覚醒しても見た目の世界はこれまで通り続いていくし、アセンションしても今のところは見た目の世界はやはり変化はない。それでは、覚醒以前とは何が異なるのか。
私の場合、いわゆる一瞥体験もないから、覚醒前後で意識レベルの数値が多少跳ね上がった現象はあったとはいえ、長い時間をかけて徐々に変容を遂げてきた感じが自分でもする。だから、覚醒数か月前と今を比較してもたいした違いはないように思うのだが、大昔と比べれば内面的に明らかに変化している点があって、それは「マインドを使うのが面倒」に感じる点である。
今では「マインドを使わない状態がデフォルト」なのである。表現が難しいのだが、がっつり重たい思考はもう面倒くさくてできないのである。もちろん、今でも思考(1次的な思考)や雑念は外部(全体性)から私というスクリーン上にやってはくる。しかし、それをきっかけとしてマインドによる思考(2次的な思考)をするとしても、軽い思考なのである。
そして、マインドがある程度静まっている瞑想的な状態からだと、「マインドを起動する」のが重たい処理に感じられる。だから、例えば、ありがとう行を始めたり、読書することさえ、多少面倒である。覚醒以前は毎日のように非二元の本を読んでいたのだが、今はほとんど読むことがない。読む必要がなくなったと同時に、結構面倒なのである。
マインドが静まって思考や雑念がほぼない無思考状態、内面が静寂な状態になったとする。この状態になってもなお五感を通して、自分というスクリーン上に現れる現象を認識することができる。マインドを通して世界を知覚していたような気がしていた人もいるかもしれないが、実はマインドを通さなくても世界を知覚できるのである。そしてその時、知覚している主体を「意識」と呼んだりする(翻訳書だと「気づき」という訳語が定着してたりするが、元々は少し変な訳語に感じる)。
自分の思考・感情を観察するサーダナ(霊的修行)をやっていると、最初は思考・感情こそが自分そのものだと思っていたのに、それを観察する人がいるんだなあ、という気づきが得られる人もいる。「自分を観察する、もう一人の自分」というやつ。それが、さきほどの「意識」。そして、この「意識」は「全体意識」「普遍意識」などとも呼ばれる。実は全ての意識はつながっているから。
要するに「マインドという個人意識的なもの(エゴ的なもの)が消えた状態では、全体意識が現れる」のである。この全体意識のみになった状態で感じるものを「平安」と呼ぶ(内面の平和)。これは「幸福」とかとは異なる、静かな静かな安らぎであり喜びであるようなもの。ひたすら心穏やかな状態。モノを手に入れた時などの一時的な喜びや幸せが+-の軸上でプラスに振れた時の状態なのに対して、平安はゼロ状態。プラスマイナスに振れる振動が収まった状態。ゼロ状態なんだけど、それを包んでいる全体性が絶対の愛だから心地良いというイメージ。
さきほど、「マインドが消えた時に、全体意識が現れる」と言ったんだけど、そのように感じられるというだけであって、実は常に全体意識は存在しているのである。だから、いつも「いまここ」に全体意識(=愛=光)はある。マインドが邪魔して、それを感じられないというだけで。邪魔な雲がどけば、そこには太陽が見えるのだが、実は雲が遮っていてもその向こうにはいつも太陽は存在しているのと同じである。
世間で言われている「あなたはすでに愛の中にある」というのは、そのような意味合いであろう。個人意識という雲の向こう側には、常に全体意識という太陽があり、それは既にいまここに存在していると。求める前から既にそこにある。しかも、非二元的には個人は存在していないということだから、最初から全体意識しかない。なかなか、そうは思えないだろうけど(笑)。
前提の話が長くなったが、以上のような理由により、覚醒を目指す人たちは瞑想等により「マインドを鎮める」ということを試みるのである。また、サーダナとして瞑想を奨める覚者がいるのである。覚醒するということは、全体意識が現れる(全体意識が全体意識に気付く)ことである(ただし、段階はあって、意識レベルや次元によって全体意識の割合のようなものが違うとのこと。11次元でも全体意識100%とはならないらしい)。そして、それはマインド的なもの、エゴ的なもの、個人意識的なものが消え去った時に起きるのである。
ただ、我々が「瞑想」という言葉から思い浮かべる、通常の座って目を閉じてやる瞑想は普通の人にはなかなか続けるのが難しい。私も覚醒以前では最長45分の瞑想しかやったことがないし、その1回の45分を除けば後は全て25分以下というくらい。これが普通にできるという人はそれをやればよいのだが(できる人は瞑想の才能がある)、できない人は別の方法でもよい。「マインドを鎮める」のが瞑想なので、その目的を満たせる方法なら、通常の瞑想でなくてもよいのである。世の中には「気づきの瞑想」とか「歩く瞑想」というのもある(自分で調べてね)。
私は個人的に目を閉じる方が雑念が湧いてくる感じがする。目を開けて何かを見ている方が無思考状態をつくりやすい。だから、私のお奨めの方法は、「目を開けた状態で風景なり、街や電車の中の光景なりを見て、その状態で数十秒~数分程度の短時間の無思考状態をつくる」方法である。最初は30秒でもいい。それが無理なら15秒程度でもいい。15秒なら雑念なしに目の前の光景を見ることができるだろうか。この時、目の前の光景を「言葉に変換してはいけない」。いちいち言葉を差し挟まない。形容詞とか、感想とかはいらない。ただ、観る。ただ、感じる。自分というスクリーン上に外部から思考・雑念・言葉などがやってきたら、瞬時に切り離す(よく通常の瞑想で、雑念が湧いたらその雑念をただ眺めるようにするとか言うと思うけど、自分の思考・感情の観察ができるレベルであれば、瞬時に切り離す方がよいと思う。雑念が大きく育つ前に、知覚した瞬間に芽を摘むということね)。
この方法は最初は数十秒程度の短時間で構わないのだが、その代わりに、とにかく実践回数を多くする。はっきり言えば1日中やっているような感じ。それは言い過ぎとしても、マインドを使わなくても済むようなシチュエーション(散歩中、電車の中等)ではできる限りこれをやる。最終的にはマインドが静まっている状態が定常状態になるのだから。
瞑想のような型にはまった修行らしい修行のようなものは、張り切ってやると悟りから遠ざかるとも言われているので、その点は注意。悟りへの探求は悟りを目指す個人がいるという意識を強化してしまう、つまり個人意識を消したいのに個人意識を強化してしまうという面があるのである。
マインド(個人意識)が消えた時、あれほど求めていた究極の安らぎ(全体意識)が現れるのだが、それを求めているのはマインドである。従って、マインドが探求している限り、求めているものは見つからないという、究極のかくれんぼというカラクリである。
その辺りの話は、過去記事「覚醒に向けた意識レベルの向上のために(5)」を参照していただきたい。
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