物心がついた時からいつしか

二重の人格が生まれていた。


表の顔は
敬虔なエホバの証人の二世の姉妹として。

長老の娘として模範的な姉妹として必死に
生きてきたつもり。

聖書の研究をすることがとても好きだった。

小学生の頃から、昔のものみの塔や
目ざめようの製本や年鑑を飽きることなく
何度も何度も読み返していた。


大人になってからも、
聖書の研究が好きなことは変わらず
徹夜でものみの塔の予習をしたことは数知れず。


聖書の話以外が出る交わりは
正直、あまり好きではなく

交わりのときは自ら空気を読まずに
聖書で研究した内容を熱く語っていたような
気がする。


よく研究した内容を
自分の言葉でまとめた注解は
正直、評判はよかったと自負している。



聖書研究だけの友達も数名いて
研究内容だけは、一生懸命話し合った。


どんなに長丁場でも聖書の話を友人と
話し合うのは全く苦ではなかったから
毎日のように、暇さえあれば
聖書を理解したいと
一生懸命話し合った。



新世界訳聖書だけではなく
5種類ほどの他の訳の聖書を比較しながら
研究に励んだ。


最近の資料だけではなく
1960年代からのものみの塔も閲覧しながら
研究に励んだ。




定評のある話し手がいると聞けば
他県でも飛んで行って公開講演を聞きにいき


友人に頼んでは
録音テープを送り合い
感想を話し合った。




聖書が好きだったから。
聖書をもっと知りたかったから。


神の愛に感動し
贖いへの感謝を深める
研究の日々だった。













もうひとつの顔は

神の存在なんてイチミクロンも
信じたことのない
無神論者。


小さい頃は神様がいて〜♪
なんて、歌ってみたくもなるけれど、


正直、物心がついた時から
ほんの一度たりとも
神の存在を信じたことがない


と思う。  




時々、離れたコの中でも
エホバは信じてるという人がいるけれど
とてつもなくうらやましく思う。





もちろん神の存在なんて信じたことが
ないのだから

子どもの頃から
悪い(とされている)ことも
絶対にバレなければどんなことをしてもよいと
思っていた。




大人になってからも変わらず


そして、たぶん、
バレたことは、ない、と思う。


今となっては、分からないけれど。





今思い出しても、
子どもの頃からメンタルは崩壊していた
のだと、思う。


平気で毎日うそをついていた。

心配して欲しかっただけ。


ただ、それだけ。




聖書研究モードのときは
そのモードになれるから
本当に神を愛し
本当は、行動は伴っていないことを棚に上げて感動し、涙を流し、そんな気分になっていた。



エホバの証人モードと
世の人モードの切り替えは
全くの別の世界で全くの別人格で
考え方も何もかも別だった。






でも、いつか、いつの日か本当に本心から

信じたいとは思っていた。

エホバを信じられる人に憧れていた。

エホバに献身できる人に。

全てを捧げてまでも
一生を捧げてまでも
エホバを愛せる人になりたかった。






でも、結局わたしは
道半ばで諦めてしまった。



フツウに幸せになることを選んだ。


ほんとうに、それでよかったのだろうか

と、
自問自答しながら。