御父様の御両親は、文慶裕氏と金慶継女史の儒教を信仰されるキリスト教とは無縁の普通の御夫婦で間違いないと思います。
4研では、従祖父の文潤國牧師と金慶継女史(忠母様)との間に生まれたのが御父様であるとしたいようですが、歴史的事実を調べてみればはっきりとそうでないことが解ります。
ある方が、御父様の実の父親が、文潤國牧師でないことがはっきりすれば、4研の主張はすべて崩れるとメッセージで言われていましたが、今日がその日になってしまうかも知れません。
4研のブログ「喝海舟の敬天清話」タイトル「●文先生に兄や姉妹たちがおられた理由」で、
「さて、文先生の御家庭に兄弟姉妹がおられたということに関して、原理的な観点から分析してみましょう。まず、文先生のお父様が儒教の信者であった文慶裕氏であると統一教会(家庭連合)では教えていますが、それは原理的にあり得ないことです。」
と言われていますが、本当に原理的にあり得ないことでしょうか。
「文先生の本当のお父様は、かつてイエス様の時のザカリヤがユダヤ教の祭司であり第一イスラエル圏の重要な指導者であったように、キリスト教の牧師で第二イスラエル圏の重要な指導者でなければなりません。」
とも書かれています。
それで、4研では、従祖父の文潤國牧師と金慶継女史(忠母様)との間に生まれたのが御父様であるとしたいようですが、決定的な事実があります。
書籍「聖地定州: 文鮮明先生の誕生,少年時代」に、書かれていますが、縦書きなのでコピーできません。読まれれば解りますが、
1919年の三・一独立運動においては独立宣言文の起草にも参与したといわれていますが、三月八日、定州で行われた示威闘争のリーダーの一人として、数千人の群衆の前で独立宣言をしています。
しかし、独立宣言書をばらまきながら群衆とともに行進しているとき、定州の守備隊百二十人に包囲され逮捕。その時、槍で三回刺され気を失って死んだように倒れました。
ソウル刑務所に収監されたあと、二年の懲役を言い渡されましたが、(あと割愛)」
と書かれています。
御父様の御生誕日は、1920年1月6日(陰暦)です。陽暦では1920年2月25日となります。
御父様が、1920年2月25日にお生まれになるためには、受精日が、およそ、
1919年6月4日前後ということになります。
(サイト「受精日逆算」を参考ししました。)
1919年3月8日に、文潤國牧師は、「定州の守備隊百二十人に包囲され逮捕。その時、槍で三回刺され気を失って死んだように倒れました。ソウル刑務所に収監されたあと、二年の懲役を言い渡されましたが」
とあります。
ちなみに、1919年3月8日は陽暦のようです。
御父様が、文潤國牧師の息子として1920年1月6日(陰暦)、陽暦1920年2月25日の御生誕されるためには、文潤國牧師と金慶継女史(忠母様)との関係が、1919年6月の初めに、肉体関係がなければならないということになります。
「槍で三回刺され気を失って死んだように倒れました。ソウル刑務所に収監された」状況で、金慶継女史(忠母様)と関係を持つのは、不可能と思われます。
イエス様が、地上にお生まれになった時、ユダヤの律法学者の方たちは、漠然とメシアを待っていたのでしょうか。
現在、4研さんが、されているような、研究が徹底的にされていたのではないでしょうか。
徹底的に研究され、彼らなりの「原理」が存在していて、イエス様がその「原理」に該当しないということを持って、イエス様はメシアではないと断定されたように、
御父様が、儒教信徒のごく普通の御夫婦からお生まれになったことを、「原理的」ではないので、受け入れられないということで、上記のように、金慶継女史(忠母様)と関係を持つのは、不可能という状況の文潤國牧師を御父様の父親にしてしまうという「非原理的」判断をされていることに気がつかれたほうがいいように思います。
ちなみに、文家が、キリスト教に回心したのは、文潤國牧師の勧めでもなんでもなく、近所の牧師さんの勧めだそうですね。私は、てっきり、文潤國牧師の勧めと思っていました。
実際、御父様は、文潤國牧師と一度もお会いされていない可能性もあります。
簡単ですが、
歴史的事実の検証と、現代医学の知識によって、
文潤國牧師は、御父様と直接的には何の関係がないことが解ります。
御父様の御両親は、文慶裕氏と金慶継女史と私は思います。
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