もうすぐ震災からかれこれ4カ月になろうとしています。
相変わらず起動していない場所が多々あります。
この土地の沢山の歴史ある遺跡も未だ修復の目途が経っていません。
そのまま荒れ果てたままになっている様子です。
でも、人々の生活が元の生活に戻りつつあると、人の意識はどんどん変化して行きます。
危機感が無くなると言うのでしょうか。
震災時、食べ物も無くなって、水道、ガス、電気・・・あらゆるライフラインが閉ざされた時、そのライフラインが回復した時、誰もがその便利さの有り難さを痛感したと思うのです。
でも、実際に、生活が元に戻ると、人の考え方は麻痺して行きます。
まるで映画の世界の様な、人事の様になって行くのでしょうか。
相方の店でお客様を見ていると、震災の後は誰もが食べ物の大切さや有難さを感じていたと思います。
サラダバーを食べ残したり、自分だけ多く取って周りの方に行き渡らない様な取り方をする方はいらっしゃいませんでした。
でも、今では当たり前のように自分だけの物の様に取って、それも平気で食べ残す方がいらっしゃいます。
今でも食べる事が困難だったり、様々な物資が不足している地域だって沢山沢山ある筈なのに、その事は自分には関係ないって感じている方も多いです。
「未だ余震があるので」
って話をしても、怪訝そうな顔をなさる方もいらっしゃいます。
実は、先日あまりに酷い方がいらしゃって、私はついついオバちゃん根性で意見してしまいました。
勿論、相手はお客様なので、そして、ここは相方のお店なので、言い方はやんわりですが、
「食べ切れるだけって事になっているので、次回はこの様に残さない程度に取る様に」
と言う様な事をお願いをしました。
でも、その方は、
「うるさいオバちゃんだなぁ」
って感じと、
「何でこんな事を言うのだろう?」
と言う様な不思議さと怪訝さの混じったうっとうしそうな顔をなさいました。
きっと、こういう事って、ネット上で、
「うるさいオバちゃんが居てもう行きませ~ん!!!」
「お金払っているのに文句言われた!!!」
とか言われてしまったらアウトだから言わないでおいた方が賢明って思っている方も多いのだと思います。
きっとそう思っていても何も言わないお店って多いのだろうなぁって思います。
でも、国民性、県民性、地域性を問われている様で凄く恥ずかしい、悲しい気持ちになりました。
今、「食育」が問われていますが、実のところ、こういう問題ってどうなのでしょう。
私の子供の頃(ってだいぶ昔話ですけれど・・・)学校の給食でお残しは絶対に許されず、食べ終わる迄席を立つ事は出来ませんでした。
それで、食べ切れずに食パンを机の中に隠してカビだらけになっているクラスメイトが居た事もありましたが・・・。
今はアレルギーの問題とかもあって強制出来なくて、強制したり、キツく言うと先生が親に訴えられてしまう事もあるらしく、先生方も強く言えない立場なのだと聞きます。
野菜嫌いだとか偏食だとかの問題も勿論大切。
でも、食べ物を育てた農家の方、そして、その食物達、私達の口に入る為に殺生された動物達や魚達への感謝の気持ち、その食材で美味しい食事を作ってくれる人への感謝の心・・・そういう事が忘れ去られて行く時代の様な気がしてしまいます。
自分の身体はそういう沢山の人々、沢山の動物や植物によって支えられているのだと言う事もついつい忘れがちです。
もう少し、もう少しだけ私達が歩み寄ったり、周りの人々の事、遠く離れた見ず知らずの方だけれど、困っている人々の事・・・考えるだけでも意識は変わる様な気がします。
ほんの少しだけ、そういう事を考える時間があっても良いと思います。
ほんの少しだけ、感謝の気持ちや思いやりの気持ちを持つ事が出来たら・・・って思います。
だって、募金箱には沢山の寄付が寄せられています。
一度は被災地に送りました。
そういう気持ちは誰にでもあるのです。
その気持ちを信じたいなぁって思います。
そんな事は夢物語なのでしょうか・・・。