例えば、人の生命を扱った映画とか。
人が死んだとか、献身的な介護で回復した話とかを「つまらない」と言えば、冷たいヤツってレッテルを貼られます。
そして、この映画みたいに賞を掲げた映画。
人がいい評価をした映画を悪く言えば「コイツ、人より上に立とうとしてるんやな」とか「コイツは映画というものが分かってないな」って思われてしまいます。
けど、ここに書いていることは、ほぼぼくの独り言なのでハッキリ言います。
ピース又吉が芥川賞を受賞した小説、それを原作としたこの映画は "面白くありません"。
要は、芸人として売れるのは大変なんだよ、ってことを2時間かけて言ってるだけなんです。
芸人が原作を書いて、芸人が監督をして。
もちろん、芸人が大変なのは分かります。
売れっ子になるために厳しい生活を何年もしなくちゃいけないし、売れても人を笑わすために身体張ったり、人の尊厳を失うような扱いを受けなきゃいけない。
僕にはできない仕事だし、こんなに人を幸せにする仕事はないと思います。
何なら、僕の部屋のテレビは映画より、芸人がいっぱい出るバラエティ番組の方がたくさん映しています。
だから、芸人を扱ったこの映画には期待していたんですけどね。
もちろん、芸人にもこういう美談があっていいと思うんですよ。
人を笑わせることの難しさ、笑いを生み出すことの苦しみ、それらを乗り越える過程というものはホントに美しいです。
でも、それを芸人本人がこれだけキレイに発信してしまうのは何か違うと思うんですよね。
芸人はやはり人を笑わせる人でいて欲しいんです。
それを、こんな苦しい思いして笑いを生み出してるって自分で言われたら、何かその芸人が笑えなくなるじゃないですか。
それがフィクションだとしてもですよ。
この映画の中で菅田将暉と桐谷健太が語り合っていたことは、ピース又吉か板尾創路の主張でもあると思うんです。
芸人が自分でそういう一面を見せるのは、僕は好きではありません。
だから、もしこの映画の原作や監督が芸人じゃなかったら、もっと楽しめたのかもしれません。
芸人による、芸人のための、芸人バンザイの映画に引いてしまいました。
それに、登場人物が好きになれませんでした。
桐谷健太が演じた人間は僕が嫌いなタイプの人間です。
後輩の面倒見がいいところはいいんですが、借金をするような金にだらしない人間は信用できないので、何を言っても言葉に重みがありません。
付き合ってもいない女のところに転がり込んで、家賃も入れないようなところも好きになれないですね。
あと、公園で太鼓を叩いていた男に上から目線で絡んでいく感じもイヤです。
好きになれる要素がひとつもないんですよ、この男。
なぜ、菅田将暉はこの男に惹かれたんでしょうね。
最初の漫才を見てその才能に惹かれたまではまだよしとして、その後に垣間見える人間性にまで認めてはいけません。
木村文乃は個人的に好きな女優なんですが、この役の彼女は何の魅力もありませんでした。
ただのちょっと頭の弱いコでしたからね 笑
さらに言えば、ラストの漫才の客の反応が分かりませんでした。
ずっと後ろ姿で、何も声を発さなかったので。
僕は、スベってると思ったんですよ。
コンビとして最後の漫才で、こんだけ熱くなってもウケないのが芸人の厳しさなんですよってのを表現したのかと思ってました。
けど、作品レビューみたいなものを見たら、客も泣いていたみたいに書かれてたので「え?そうなん?」ってなりましたもん。
数カットでもいいから、泣いている客の正面のショットを入れた方が分かりやすかったんじゃないですかね?
僕なら、最後の漫才だろうがスベらせる流れにしますけどね 笑
映画の話からは少し外れますが、エンディング曲は菅田将暉は唄わない方がよかったと思います。
桐谷健太が1人で唄えばよかったんじゃないでしょうか。
エンドロールに入った瞬間の桐谷健太の歌声で「おっ」となるんですけど、菅田将暉のパートになった途端にガクッてなりました。
菅田将暉は声が爽やか過ぎて、この曲から滲み出る泥臭い哀愁みたいのは表現できていないと思います。
他の方のレビューでは、ドラマ版の方が面白かったという意見をよく聞きます。
機会があればそちらの方を観てみたいと思います。
それが面白くなければ、もうこの『火花』だとか "芥川賞" だとかいうネーム・バリューは、僕にとっては無価値なものになりますね。