先日、私の母親が亡くなりました。
最後はとても苦しみながら亡くなっていきました。
あんなに優しくて、明るくて人の何十倍も苦労したお母さんが、なぜこんなに苦しんで死んでいかなければならないのかというのが実感です。
お母さんの口癖は「許しなさい」でした。
どんなに酷いことをされても必ず許していました。
今、元農林水産省の熊沢被告の事件についてよくテレビで報道されていますが、この事件は私にとっても人ごとではありません。
私の家族も同じ境遇にあるからです。
テレビで報道されている長男栄一郎は、私の妹の存在とよく似ています。
私の家族は母親が高学歴で、国立大学を出身した後は、社会的にも地位のある仕事についていました。
妹は中卒できちんとした職業には就けませんでした。母親に対する劣等感もあったのかもしれません。
妹は私の縁談に対しても酷い事をしてきました。
縁談相手の会社に嫌がらせに行ったり、結婚したらお前(彼氏)の家に放火してやるなど数々の嫌がらせをし、ことごとく私の縁談は破断となりました。
そのことが原因で私も自殺未遂をしたことがありました。
今回熊沢被告の娘さんが自殺してしまった事はとても残念でなりません。
私がこの俗世で学んだ事は、信仰はとても大切だということです。
どんなにつらく苦しいことがあっても神は絶対に見離したりはしません。
神(真我)と共にいる限りは何度でも愛を学べる機会があるのです。
しかし、新興宗教やカルト宗教に邁進してしまった人はとても残念です。
そこでしか救いの道が見つけられなかったと言うのは、とても残念でなりません。
よく人は神はいるのかいないのかと問いをしますが、そんな質問はまったくもって愚問です。
神に生命を与えられ、神の絶対的な愛に包まれ、すべてを許されながら生きているのに何と言うことを言うのだと、その傲慢さに驚かされます。
生きていれば神は見放すと言う事は絶対にしません。神(真我)は全てを許す絶対的な愛からできているからです。
そして心臓が止まるその時まで、見放すということは決してありません。
何もかもが許される絶対的な愛、あるいはその下の無償の愛に対して、傲慢になるのは愚かな生き方です。
熊沢被告も奥様も長い間とても辛かったと思います。
私の家族も何度も何度も、警察やケースワーカーに相談をしました。
しかし相談をすればするほど母親への暴力は増していきました。
そんな中で私は妹の土地勘のないところに母親を連れ出すしかありませんでした。
外部からの介入には、やはり限界があります。
本当にこの事件は人ごとではありませんので熊沢家族には同情しかありません。
今回母が亡くなって、死についてもいろいろなことを学びました。
此岸から彼岸に見送る時に、私たち此岸の人間の役割はとても大切です。
この俗世でたくさんの苦しみに会い、一生懸命神と共に生きてきた人間が神から離れた後に、どこに行くかがとても重要です。
母にはできれば菩薩界まで行ってもらいたいというのが私の願いです。
そのように今一生懸命供養しています。
此岸の人間の願いはとても大切です。
