いとっしーのもじ文字落書き(笑)

いとっしーのもじ文字落書き(笑)

僕が日々思ったことやあったことなどを綴っていけたらと思います。完全不定期更新です。

Twitter→https://twitter.com/shade_exprail

YouTube→https://www.youtube.com/user/LNRshade

よろしくお願いします(^^)

Amebaでブログを始めよう!

友達。これまでいつも「友達」が欲しい。 なんでできないんだろう?そう思っていました。

 

でも最近大きな考えの転換がありました。

 

それは僕の中では天動説から地動説くらいのインパクトのあるものでした。(大げさかニヤリ

 

友達とはなんなのか。。平成の僕令和の僕 どんな考えの変化が起こったのか書いてみようと思います。

 

まず、大まかな結論から書きます。

 

1.平成時代の価値観〜友達とは「交流頻度(多いほど良い)・関係性(深いほど良い)・量(人数)」が重要である。

 

2.令和時代の価値観〜友達とは「(互いに)信用がある・環境を理解した上で交流できる・価値を理解しあえる」が重要である

 

では一体これがどういう理屈でこういう形になったのかを書いていきたいと思います。

 

この先、「自→自」、「自→他」、「他→自」という表記が出てきますのでその説明をしておきます。

「自→自」・・・自分自身が自分に対して思う主観的評価を意味します。

「自→他」・・・自分自身が他人に対して思う主観的評価を意味します。

「他→自」・・・他人が自分に対して思っているであろう評価を僕の主観で捉えた評価を意味します。(※他人からみた自分に対する客観的な評価に基づくという意味ではありません)

 

 

平成の僕が抱いていた友達像

まず平成の僕は友達というものに自ら大きな制限をかけていました。

例えば・・・友達は「同年代・同じ趣味の人でないといけない」とかです。

周りの友人たちで年の離れた人が友達だというケースをあまり聞かないこと、そもそも数年に1回くらいしか会わない人は友達と思えなかったこと(関係の具体的進展がない)

 

また最近は「自→自」の評価は非常に高い状態になっています。自分自身では自分のことを認めてるし、その独創的な趣味思考も自分自身が自分を評価する上ではプラスなこととして捉えています。

 

しかし逆に「他→自」の評価になると一転、自分への評価は急落します。その独創的な趣味思考も他人からみたら「単なる変人」にしかならないだろう、そもそも僕になにができる?他人から見た時に「僕の価値は無い」こういう思考になっています。このロジックでいくならすなわち「他→自」においては「自分に全く自信がない」その裏付けともいえると思います。

 

これを逆に捉えるなら「自→他」に対しては自分自身に価値がないという前提で自分がいることもあり、基本的に全てにおいて「懐疑」でなりたっていたんだと思います。なにがあっても、その他人に裏切られても、他の人に関心が移っても、それは価値のない僕から価値のある別の人に興味が移ったんだから僕が嫌われるのは当たり前である。そういう考えに陥ってしまっていました。

 

すなわち平成の僕がもっている人間関係をまとめると

友達の条件・・・同年代、同じような趣味、その他諸々

「自→自」・・・自己評価は高い、自分自身は自分を肯定している、時に自分を戒めることもある

「他→自」・・・僕に価値はない、僕に魅力は存在しない、むしろ好かれたら警戒する、だって価値ない人なんだから

「自→他」・・・価値がない僕であるから全てにおいて疑いの目「懐疑」で見てしまう。価値ないんだから裏切られて当然、人が離れていって当然、別の人の魅力に気づいたら僕が出る幕もないのは当然。

そんな価値観の中で友達を作ろうとしていました。

 

 

それがここ最近大きく変化してきました。

 

まず大きなきっかけは「友達とはなにか?」ではなく「今現在仲良くしている(交流が継続している)人とはどういう人なのか」そういう切り口から友達を考えてみたことでした。

 

平成の僕は友達とは「交流頻度(多いほど良い)・関係性(深いほど良い)・量(人数)」という理屈でした。

しかし、この定義に当てはめると、現在交流関係が維持できている人と必ずしも合致しなかったのです。

 

では今現在仲良くしている(交流継続)人たちの共通点はなんなのか、それは

「(互いに)信用がある・環境を理解した上で交流できる・価値を理解しあえている人」

そこに気づきました。

 

交流頻度が少なくなろうとも、関係性が深まらず現状維持であっても、人数が増えなくても、

互いのことを一定の信用関係、理解している関係にある人は「今現在も安定して交流している(途切れていない)」

という現実に気づきました。

 

つまり平成の僕が考えていた友達は本来の友達ではなかったんだなということに気づかされました。

特に「他→自」、「自→他」の価値観には平成の僕と令和の僕の価値観では大きな差が生まれました。

 

平成の僕は

「他→自」・・・僕に価値はない、僕に魅力は存在しない、むしろ好かれたら警戒する、だって価値ない人なんだから

「自→他」・・・価値がない僕であるから全てにおいて疑いの目「懐疑」で見てしまう。価値ないんだから裏切られて当然、人が離れていって当然、別の人の魅力に気づいたら僕が出る幕もないのは当然。

 

「平成の価値観まとめ」・・・自分に自信がない。裏切られて当たり前。他人から嫌われるのも当たり前。だから他人を信用することができない。

 

 

令和の僕は

「他→自」・・・僕自身は相変わらず価値を否定しているが、そのなかで互いに一定の価値の理解を確認できた時、本当に長く続く友達になりえる前提ができる(少なくとも可能性が高まる)

「自→他」・・・僕自身は相変わらず価値を否定しているが、その中で互いに一定の価値の理解を確認できた時、自分自身の「懐疑」が薄れていき本質的な意味で相手を信用することが可能になる(少なくとも可能性が高まる)

 

「令和の価値観まとめ」・・・相変わらず自分に自信はない。しかしその中で他人と互いに一定の価値を理解しあえる、他人が僕の価値を肯定してくれた時、僕の心の根っこにある「懐疑」が薄れ、本質的な意味での信用に変化していく可能性が高まる

 

 

当たり前のことなのかもしれませんが、友達という自分にとって非常にネックになっていた物事に対して新しい視点を自分で見つけられたのはいいことだったと信じて、これからも頑張っていきたいと思います。

とりあえず、自分に自信つけないとね笑い泣き