ほんの数分であったが

二人は抱き合って

照れくさそうに、お互いを見つめていた。

ふと太郎は、起き上がろうとした。

「え?」

起き上がれなかった。

左側の体の感覚がなかった。

まったく何も無いのである。

体は見えるが、皮膚の感覚すらないのだ。

太郎は幸枝に気づかれまいと

右手で、掛け布団をたぐり寄せ

「ちょっと俺は疲れてたんだな。

 もう少し休むよ。

 お前も、家に帰って寝てくれよ。」

太郎は自分では抑えきれない

幸枝と一緒には

自分の体への不安と、向き合えなかった。

幸枝にこれ以上不安な想いを

させたくなかったのだ。

幸枝は分かっていた。

太郎が自分に心配をかけたくなくて

強がっていることが。

「わかった。

 じゃあちょっと、家に電話して

 お義母さんに意識がもどったことを

 報告してきます。

 売店でジュースとコーヒー買って来るね」

「じゃ」

幸枝が病室を出た。

太郎は天井を見つめていた。

左半身の感覚はない。

そこへ木元内科部長が、にこやかに入って来た。

「やあ、村井課長。具合はど~う?」

「木元内科部長!!すっすみません。
  
個室なんて用意していただいて

こんなに、ご迷惑おかけしてっ・・・」

急に起き上がろうとした、太郎は

ベッドの上で体をバタつかせた。

「いいですよ~。大丈夫です、寝たままで

 個室がたまたま開いてたので

 村井さんに入っていただけて

 こちらこそ助かりますよ~」

少年のようにイタズラな笑顔で

木元医師は、穏やかな空気を運んで来た。

「あ~左半身の様子が、いつもと違いますか?」

「はい、感覚がないんです」

「そうですか。じゃあ視力の方はどうですか。

 あのカレンダー、月の数字見えますか?」

「いえ・・・まったく見えません」

「そうですかあ。大丈夫ですよ。

 じゃあちょっと、明日は視力の検査と
 
 血液検査など少し、調べてみましょうかね。」

「す、すみません」

「なにを言ってるんですか。今は村井さん

入院患者さんですよ。堂々と寝てて下さい。」

「すいません、ありがとうございます」

「この際ちゃんと調べて、きちんとした結果をもとに

 なおしましょう。大丈夫ですから今日は

 ゆっくり寝て、体力を消耗しないように

 きちんと御飯食べて下さいね。

 ではまた、明日来ますからね。

 じゃあ、奥様に宜しくね。」

にこやかに布団をかけ直して

木元医師は、病室を出ていった。

太郎は救われた。

木元医師の笑顔と言葉に

安心して少し眠った。


・・・・・・・・・・・・・・・・つづく

「免許更新できない・・・」太郎は愕然とした。

普通自動車の免許更新の為に、訪れた免許センター

視力の検査コーナーで、技師に事務的に告げられたのだ。

目の前が真っ暗になり、ずんっと胸は打ちぬかれ

胸のなかが、どんどん乾いていった。

本当は、太郎は分かっていたのだ。

自分でも急に、ここ数年で

かなり視力が落ちている事は、分かっていた。

疲れの為だと、自分に言い聞かせて来た。

眼鏡で、矯正できなくなって来ている事も

分かっていた。

でも生きて行く為には、免許が必要だった。

太郎は、製薬会社で働く外回りの営業課長

一日中、車で大病院を営業で廻っている。

45歳になったばかりであった。

妻の幸枝は42歳、二人の息子はまだ小学生だ。

「そうか・・・やっぱりか。どうしよう・・・。」

汗だけが真冬の寒空に

背中をタラリタラリと、つたうのが分かった。

午後から、市民病院の木元内科部長に

太郎が納品に行く予定だった。

「免許が更新出来なかったから

タクシーで行くかなあ・・。ああ胸が乾いた。」

ボンヤリとした頭の中で、

なぜか、木元内科部長の温和な顔だけが

鮮明に浮かんだ。

太郎は、徒歩とタクシーで市民病院に現れた。

木元内科部長は、あいにく緊急手術中で

太郎は品物だけを、内科の受付に置いて

伝言メモを書き始めた。

「木元内科部長様・・・・えっと・・・」

ペンが止まってしまった。

不覚にも、涙がほほをつたったのだ。

太郎は動揺した。

涙を流したのは、何年ぶりか覚えていない。

「どうしよう、どうしよう」

「このまま見えなくなるのか?

        どうやって生きていくのか」

「そんなことよりメモに、何と書こうか」

「明日は、どうやって営業周りをしたらいいのか」

いろんな想いが、急に太郎の頭をかけ回り始めた。

『バタッ・・・』

回っていたのは、想いだけではなく

太郎の身体だった。

昨夜は徹夜で残業して

今日の納品に間に合わせたのだ。

・・・周りで、看護師たちが騒いでる声が

 遠のいていった。ゆっくりゆっくり意識がとぎれた。・・・

そして翌日の夕方、黄昏の中ようやく太郎が

目覚めたのは、市民病院のベッドの上だった。

太郎は胸に手を当てて、ぼんやり考えていた。

「ああ・・・なんでこんなに胸が乾くんだ、
                                      胸がかわく・・」

妻の幸枝が、ベッド脇で眠っている。

太郎は、幸枝の静かな寝顔を見つめていた。

幸枝が目覚めた。

「あっ・・・眠っちゃってたわ。あなた、大丈夫?」

いつもの、美しく優しい幸枝だ。

「あのさ・・・うう・・・もう・・・」

太郎のほほを、涙が一筋つたった。

何から言えば良いのか、わからなかった。

幸枝は、初めて見る太郎の涙に

動揺していた。

たまらなくなり、抱きしめた。

「大丈夫よ。大丈夫。心配しないで。」

二人は泣いていた。

「・・・幸枝、幸枝」

幸枝は太郎の涙に、不安を感じていた。

ここ数年、体調がずっとすぐれない太郎、

疲れているのに、眠りが浅く顔色が悪い太郎、

自宅で、すぐにつまづいたりする太郎を見ていた。

二人は抱き合った。

幸枝は太郎を抱きしめた。

「あなた・・・わたしあなたを愛してるわ」

幸枝は、言わずには居られなかったのだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく