その日の午後は、みぞれが降っていた。
液晶画面から流れる情報は曖昧なものばかりだ。理想を具現化しただけのドラマも、芸能人のゴシップも、運勢を決める星座占いも。
その日は、天気予報士が言った「快晴」の二文字とは遠い生憎の天気だった。吐く息は白く染まっている。セーターを脱ぎ散らかしてきた朝の自分を心底恨んだ。春先の暖かさどころか薄着してたら凍死しちゃいますよ、お姉さん。
校門に辿り着き、靴箱でスリッパに履き替える。
ペタペタと足音を鳴らして階段を上る。
教室の窓から見えたグラウンドの木々は真っ裸だった。空風が吹きつけて枝先が微かに揺れる。聞こえそうで聞こえない、窓越しの音。枝先が触れ合う小さな音を再生した。
ガラガラ。扉を開ける音。おはよう。鼓膜に柔らかな音が響く。桜色のマフラーから漂う甘い香りが鼻腔を擽った。赤く染まった鼻先を気にしながら彼女は笑う。
「今日とっても寒いね」
「そうだね」
沈黙が流れて、西宮さんは言った。
「今日がなんの日か知ってる?」
「ハッピーバースデー?」
「ノーハッピーバースデー」
彼女は丁寧に包装された箱を取り出した。
「プレゼントフォーユー」
味は保証しないけどね、と付け足して微笑む。心なしか揺れる視界に違和感を感じる。瞬きを二度。振動は続く。三度。揺れる。四度目。ああそうか。彼女の指先が微かに震えていた。受け取ると、彼女は小さく呟いた。ありがとう。鼻先は熱を帯びたまま。
窓の外は燻んだ雲が何層にも覆い被さっている。次第にパラパラと雨が降り始めた。どこかの誰かが言った「春」とやらは未だ片鱗を見せない。報われないなあ。僕らはお互いに笑って外を見る。
「雨雪?」
「なんだそりゃ」
西宮さんは笑って淀んだ空に視線を移した。
窓際の僕と、隣の西宮さん。
チョコを貰った僕と、チョコをあげた西宮さん。
「あ、本当。霙だ。」
西宮さんの声に、鼓動が早まる。慌てて目を凝らす。窓の外では、不安定な雫がパラパラと路面に降っていた。濡れたコンクリートは海の底のような色だ。光も見えない深海の奥底に僕はいた。 当てもなく、ふらふらと。その先に君の姿を見つけることを心の隅っこで願いながら。
「なんだか面倒くさいね」
その通りだった。西宮さんはきっと分かっていた。僕が動けないことを。それでも、身動き一つ取れなくなるほど囚われていた。呼吸も瞬きも忘れるほど焦がれていた。一瞬も逃したくなかった。君が僕に向ける全てを。小さな可能性を。
「名前が呼べればそれで十分だよ。あとはなるようになる、きっと。」
たぶんそんなものなのだ。西宮さんはなんでもない風に言った。僕が何度も足踏みしたその場所を軽々と飛び越えて。
指先には絆創膏が貼られている。
窓際の僕と、隣の西宮さん。
チョコを貰った僕と、チョコをあげた西宮さん。
西宮さんにあって、自分にないものは何だろう。
思いっきり息を吸って、吐く。
「みぞれ」
「うん」
「みぞーれ」
「うん」
「みーぞーれー」
うん、西宮さんはそれだけ言って耐えきれないように笑い出した。つられるように僕も笑った。あはは、あはははは。
沢山笑って、西宮さんは目元に浮かんだ涙を拭いた。そう言えば、チョコ。
「なんですかな」
「チョコ、義理の中の義理だから。」
「なんだそりゃ」
他意はないのだと西宮さんは念押しした。
「うん」
西宮さんはもう一度笑って、涙を拭った。
今朝の天気予報士を思い出す。春先の暖かさはまだ遠い。春よ来い、早く来い。西宮さんが可憐に微笑む暖かな春が。
それでも、みぞれは僕の隣で降り続けている。
不安なんて素知らぬ顔で、それが当たり前であるかのように。恐れる僕に足りないものは、何だろう。何気なく口に含んだチョコレートの甘さにたまらず声をあげた。
「霙」
すんなりと言えた事に驚いた。多分そんなものなのだろう。鼓舞するように心の中で呟く。多分そんなものなのだ。
揺れるポニーテールに弾む息。彼女は光そのものだった。キラキラと輝いて、微笑む。何だか泣きたい心地がした。僕の全ては君のものだった。君が笑うなら何だっていい。彼女の幸福が、望んだ「春」の側で息づいていますように。醜い欲望を隠すように、そう願った。
湿気を含んだ重たい雲の隙間から、微かに陽の光が見える。
曖昧な空に曖昧な思い。
曖昧な君は霙。曖昧な僕の感情は。
答えは案外明確だったのかもしれない。何ちゃらは盲目というように、僕の目に君は眩しい。きっと明日も、その次も。僕は何度も霙に焦がれ、手を伸ばし、歓喜するのだ。
その日の午後もきっと、僕は霙に恋してた。
みぞれはまだ降り止まない。
明日は晴れると良いね、お姉さん。