しでも知って頂ければと思う。

*文中の(p.●)は本書中の頁数を指します。

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