初めて自分のカメラを持ったのは小学校の時。父親から貰ったキャノンのAE-1だった。
たまたま実家の庭に来ていたエゾリスの写真を撮ってコンテストに応募したら優秀賞を取った。
将来カメラマンに成りたいと誰にも言わずに思っていた。
やがて中学生になり、ベースを始め、音楽に夢中になっていた。写真なんて撮らなくなり、バンドばかりやっていた。
高校も同じ。時間があれば楽器を弾き、晴れたらスケボーで遊び、冬はスノーボード。
当時はまだボードが今程盛んじゃなくて、禁止のスキー場も多かった。
大学に入り、今度は休みの度に一人で海外に出るようになった。
最初に一人で行ったのはマレーシア。そこでその後の人生が変わった。たまたま現地の友人に誘われて行ったカジノで大勝ち。現地でPENTAXのカメラを買った。
次に台湾。地震の後で、被災地に入った。崩れた建物、沢山のテント。バスは不通で、ヒッチハイクで被災地に入った。

当時のカンボジアは危険だった。街中ではしょっちゅう銃声がなり、政府軍と武装勢力の衝突もよくあった。
私は情報省で記者証を取り、地雷原、政府軍を撮って回った。
カンボジアを抜けてタイ、ラオスに行った。
次の休み、向かったのはミャンマー。

非常に安全な国だった。人は親切で、疲れる事の無い国。今でも私の好きな国。
大学4年の夏、東南アジアはベトナムとフィリピン以外行き尽くしたため、当時タリバンの統治下にあったアフガニスタンにパキスタンから陸路で入国しようかと思っていたが、アメリカがアフガニスタンに攻撃を始めたため、国境は閉鎖された。
代わりに選んだのは南米。ペルーとボリビアを2ヶ月かけて回った。

マチュピチュを見学し、色々回ってボリビアに抜けた。
印象に残ってるのはウユニ塩湖。とにかく寒かった。標高4000mの風を遮る物も無い。一面白い地面で空が水に映っていた。
遺跡も沢山回った。

とにかくアンデスの空は青かった。
大学卒業後、私はアイルランドに留学した。

半年で語学学校の上級クラスまで終了し、現地で写真の専門学校を探したが、見つからない。イギリスに行かなければならなかっため、帰国を決意した。
学校を終えると留学中の友人を頼ってまずはチェコに向かった。

綺麗な街だった。どこ撮っても絵になる街。
続いて向かったのはスイス。なぜか留学中はスイス人グループの中に一人私は入っていたため、友人が沢山いた。

まるで同窓会のような毎日。気づくと1ヶ月もスイスにいた。
帰国後、札幌で専門学校に通った。後にそこで非常勤で講師をする事に成るなんて夢にも思ってなかった。
進級制作のために再びミャンマーに飛び、人々の撮影をした。

そして卒業制作も再びミャンマーに飛んだ。テーマは水上生活をする人々のドキュメンタリー

卒業後、すぐにフリーのカメラマンになった。
芸能関係、ライブ、ファッション誌、料理の撮影、記者会見。なんでも食べて行くためにこなした。嫌いな結婚式の撮影もした。
3年後、母校の専門学校から講師をお願いされた。教えたのはデジタルフォト、暗室技術、写真基礎、取材撮影。
比較的順調なカメラマン生活だったが、実家を継ぐために仕事をやめた。すごく辛い決断だった。
辞めた後は1年程カメラを持つ事はなかった。持つと辛いからだ。
手元には仕事で使っていたNikon D3と大型ストロボなどの機材はあるが、ほぼ使う事は無いが、手放す事ができない。まだ未練があるのだろう。
好きな事は仕事にすべきじゃないとカメラマンの時に思った。仕事以外でカメラを持つ事がなくなったからだ。仕事で使うデジタルの反動でフィルムで撮り、白黒をプリントしたくなり、学生の時に好きだった廃墟撮影を再び始めた。
そこはプロとして人と同じ事はやりたくない。思い浮かんだのは大型カメラ(黒い布を被って撮るカメラ。フィルムはハガキサイズで、建築写真で使われている)で撮影する事。後に赤外線写真を使い始めた。
大型カメラでの撮影はすごく大変。機材だけで20kg超える。廃墟撮影、特に冬場はこの機材を背負っての道なき道のラッセルと登りは想像以上の厳しさだった。何度も自分の選択に後悔した。
仕事を辞め、2年経った今、ようやくカメラを手にし始めた。また撮影したいと思い始めた。次はどこに撮影に行こう。

