十字架はキリスト教のシンボルである。キリスト教は多くの宗派に分かれているが、これだけは各派とも共通している。教会の建物は、尖塔の上の十字架が目印だ。建物の形が十字をしている場合も多い。礼拝堂の正面には、十字架や十字架上のキリストの像が掲げられている。礼拝で祈る時は信者は十字を切る。アクセサリーでも、十字架がデザインされたものを身に着ける人が多い。

よく考えてみれば、十字架はイエスが磔の刑に処せられた時の恐ろしい刑具だ。世界中に様々な宗教があるが、教祖を処刑した刑具を、信仰のシンボルにしているものは他にないだろう。十字架の上の死は、イエスの敗北を意味しない。イエスは人間の罪を一人背負って無実の罪で処刑され、死に打ち勝ち復活したからこそ救い主キリストなのだという信仰が、キリスト教の根本にある。

「最後の晩餐」で述べた通り、イエスは聖書（旧約聖書）に従い、ユダヤの信仰を本来のあるべき姿に戻そうとして、ユダヤ教の守旧派を痛烈に批判し恨みをかった。祭司たちは邪魔者のイエスをなきものにしようと、機会を狙っていたのである。しかしイエスの人気が高かった時は、民衆の反発を恐れ手が下せなかった。だが民衆の期待が失望に変わりつつあるのを知って、行動に出た。

捕縛され大祭司ｶﾔﾊﾟの前に引き出され尋問されるｲｴｽ

「お前は神の子、ﾒｼｱ（救世主）なのか」

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当時のユダヤはローマ帝国の植民地。皇帝が任命する総督に裁判権があった。祭司たちはイエスが「イスラエルの王」と自称している事に目をつけた。イエスを暗殺するのではなく、イエスをローマ帝国への反逆者として総督に告発する戦術を取ったのだ。もちろんイエスには、ローマへの反逆の意図はない。ローマによる課税も可とした。「カエサルのものと神のもの」で述べた通りである。

告発を受け、総督ピラトはイエスを審問したが、有罪とする根拠を見いだせなかった。むしろ祭司たちの妬みによる告発だと見抜いた。毎年の過越の祭で犯罪被疑者を特赦する慣例があったので、イエスを釈放しようとしたが、祭司たちに扇動された群衆は、特赦は強盗犯バラバとし、イエスは十字架につけよと口々に叫んだ。騒ぎが大きくなることを恐れ、総督は万策尽きて有罪を宣告した。

（Antonio Ciseri作「この人を見よ-ｲｴｽを審問するﾋﾟﾗﾄ」1880頃）

これが聖書が記すイエスの受難物語の前半だ。イエスを断罪したローマ総督ピラトに、聖書は好意的である。悪いのは、ユダヤ教の指導者と扇動された群衆だとする。キリスト教はローマ皇帝の迫害を耐え抜き、４世紀には信仰を公認され、さらにはローマの国教にさえなる。だから聖書がローマに好意的なのだとの説があるが、正しくはない。聖書は迫害のさなかに書かれたのだから。

死刑判決を受けたイエスは、重い十字架を背負わされ、ゴルゴタ（されこうべの意）の丘で十字架につけられ、その日の午後３時に十字架上で息絶えた（マタイによる福音書第２７章）。イエスが十字架を背負って歩いた道は、エルサレム旧市街に「ヴィア・ドロローサ」（Via

Dolorosa、ラテン語で「苦難の道」の意）として残されているので、イスラエルを観光する方はぜひ歩いてみてほしい。

（写真：Via Dolorosa ｲｴｽが処刑前に引き回された道）

ゴルゴタの丘は、人里離れた寂しい荒野を想像していた。ところが実際の位置は、エルサレム旧市街のど真ん中である。キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝により、刑場跡に聖墳墓教会が建てられ、観光客で賑わっているを見て、いささか興ざめだった。でもここは、世界中のキリスト教徒が一生に一度は巡礼で訪れたいと願う一番の聖地なのだから、やむを得ないとも思った。

聖書には、十字架の上でのイエスの苦渋の言葉が、いくつか記されている。中でも一番心を打つのは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」（わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか）であろう。贖罪（しょくざい）の死を覚悟していたとは言え、イエスもこの世に生きた人である。自分の使命を知りつつ、死を前にして悲痛な叫びを発したのだ。イエスは神の子であり、そして人でもあった。

（補遺）　イエスが死んだのは金曜日、つまり今日である。金曜日はキリスト教の断食の日であり、現在でも敬虔な信徒は肉を食べない。オクスフォード大学の学寮では、金曜日の食事は魚料理だ。「１３日の金曜日」を不吉な日とするのは迷信であり、聖書とは関係がない。１日が日曜だと、その月には必ず「１３日の金曜」がある。今年は来月がそうなので、気になる人がいるかもしれない。