‡†MELTING MORATORIUM†‡

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あいまいアナロジー
かんねんてきポエジー
ちょうかんかくてきちかく
きらめくエーテル
ひとりよがり
モラトリアムとのたたかい
おいのり
おまもり
ルミナール
パラフィン紙
アナクロニスト
ロッシュのげんかい
シュレーディンガーのねこ


$‡†MELTING MORATORIUM†‡


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おひさしぶり、えりは撃ったり死んだり元気です
ブログ移転しています

http://juvenilia-827.blogspot.jp

よろしくお願いします…ソフトクリームオバケいて座

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これは最近行った神保町さぼうるの生イチゴジュースとサービスのゆずシャーベットいちご




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今朝は三鷹の禅林寺に行ってきました。
煙草をお供えしたいところだったけど、未成年なのでココアシガレット。

太宰の小説に出てくる、処女が三文作家にお酒・煙草を辞めさせようとする の構図が好き
でもね、やっぱり、ほんとうのところ 煙草吸うひとは大嫌いです
今世紀において 喫煙がカッコいいというテーゼは完全に死んだ
わたしが殺した


禅林寺には森鷗外のお墓もあって、おそらく森茉莉もそこに眠ってるんじゃないかな。
今度はかぁいい仏蘭西菓子でも持って行こうとおもってる ♡


それにしても ああ、大学生楽しすぎて。
ブログ書いてるひまなんてありません。
こんなに毎日が充実してると いつかバチが当たるんじゃないか、って心配になっちゃうよ !
大学生になるに当たってなにも不安におもうことも、女子高生という地位に固執する必要も無かったんだ。

ひとりで文学碑巡りしてる話の後だと、わたしが大学生活を謳歌しているっていうのが痛々しい嘘に聞こえても仕方ないとは思うけど!笑

わたしの協調性の無さも根暗なところも独りよがりで自分勝手なところも、理解したうえで受け入れてくれる人々に出会えてよかった

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大学生であること、わたしの思っていた以上にむつかしい。
瞳の上に薄い硝子を載せる作業にも 唇の色を保つ気配りにも大分慣れたけど、睫毛は重力に逆らわない
髪を巻く時間を作ることもできないし
装飾過多のワンピースを選びがちだ。

それでニセモノだってばれちゃったわけだけど。


穏やかに、程々に、楽しい毎日です。
山崎俊夫全集のある大学図書館、ソフトクリームが買える食堂、学問を重んじる校風、旧字体を好む校内出版物(体育会、じゃなくて 體育會、だよ♡)


大学では 哲学、文学、天文学、物理学、中国語、トールキン研究 なんかを嗜む予定です。

大学は今までの小さなコミュニティと違って色々な世界のひとが集まっていて、そのへんにいるやつとちょっと言葉を交わすだけでも 勉強になるし驚きの連続です。

華やかな同級生を見ては引け目を感じてしまうこともあるけど
わたしはいつまでもわたしのままだよ。
高校の時の友だちが髪をどんどん染めてゆく、黒髪の稀少価値が高まるだけだわ、って心のなかで思ってる


サークルの勧誘に遭って4センチ相当量のチラシを押し付けられたり
モンテカルロ定数を調べるためにサイコロを200回ふったり
本棚買うお金を手に入れるために800枚のチラシをポスティングしたり
4月はいろいろなことがありました。
新しいことばかり。
現実見なくちゃ置いてかれるし、でも空想しないとやってけないし、人と出会いたいし、こと座流星群も見たい。
全部やってると電池切れになっちゃうのに。
不器用って、こう見えて大変なんだよ


環境が変わって知ったこと。
かわいいは作れるし、宇宙は測り知れる。数字を見れば経済が判る。
わたしは以前よりも現実的になったのかもしれません。
それでも現実というよりは超現実を生きるので、あまり上手くいきません…



いいニュース:
わたしの周りの人々の きらめく才気を見る限り、日本の未来は明るい

わるいニュース:
わたしには何もない、
わたしが今のわたしである限り
魂を入れ換えでもしない限り



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今日はフードコートで甘いの食べながら、高校の友だちに 長い手紙を書いていました。
嫌われているはずはなく、しかし、どういうわけか 彼女はメールアドレスを教えてくれないのです。
TwitterにもLINEにもFacebookにも登録してないみたいで、無駄にミステリアスで不思議なあの子が、それでも大好きなんだ。
テクノロジーもエレキテルも、わたしたちの前では野ウサギも同然です
これからも、今時珍しいクラシカルなお付き合いをしていきたいな、ラヴ。


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六本木の森美術館で、ずっと気になっていた 会田誠展 天才でごめんなさい
を見てきました♪

若者が多いのかと思いきや、意外なことに 老若男女で賑わっていました。

森美術館に来たのは初めてだったのですが、風通しがよく 美術館特有のイカメしさとか無菌感がない それは入館料が展望デッキの料金と共通であることとか 夜まで空いていることとか 現代美術がポップな印象であることとか 関係してるのかな。
外国のお客さんが多いのは土地柄かも。



展示は想像を上回るインパクト そして驚きの連続でした。
とても楽しかったです。

扱っているテーマは 結構社会的。
例えば 震災、戦争、買春、自殺、グローバル化、いじめ

それなのに深刻にならない
軽やかでポップなエロ・グロ・ナンセンス。
人を喰ったような表現もあるけど、実は本質を突いてるんじゃないか って思った。
例えば 18禁コーナーの 美味ちゃんシリーズ
これは「食用人造少女・美味ちゃん」の調理例(?)のイラストで、女の子の 開きの天干しや 生首や手脚がトッピングされたどんぶり など、なかなかシュールなのですが 単なるエログロじゃないなぁ と思った。
だって よく考えたら(よくかんがえなくても?)わたしだって毎日なんらかの生命体のいのちをいただいているもの。どうしてこれが18禁なの?
その対象がヒトガタになっただけで剰反応してしまうわたしたち。その事に気づかされて、ハッとしてしまいます。

「戦争画RETURNS」シリーズも毒っ気があって好きでした。
襖をビールの箱に乗せただけのものを屏風に見立て 「戦争画」を独特の視点からカリカチュアした作品なのですが、アイディアいっぱいでバリエーションが楽しい。
血液で「天皇陛下万歳」と書いてあったり、テーブルクロスに原爆ドーム+パルテノン神殿 が描かれていたり。
よくよく見ると俵屋宗達や等伯へのオマージュかしら って日本史資料集の図版が脳裏をよぎることもありました。
会田氏のコメントに
“僕にとって太平洋戦争とは、煎じ詰めれば「意味」ではなく「抒情」である。”
とあったのですが これは個人的にも共感できるところで 、わたしもどちらかというと あの戦争のことをよく知らないせいか 過去への憧憬を伴う視点が加わってしまう。
平和ボケした太平の世から捉えた戦争像には、開き直った爽やかさがある。
原爆(?)と水爆をモチーフにした「たまゆら」だって 美しいと思った。偉大な破壊。

小学生の図工を模したような「ポスター」シリーズは笑っちゃうほどストレートで最高でした。会田氏は「工芸的完成度よりメッセージの直接伝達を優先する」と述べていたけれど、確かにアウトサイダーアートにはそのような効果があると思うのです。
広島の「原爆の絵」を見たときにも感じたことですが、美術の訓練を受けていない者が 何かを伝えたいという強い想いを込めて描く絵には、技術的に優れた作品を凌駕するパワーがある。
「ポスター」は 技術の未熟さ・純粋さ ゆえに 社会の残酷さやメッセージ性が強烈に引き立っていて 凄かったです。


様々な技法、作風、テーマがあって、美術展全体としては まさに カ オ ス だなぁー って思ったのですが、どれもそれぞれに日本的でサブカルぽい。
日本文化の本質は雑居性と混沌にあるため 全貌が掴みづらいし 一概には説明できない と思っているのですが、この個展の混沌ぶりは ひとつの完成型だと思いました。
会場にいた外国人の反応が気になります。




そういえば、会場に会田誠氏本人がいらっしゃいました!
目が合ったら ニコッとしてくださった!キュンとした!

わたしも会田氏のように前衛的なことしたいなって思ったよ。
とりあえず 大恋愛と決闘は定期的にやってゆきたい♡



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@リッツカールトン東京




春休みが暇すぎて、Twitterを始めてみました。(小人閑居して不善を為す)

等身大の生の力は確かに魅力的だけど
言語の宿命、普遍的な構造と永遠性は忘れないようにしたい。(自戒)
過去に対する現在の優位、生のきらめく刹那主義。情報の一時的な通過点としてのわたしを愛してくれますか?

わたしのタイム・ラインはまだ 真っ白なので
よかったらフォローしてね。

@lonely_planet_

エスパーが使える/コヒーレント












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幼稚園受験を入れれば人生三度目の受験でした。


大変だったことは胸の中にしまっておこう、割愛!って思ってたけど、今は暇だし・きっと新しい生活が始まれば あんなに頑張ってたこともわすれちゃうのかしら、っておもうと寂しいので 受験の最中に感じていたことを書いてみようと思います。
おそらく誰の参考にもならないと思うけど、自己完結的・表出的コミュニケーショのひとつとして。あるいはこれも現実を隠蔽するためのひとつの装置ではあるけれど。


わたしは二月の始めから 受験に便利だということで、御茶ノ水のパパのマンションにしばらく住んでいました。
東京は、わたしの住む横浜の端っこなんかよりもずっと人が多くて、自分が誰なのか 時々本気でわからなくなってしまうほどでした。

ほんとうに噂通り、都会の針は常に三分前 道行くひとは皆 早足。

料理のできないわたしは三食外食だったけれど、御茶ノ水の辺りは大学が多いため 安くて美味しい処がたくさんありました。
気が付くと食券ばかり買っていたし お店の中にいる女の子はわたしだけ、なんてことが多々あったけど それにも次第に慣れっこになりました。

また、文京区は土地柄 図書館や公民館が多くて 勉強をする場所には困りませんでした。わたしは文京区内の図書館を全制覇するまでに至りました。

そんな中 わたしは色々な大学に行って試験を受けたのですが、試験の最中にわたしがボンヤリ感じていたのは、人間はひとりで生きて ひとりで死んでゆくのだなぁ、という悟ったような気持ち。

テスト中に未知の単語に出会ったところでそれを誰にも尋ねることは出来ない。これは当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、わたしは改めてこの事実に向き合い、社会は怖いと思ったのです。試験中、解けない問題・どうしても思い出せない言葉に出会うたび わたしが今まで 他人や辞書やいつもそこにある解答例に頼り過ぎていたという事実に 嫌という程向き合いました。否、向き合わされました。


完全なる実力主義、そして運。

わたしはいま 自分を省みて、その運の強さに驚きます。

こう書くと、わたしの合格は偶然によってもたらされたもののように思われるかもしれない。
運と偶然の要素が強かったのは確かですが、強運は合格のための十分条件ではあっても 必要条件ではないと思う。

わたしは出来る限りのことをやりきり、そのうえで運命が降りてくるのを待っていたのです。


わたしの言う 運、というのは具体的には 読んだことのある英文や評論文、古文が 一回のみならず何度も出題されたことや、直前に見ていた箇所がそのまま問われたといったことです。

後者は運といえるとしても、前者は単なる乱読癖の賜物ともいえるかもしれません。


わたしが受験を終えて潮風の吹く 坂の多いこの街に帰ってきたのち、いつも同じ図書館で勉強していた友達に、試験中に感じた孤独の話をしました。
驚いたことに、彼女はわたしと正反対の考えをもっていました。
彼女は試験を受けながら 孤独ではなく、家族や先生や友達といった存在に護られている自分を強く意識したというのです。
嗚呼、そんな考え方もあるのね と納得すると同時に、わたしは自分が冷血でつまらない人間のように思えたのも本当です。
確かにわたしはひとりでやってきた訳じゃない。自分ひとりが努力していたと思うなんて、傲慢にも程があります。わたしは心が狭いし 自分の平凡さや空虚さの弁解をいつでも探している、そして自分のつまらなさを埋め合わせるために 物語世界に悲劇のテーマや見えない力を求めている。気がつくと思い込みが激しく 酷く利己的な人間になっている。

勉強嫌いで頭のわるい わたしがヤケをおこさずやってこられたのは周りの気づかいあってこそなのに。もう。
感謝の気持ちというのは自然に生まれるものでなくてはならないはずなのに、わたしの場合 頭で考えないと そして そういった感情があることを理解しなければ なにも思えない。
ごく偶に わたしのことを感受性豊かだと表現するひとが居ますが、それは間違いです。わたしは普通のひとが感じそうなことを想像して口にしているに過ぎない。わたしが人一倍 小説を読むのは ヒトが特定の状況において覚えているべき感情を学習しようとしているからです。
友達と話していて、よくそのことに気づかされます。そしてもっと自然に物事を感じられるようになりたいと思います。



さて、受験勉強をしてきて1番良かったと思うことは 集中力の出し方がわかるようになったこと。
時間の使い方にメリハリが付いたこと。
自分にとって1番適切な睡眠時間がわかったこと。(5時間より長くても短くてもだめっぽい)
勉強友達が出来たこと。


逆にデメリットもありました。
それは趣味を制限しなければならなかったこと。
受験をしない人たちよりも 社会にでるのが遅れること。

趣味、つまり美術展に行くこと・文章を書くこと・本を読むこと・ダラダラすること・高価な甘い食べ物を探しに電車に乗って出掛けること・ショッピング なんかを我慢するのは、いちばん大変だった。そして実際秋ぐらいまではあまり我慢はしていなかった。

しかし試験を意識し出すと、自然とそういった欲望は抑えられるものです。
わたしは今まで本が無くては生きていけない、なんてこと 何の臆面もなく言っていたものですが、今ではそれをとても恥ずかしく思っています。


受験を通して、わたしは自分を過小評価してたのかも って自信を持つこともあれば、逆に 模試の数字の残酷さに直面して ただひたすら泣くことで日々を過ごしたこともあった。

でも受験は自分の破壊応力、極限強さを知り、精神の多結晶物体化を促すきっかけになったと思っています。
努力が嫌いでハングリー精神に欠けるといわれていたわたしが、初めてちゃんと未来に繋がる今 を意識し 頑張れたのは、これも大人への一歩なのかなって…。
大人になりたくない って言い続けてた、でも 今は反対に大人にならなくちゃ って焦ってる。自分でも不思議だけど なんの苦労もないままこの居心地のよいモラトリアムに浸かっているのは危険なんだって本能がいってるのかもね。


わたしの 青春 に対する幻想は ある意味 誇大妄想の域に達していて、この「多感な時期」にやるべきことがもっとあるはずだったという釈然としない想いがあったのですが
星新一のある言葉を知ってから 落ち着いて受験勉強に打ち込めるようになりました。前にもちょっと載せたかな。


青春とはもともと暗く不器用なもので、明るくかっこよくスイスイしたものは商業主義が作り上げた虚像に過ぎない



受験期にはなぜか軍国主義に共鳴したりしました。
月月火水木金金 だとか 贅沢は敵だ だとか 欲しがりません、勝つまでは なんて、20世紀のスローガンを唱えたりしてた。
神風特攻隊の使命感に憧れを抱き、坂口安吾を耽読して 予想し得ぬ新世界への不思議な再生の為に 自らのこの運命を甘受しよう、ってうっとりしてた。
今おもうと頭おかしめだけど、そんな想像のお陰でなかなか楽しく勉強できたよ。

セーラー服は戦闘服であって死に装束ではないのです。



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謎にお守りファッションもしてたの。








クロネッカーの青春の夢がケミカルウォッシュした空に溶けて消えてゆくよ