Peachの幸せ日記

Peachの幸せ日記

本当の真理について語るブログ

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母が亡くなってから、ここ最近やっと落ち着いてきたように思えます。

生前の看病、介護も大変でしたが、亡くなってからこんなにも大変なことばかりなんだと驚いています。

一番大変なのは、金銭的なことでした。
人が死ぬってこんなにお金がかかるんだと、ただただびっくりするばかりです。

うちの場合は、妹が生命保険を全部解約してしまったので、死後入ってくるお金はなく、とても大変でした。

葬儀に戒名もそうですがお坊さんに支払うお金、お墓探し、法事、香典返しと、一連のやるべきことを、兄弟は誰も助けてくれない中一人でやり、親戚は菩提寺のことでもめたり、結局分骨したり、お寺の宗派に気を使ったりと、仕事をしながら全て一人でやっていたら、先日パニック発作をおこして、駅で倒れてしまいました。
人間は弱いし、無理は効かないなぁと実感させられました。

しばらく仕事に行けなくなり、心療内科に行ったら、生い立ちから色々聞かれ、家族構成なども聞かれて、「よく今まで精神的に病気にならなかったね、これからなるかもよ」と変な脅しも受けつつ、無理をしないで、気をつけなければダメだなぁと改めて考えさせられました。

前に友達の旦那さんが癌で亡くなったときに、家のローンがチャラになったし、生命保険何千万も入ってきたし、遺族年金入ってくるし、母子家庭は医療費無料になったから、旦那が生きてた頃より羽振りが良くなって、働かなくて良くなったよって言ってたので、この世界では色々だと思いました。

現在は心労で大変ですが、職場の人間関係にも恵まれて、なんとかゆっくり、ゆったり、のんびりですが生きていこうと思っています。

心労のせいかこの世界でもとくにやりたいこととかも無くなってしまって、鬱かというと、そういうわけでもなく、これが我欲が無くて、流れるように生きることなのかなぁと思いながら、今縁のある周りの人や動物たち、虫たち、樹や草花、空、星、神気など、見えたり、感じたりするものに感謝しながら生きていければいいかなぁと、最近感じるようになりました。

孤独はいろんなことを考えさせられます。

先日、私の母親が亡くなりました。


最後はとても苦しみながら亡くなっていきました。

あんなに優しくて、明るくて人の何十倍も苦労したお母さんが、なぜこんなに苦しんで死んでいかなければならないのかというのが実感です。


お母さんの口癖は「許しなさい」でした。

どんなに酷いことをされても必ず許していました。


今、元農林水産省の熊沢被告の事件についてよくテレビで報道されていますが、この事件は私にとっても人ごとではありません。

私の家族も同じ境遇にあるからです。


テレビで報道されている長男栄一郎は、私の妹の存在とよく似ています。


私の家族は母親が高学歴で、国立大学を出身した後は、社会的にも地位のある仕事についていました。


妹は中卒できちんとした職業には就けませんでした。母親に対する劣等感もあったのかもしれません。


妹は私の縁談に対しても酷い事をしてきました。

縁談相手の会社に嫌がらせに行ったり、結婚したらお前(彼氏)の家に放火してやるなど数々の嫌がらせをし、ことごとく私の縁談は破断となりました。


そのことが原因で私も自殺未遂をしたことがありました。

今回熊沢被告の娘さんが自殺してしまった事はとても残念でなりません。


私がこの俗世で学んだ事は、信仰はとても大切だということです。

どんなにつらく苦しいことがあっても神は絶対に見離したりはしません。

神(真我)と共にいる限りは何度でも愛を学べる機会があるのです。


しかし、新興宗教やカルト宗教に邁進してしまった人はとても残念です。

そこでしか救いの道が見つけられなかったと言うのは、とても残念でなりません。


よく人は神はいるのかいないのかと問いをしますが、そんな質問はまったくもって愚問です。

神に生命を与えられ、神の絶対的な愛に包まれ、すべてを許されながら生きているのに何と言うことを言うのだと、その傲慢さに驚かされます。


生きていれば神は見放すと言う事は絶対にしません。神(真我)は全てを許す絶対的な愛からできているからです。

そして心臓が止まるその時まで、見放すということは決してありません。


何もかもが許される絶対的な愛、あるいはその下の無償の愛に対して、傲慢になるのは愚かな生き方です。


熊沢被告も奥様も長い間とても辛かったと思います。

私の家族も何度も何度も、警察やケースワーカーに相談をしました。

しかし相談をすればするほど母親への暴力は増していきました。

そんな中で私は妹の土地勘のないところに母親を連れ出すしかありませんでした。

外部からの介入には、やはり限界があります。

本当にこの事件は人ごとではありませんので熊沢家族には同情しかありません。


今回母が亡くなって、死についてもいろいろなことを学びました。

此岸から彼岸に見送る時に、私たち此岸の人間の役割はとても大切です。

この俗世でたくさんの苦しみに会い、一生懸命神と共に生きてきた人間が神から離れた後に、どこに行くかがとても重要です。

母にはできれば菩薩界まで行ってもらいたいというのが私の願いです。

そのように今一生懸命供養しています。

此岸の人間の願いはとても大切です。


田舎に引っ越してきて、初めて避難勧告レベル5を経験しました。
ハザードマップでは大丈夫な地域とはいえ天災はやはり怖いものです。

私は先月から母親の看護の為に仕事を休職しました。
チベットのお坊さんにおっしゃって頂いた天職を、母親のために使う日が来るとは、とても有り難いことなのですが、やはり誰にも助けてもらえず、一人で在宅の看取りをするのは地獄です。

本当は多少仕事をしながら、弟の助けを借りて、自宅で看取れればいいと安易に考えていました。
ところが母親からすれば、介護をしたことがない弟に来てもらうことをとても嫌がり、弟ももう来ないと怒り、結局私は会社を休職し、一人で看ることになってしまいました。

母の病気は呼吸器の難病です。
現在は終末期で、呼吸器の終末期はがんよりも辛いと聞きます。
先日、あまりにも苦しそうにしているし、薬も飲まなくなってしまったので、訪問診療の医師に緩和ケアに切り替えてほしいと相談したのですが、モルヒネを使うことはしたくないと言われ、筋弛緩薬の少量入った睡眠薬で様子見しようとのことで、結局中途半端な緩和ケアのために、何度も転倒し、仕方なく緩和ケアも諦め、元の治療に戻し、苦しみに耐えながら心臓が止まるのを待つことになりました。
せん妄の症状もだいぶ酷くなり、夜も私が寝ようとすれば30分おきに呼ばれてしまうので、完全な睡眠不足状態です。
私は子供の頃からの持病で群発頭痛を持っています。 別名自殺頭痛とも言われる酷い頭痛で、ストレスからその再発もあり、私も苦しみに耐えています。

生きることは辛いことですが、死ぬ間際までもが辛いと、生きることの幸せとは何なのか、カルマとはいえ、こんなに可哀想な人生って酷いと感じてしまいます。

私が見てきた母親の人生は、サイコパスの夫に暴力を振るわれ、サイコパスの妹に虐待、監禁され、やっと救い出したと思ったら、既に肺の難病で医師から治せないと言われ、私の出来ることは、苦しみながら死んでいく母親を、自宅で見守っていくしかありません。
お母さんにとって、この生のカルマは相当苦しみに満ちたカルマだったんだろうなと思います。

肉体(心臓)が消滅すれば、少しは楽になれますが、次は死のカルマが待っています。
死んでそこで終わりではなく、自我だけになった状態の方が、重要なのではないかと私は考えています。

真我は生と共にいるその役割を終えると、違う次元へと帰っていきます。
でも自我は真我のような崇高な場所には行けませんから、自我は死後、行き先を決めなければなりません。
どうもすべての人を見てみても、我欲が強くって、闇(ちょっとした地獄)とか、幽界をさまよってみたり、誰かにとりついてみたり、周りを見回しても、ロクな死に方をしてないなぁというのが私の感想です。

かといってお母さんも信仰が無い人なので、迷ってはしまうのではと感じてしまいます。
信仰があれば天界に行くというわけではありませんが、こればかりはそれぞれのカルマですので難しいところです。

まだ肉体がある時は、どんな内臓の病気であろうと、事故で肉体を損傷してしまっても、生への感謝と真我(神)が常に共にいて見守ってくれていることはとてもありがたいことです。

ただ真我との別れが来たときに、自我は残りますから、その後の自我の行く先をどうするかです。
自分が思い描いているような天国に行ける人はどれだけいるのでしょうか。

例えば私の母親で言えば、病気の苦しみや諸々のことから、物凄い悪霊の憑依を受けていますので、どんなに私が一生懸命に看病しても、罵る言葉しか返ってきませんし、感謝の言葉すら言われません。
私も少しでも憑依がとれればなぁと色々と試してみたのですが、今度は憑依を取ると肉体の苦しみに耐えられなくなるようで、憑依されてるからこそ、ある程度の病気の苦しみから解放されているのだとわかったときは、そのままの方が本人にとっては楽なんだと感じました、
これから肉体が健康になっていくわけでもなく、精神病でも苦痛を味わっていく最後になり、死後もその自我でしばらくはいなくてはいけないのかと思うと、やはり悲しいカルマを想像してしてしまいますが、先に死んだ私のおじいちゃんや、おばあちゃん、おじちゃん、おばあちゃんがどこまでたすけてくれるかです。

今回の母親の看取りのことで、結局は在宅にしても、施設にいても、現世の最後の地獄を味わって死んでいくんだということがよくわかりました。
死後の行き先はわかりません。その人のカルマと人生と憑依の度合いにもよりますので。
出来ることなら、本当の死に際には憑依を解いて見送ってあげたいと思います。
そして出来るだけより良い場所で次の生まれ変わりが待てたらと考えています。




世間では最近は闇ブームです。
闇営業や、大手芸能事務所の闇、ゆうちょの闇、ハラスメントの闇など、色々な闇が浮き彫りになってきました。

私もこの現世に生まれてきて沢山の闇も見ましたし、自分も闇だから自我をもって、そのカルマで生まれ変わってきたんだなぁと実感させられます。
この現世では光という存在は皆無で、必ずみんな闇をもって生まれて来ています。

そしてこの現世で最も深い闇が我欲です。

母親の愛情とも呼べる無償の愛や、困ってる人達に何かをしたいという欲は、たとえエゴだったとしても、それは闇の欲ではありません。

しかし我欲は違います。
我欲は自分のことしか考えていません。
他者のことを考えているようにみえることでさえ、我欲があれば闇となります。

例えば自分の主張をわかってほしい、自分の崇拝していることを理解してほしい、自分のために動いてほしいと、そこに『私』というキーワードがあれば、我欲の闇に落ちていると解釈しなくてはなりません。
たとえ他者のためにやっていると自分が思っていることでもです。

私達の本来の目的は、自我(エゴ)の中でも我欲を消滅させるために生まれてきました。
その学びのために無償の愛だったり、無償の奉仕をするのが神(真我)に比較的近いとされる人間という生き物です。
そしてその行為はカルマ(自我)の最終段階の学びとなります。

神に『私』はありません。教祖でもありません。
我欲を消滅させたものが、より悟りに近づけるのではないかと感じます。
我欲を消滅させるというのは、自殺をすることではありません。
自殺をする者は『私』をわかってほしいと強く願ってやまない者がする行為だからです。

我欲は非常に厄介で迷惑な自我です。
『私』も我欲のない人間になりたいと日々学んでいます。

毎日暑い日が続いています。
田舎はヒートアイランドも無いので、本当に雨が降らなくて、雑草も枯れてしまってます(^^;

6月くらいから、もともと難病を患っていた母親の体調が急激に悪化し、先月には死を迎えるかという状態でしたが、今月に入りややもちなおし、現在私は仕事をセーブしながら母の在宅介護をしています。
最後は自宅で看取ってあげるつもりです。

私は福祉系の国家資格や公的資格、民間の資格に至るまで色々と持っていますので素人ではありません。
ただ医療、福祉の世界は、様々な人間の最後の姿を見ます。
この現世の最後をまざまざと見せつけられます。

何度もこの仕事を辞めたいと思いました。生きる苦痛はまだしも、病気や老いや死にゆく苦しみ、そしてそれらによって家族に捨てられてゆく人々の苦しみを見るのは辛いと感じました。

私は一度、チベットのお坊さんに相談したことがありました。
私がどんな仕事をしているかを告げないで「私は今の仕事を辞めて悟りの道を歩みたいです。例えばチベットに行くとか、別の場所でも」と言いました。
お坊さんの答えはこうでした。
「あなたは今の仕事を辞めてはいけません。職場は変わっても職業を変えてはいけません。そして今の仕事は晩年までやり続けなさい。今の仕事はあなたの天職です」と言われました。

それを言われたとき私は非常にショックでした。でもお坊さんの仰ったとおり、自分の身体が動けなくなるまで続けたいと思います。

全ての生きものは、カルマによって現世の時間が決まっています。
心臓が止まることにより、真我は肉体を離れ、それによってこの生での一つの修行が終わります。
例えどんな苦労や困難、病気などの苦しみがあろうと、この現世のカルマを必死に生きぬくことはとても大切なことです。

私は脳死を人の死とすることもいけないことだと思いますし、自殺や安楽死は最もしてはいけないことだと思っています。
生の苦しみや病気の苦しみでそのように考えてしまうのは仕方のないことだと思いますが、それを行動に移してはいけません。
カルマを全うできないからです。

この現世は強く、謙虚に、そして真我と共にいられる生に対し、感謝をもって生きていくことが、カルマにとって一番良いことなのではないかと考えています。

お釈迦様が仰っているように、悟りはありませんし、この現世に生きるものが神(真我)になることもありません。

この現世の最後は全てに感謝し、死を迎えることができれば、それが一番幸せなことなのではないかと思います。

先日心愛ちゃんのお母さんの判決を受け、心愛ちゃんの身体的だけでなく性的虐待があったことや、毎日が地獄だったというメッセージが明るみに出ました。

私も子供のころ父親から同じような虐待にあっていたので、どんな家庭環境だったかは想像しなくてもわかります。

今は虐待の定義も増えました。
以前は虐待とされなかったことさえ、今では虐待になるものもあります。
ネグレクトなどは昔は虐待の定義にはなかったと思います。

私も父親から性的虐待にあっている時、母親はそれを横目で見ながらニヤっとしていました。
私はどうして助けてくれなかったのかと問い質すと、遊んでいるんだと思ったと言ったのです。
信じられない答えでした。
身体的暴力にあっていた時も助けてくれなかったので、今でしたら虐待の定義に値するでしょう。

私は前にブログでサイコパスと虐待について書いたことがありましたが、いじめや虐待は必ずしもサイコパスだけが行うものではありません。
普通の人が自分を守るため、あるいは面白半分でいじめや虐待は行われます。
虐待を受けた仕返しの虐待もあります。
立場が弱いと判断した者への虐待もあります。
心が弱ければ負の連鎖は確実に起こります。

私が前にインド政府公認のヒマラヤ聖者と謳っている人に帰依していたころの実話です。
この人は愛に関する本をものすごく沢山出版している人で、自分は愛の聖者で神の愛になったと、本人も言っていましたし、書籍にもそのように書いている人です。
ですが実際にはその本人(聖者)が弟子に対する虐待があり、その反動で弟子はお金の無い帰依者に虐待をするという負の連鎖が起きていました。

このような愛を謳っている聖者でさえ、自分の身を守るための虐待を行うのですから、普通の人間が虐待を行わないであろう保証はどこにもありません。
だからたとえ聖者であろうと、この世界に転生してきたのには、それなりの理由があり、聖者であろうと罪人には変わりないのです。

高齢者施設や障害者施設でも虐待の連鎖は起こっています。
高齢者や障害者本人が気づいていない虐待を職員に対して行い、虐待を受けた職員は高齢者や障害者に虐待を行う、それが心理的虐待かもしれませんし、ネグレクトかもしれません。
身体的虐待になれば、高齢者や障害者が職員に対して行っても犯罪にはなりませんが、職員が高齢者や障害者に行えば刑事事件になります。
どちらにしても負の連鎖から起こるものです。

心理的虐待などは、虐待を行う本人が気づいていないケースが多々あります。
しかし虐待を受けた本人は強いストレスを感じます。
心が強くない者は、次の者へと虐待を行います。
心が弱いということは、それだけ愚かな行為に走る原因となるのです。

誰もが強い心を持つというのは無理だと思います。
真理を知った者でさえ、強いストレスを受ければ、あるいは自分を守らなければと思った時点で、弱い心に負けてしまうのです。
なかなかイエス・キリストのように、強い心でいるのは難しいと思います。

ですが私達は凡人なりに、少しでも強くありたいと思うのは、この世界に転生してきた学びのひとつです。
どんなに酷い虐待を受けても、決して折れない強い心を持つ努力はとても大切なことです。


平成が終わり、新たな元号「令和」が始まりました。
昭和から平成に変わるときは、昭和天皇が亡くなられてからの移行でしたので、とても騒ぐ雰囲気ではありませんでしたが、今回の新元号移行はお祭り騒ぎでした^_^

令和という時代、世の中が今までのことを色々と考えさせられ、新たに次に向けて根底から変わろうとする時代になると思います。

日本では仕事面で人手不足が深刻な問題となっていますが、ここを解消すべく、IT化はどんどん進むでしょう。
人を雇わなくても会社は回っていく時代がやってきます。
つまり人間が時間に追われて働く時代は無くなっていくのです。
人が働かないということは、人間関係も希薄になります。
人間同士のコミュニケーションがさほどいらなくなるからです。
そうするとさらに人口は減少していきます。
人間が減るということは、自然が増えることに繋がり、地球温暖化の解決策にもなりますので、決して悪いことではありません。

うつ病を発症する人も減ってきます。
なぜならそれらは全て人間関係の苦しみからくる病気だからです。
麻薬や覚醒剤を使う人も、引きこもりも減ってくるはずです。

アドラーが言うように、全ての悩みは人間関係の悩みです。
IT化が進み、仕事も減り、人口も減り、学校も無くなり、自由に学べるようになれば、いじめやパワハラ問題は無くなっていくでしょう。
人々が仕事や人間関係に追われるという苦しみから解放できれば、大自然の力を借りて、少しずつ内面を見つめる時代がやってくるのかもしれません。

少子高齢化問題はどうでしょうか。
少子化についてはとても良いことだと思います。
戦前のようなお国のために産めよ増やせの時代は終わりました。
今は老人のために産めよ増やせよと言っていますが、そのような考えに幸せな未来はありません。

これから仕事は人間がいらない世界になっていきます。仕事が減っていくのですから、収入も減ります。どうやって老人を支えるのでしょうか。
若い人たちが高齢者を支えられなくなるということは、姥捨山ならぬ介護施設に預けるということもできなくなっていきます。
そうすれば家で看取るしかなくなります。
1人の収入が減り、核家族で生きていくのが難しい時代がやってくると、家族が寄り添わないと生きていけない時代がやってきます。そうなれば老人を家で看取ることは可能です。

外の世界に何かを求めて生きてきた人にとっては、これからの時代はとても生きにくい時代になるかもしれません。
しかし私は世の中がとても良い方向に動き出しているように感じるのです。
平成に数多く起こった天災も、地球があるべき姿に戻ろうとした地球の意思から起こった出来事です。
私たち人間は、地球の意思をもっと尊重しなければいけません。
それを無視して生きてきた結果、平成の天災となって現れました。

一人一人が自分の真我と全ての地球と宇宙の真我と生きる、令和という時代はそんな素敵な時代になってほしいと思います。


平成という元号が始まったときに、「平」という文字を使うのは不吉だと言われていました。
過去に「平」という文字を使った元号の時期には災いが多かったからです。
そして平成はそのようになってしまいました。
今回の「令」という字はどうなのでしょうか?
何となくですが、これからの冷えきった寒い日本の冬の始まりを象徴する文字にも思えます。

しかしバブルの頃のように浮かれたところがないというのは決して悪いことではありません。
算命学などでも、12年周期のうち寒い冬の時期には勉強を勧めています。
真理の学びも寒い冬の時期にするのはとても良いことです。

世の中にはスピリチュアルを謳った学びと称する団体は数え切れないほどあり、どの組織も自分達の教えが本物だと躍起になっていますが、実際には本物の教えは外の世界にはありません。

真我こそが本物の教えであり、これは言葉にはできないものですし、他者が教えられるものでもありません。

冷えきった日本で、これを学ぶ良い機会になればいいなと思います。
今まで真我について多少書いてはきましたが、本当の真我とは何かということは、多分一般には理解されないだろうというのもあり、真我だけには触れてきませんでした。
それはラマナが真我について、あれほど分かりやすく伝えているのに、理解できないという人が多かったからです。

世の中のスピリチュアルを謳っている人は特にですが、真理について間違った解釈をしていることが多く、また覚醒をし過ぎた聖者は、真理よりも自分を売り込むことや超能力を得ることに躍起になり、真理から離れてしまったために、弟子達に真理が伝わっていないのではないかと感じてしまいます。
本当の聖者というものは、本を書いたりしません。イエスは真理について言葉で伝えていますが、弟子やその弟子の自我が書いていますので、やはり正しくは伝わっていないようです。

魂(真我)の本質は「愛」です。
愛と言っても様々な愛がありますが、愛の中でも最上級の「全てが許される絶対的な愛」です。私達に内在する魂はそういうエネルギーでできています。
そして聖者はそれを「神」と言います。
この世界や宇宙はそのエネルギーでできています。
この魂というエネルギーは、決して汚れることはありませんし、覚醒することもありません。
ただただ純粋で普遍で永遠のエネルギー、それが魂(真我)の本質です。
このエネルギーは生命の全てに内在していますし、人間が生命と感じていない石などの物質にも内在しています。
人間や植物や動物だけに内在しているものではないのです。
魂(神=真我)は全てに内在しています。

私たち人間が頑張って一生を過ごす時間はとても長いものに感じたり、幼くして亡くなってしまった子は短い一生だったと感じるかもしれませんが、魂(真我)からすれば、人間のどんなに長い一生も、線香花火が一回弾けるよりももっと短い、正確に言えば時間という概念自体がありません。
時間という概念は、物質的なものなのです。

イエスが一番伝えたかった、絶対的な愛は、覚醒した聖者だから理解できたものであって、それを言葉で伝えようとすれば、それぞれの自我によって解釈が違ってしまいますから、とても難しいことなのに、多くの人の自我を救っているのは、サハジャの聖者でないと出来ないことなんだとつくづく思います。

魂の本質を理解することができれば、スピリチュアルというものに騙されないようになれるのですが、それが理解出来るようになるのも、自我の最終段階かもしれません。
聖者といわれる人には色々なタイプの人がいます。
厳しいと修行をして、何度も生死を彷徨うような臨死体験を繰り返しながら覚醒をする人や、ラマナのようにある日突然覚醒が起こるような人もいます。
どちらも覚醒には変わりありません。

深い覚醒に入ると、真理を知るきっかけになります。
それを何度も繰り返せば、超能力的な力を得ることもできます。
本来は超能力を得た時点で、非常に自我が強くなり、自己顕示欲も強くなりますので、臨死体験での覚醒は私はおすすめしません。
このような形で覚醒した聖者は、人々を苦しみに陥れる聖者になりかねないからです。

私が以前ご縁があった人で、インド政府公認のヒマラヤ聖者という名目でヨガや瞑想を教えている人がいたのですが、その方はとても厳しい修行の末にサマディに達した人でした。
その人のアシュラムでは私が通ってた当時、ものすごい借金があり、弟子たちはお布施を集めるのに躍起になっていました。地位、名誉、財産のある人を紹介してほしいと常に言っていました。
やがて弟子たちはお金がない帰依者を虐めるようになり、お金のある人とない人を差別するようになりました。
例えば1週間の合宿修行というものがあり、費用は数百万円します。それを何回も受けろと言い、それが支払えない帰依者は虐めの対象となっていました。
帰依者の中には数千万円を普通に払える人もいますので、その帰依者は特別扱いされていました。

私は虐めがあることはおかしいと訴えたところ、その聖者に呼び出されて、「この私があんたなんかと、こうして二人で話すこと自体が奇跡ですよ」と第一声で言われました。
その言葉を聞いた時、この人(聖者)はダメだと瞬時に思いました。
この人が弟子たちの心を病ませている元凶だったのです。

オウム真理教もそうでしたが、自己顕示欲の強い聖者はバクティ・ヨガと称して師に絶対的な帰依を強要します。
麻原もそうでしたが、本を出版したり、テレビに出演したりと、自分を世間に売り込むのが大好きなのが、この聖者の特徴です。
覚醒に執着しすぎた聖者は、このような行動で、弟子や帰依者を苦しめる場合があります。
これは覚醒を繰り返すことによって、非常に自我が強くなってしまい、ラマナのように真我と一体となることができなかった人(聖者)だと思います。

ラマナは「私とあなたは何が違うのだろうか、なにも変わりはしない」と言っています。
この言葉こそが真我と一つになった本当の聖者の姿です。

「この私があんたなんかと」ということは、私とあなたは違うのだと言っています。つまり真我とは一つにならず、強い個の自我だけで生きているということです。
これが繰り返す覚醒のもたらすものです。

真我はこの世界の万物に内在し、個の真我というものは存在しません。
真我の本質は絶対的な愛であり、究極の愛です。
純粋な心と良きカルマがあれば、覚醒をしなくても真我と一つになれます。
真我と一つになりたいと強く願うのです。
そのための修行の場がこの世界です。
真我といられる今しか、真我を学ぶことはできないのです。