主夫○○(昔大学院生/今……)の、日々思うこと

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パットナム 『孤独なボウリング』より

ロバート・D・パットナム (2006)『孤独なボウリング』柏書房、をざっと読む。


今日の心持ちに合った部分だけを抜粋したので、かなり偏りがある引用となってしまいましたが…

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P.156「あなたの穀物は本日刈り入れ時である。私のものは明日になるだろう。お互いにとって有益なのは、今日は私があなたと共に働き、そして明日はあなたが私を助けることである。私はあなたに親切心を持たず、あなたが私にそれをわずかにも持たないことを知っている。したがって、あなたのために骨折るようなことを私はしない。もし見返りを期待して、自分自身のためにあなたと共に働いたとしても、私は裏切られ、あなたの恩返しをあてにしたことが無駄となるであろうことを知っている。ゆえに私は、あなたを一人で働くままとする。あなたも私を同じく扱う。季節はめぐる。そして、われわれ双方とも、相互の信頼と安心の欠如のゆえに自らの収穫を失うのである。デヴィッド・ヒューム」
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P.210「心理学者のアルバート・メラビアンは『非言語コミュニケーション』の中で、「感情の領域」においては人々の「表情、声色、姿勢、動作、身振り」は決定的に重要であると記している。言葉が、「それを含むメッセージと矛盾したときには、相手はこちらが語ったことを信じない--彼らはほぼ全面的に、こちらが何をしたかを信頼する」
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本の内容は、こんなこととはほぼ全く関係ない内容です(苦笑)

また、書こうかな、と。

また1年あいてしまいました。
で、再び書こうかなと思います。

今回の再開のきっかけはTwitterでした。

140文字で何とか表現しようと思いましたが
難しい。
というのも、話し合い(?)の前提条件をまず設定してからでないと込み入った話は通じないのに、その前提を設定するのに140字では無理なので、難しい、と。

やはり、私の場合、「おや?」と思ったことは、それを丁寧に解きほぐしながら、最終的には納得できるよう問題を落ち着かせたいので、となると、やはりこうした長文を書ける場が必要になってくる。

それと、普段の生活で落ち込んだり悲しくなったり不安になったりして「あぁ、誰かに話したい」と思った時、こういう場があると、不安定な感情を落ち着かせることができる点も、重要な効用の一つ。

というわけで、誰に見せるという訳ではないですが、もし見ようと思われる方がいれば「どうぞどうぞ」という感じで書いてまいりたいと。

まぁ、ペタしていただけたらありがたい

なぜ頑張れないか

月一回、指導教授と会って研究の進捗状況を報告している。

しかし、この報告は、実際のところ報告ではない。
毎回、いかに私が基本を分かっていないかということを教授に印象づけているだけである。

非常に歯痒い。
イライラする。
もちろん、自分に、だ。
それは、教授が言っていることは百も承知だし、そんなのすでに自分が何年も前に勉強していて知っていることなのに、さも私が基本を分かっていないかのように諭されると、なぜ自分は「そんな簡単なことも分からない学生」だとこの教授に思われてしまったのだろうと思い、イライラするからだ。

もちろん、教授がそのように思うのも無理はない。
それは、私が日本語できちんと表現できないからだ。


この数年、他人と分かり合えないことが多かったため、徐々に「理解されなくてもいい」という考えが自分の心の中で支配的な考えとなってきた。

理解されなくてもいいと思うと、当然、理解されようとする努力を怠るようになる。
畢竟、人に理解してもらえるような表現力が衰える。
ますます理解されない。
悪循環だ。


加えて、春日武彦氏の指摘によれば、失敗続きの人は楽天性を持てない。
「理解されない」という失敗体験を重ねると、次第に「これを書いても、どうせまた理解してもらえないだろう」という諦めを生む。それが高じると、書く前からすでに「あぁ、やりたくない。どうせ失敗する。理解されない」という思い込みをもたらす。


人が理解できるような文章を書く能力が劣化するとともに、人に理解してもらえるような文章を書こうという気力を失う。
能力と気力が低下すれば、そりゃあ、モノは書けんし、頑張れん。


指導教授は、一応、今の私の研究に対し「悪くはない観点」とは仰る。
しかし、その言葉を今の私は自身に変えられない。
何より、その教授を一度も納得させるような報告をしていないからだ。


怖くて仕方がない。
自分が渾身の力を込めて書いたものを、教授に否定されることが。
自分の期待に反して評価が著しく低いことが。
「何だ、こんなもんか」と思われることが。

もし、そんなことを言われたり、そのような感情が教授の態度に表れていると少しでも私が感じてしまったら、私はきっと正常ではいられない。


理解されなくてもよい。
放っておいてくれ。
勝手に生きるから。

そう言い放てるような身分の人が、今は羨ましい。
本当に心病ましい。

悲しいとき

 悲しいとき~~、なんて言いながらポーズを取る芸人風の2人組がいた。

 悲しいとき。
 普通、皆さんはどうやってその時をやり過ごすのでしょう。

 わたしの場合、困ったことにそのやり過ごし方が分からない。
 だから、つい酒に走ったり、破壊衝動が高じてまわりの物にめったやたらと当たり散らしたり、トイレやお風呂場で(ときには居間でも)大声でわめいたり。
 まぁ、ひどいもんです。

 そういう時間が、そうだな、3時間ぐらい経ったら、少し落ち着いて、くだらないテレビを何も考えず見る。そして、頭の中を真っ白にする。で、たまに視聴者を泣かすようなドラマに出くわすと、普段は絶対に見ませんが、そういうときはついそういうドラマの力を借りて泣いたりしています。

 いずれにしても、まぁ、ひどいもんです。

 今日は仕事先の英会話学校で、自分がそこで全く必要とされていないこと、そして、わたしだけが仲間はずれにされていたことを偶然知ってしまい、ひどく落ち込んで帰ってきました。

 夕方帰宅したのですが、今日はひどかった。
 夜11時半まで、およそ7時間。
 ずっとダメでした。

 このままでは眠れない。
 そう思って机に向かい、今日のことを思い出し、そして、悲しいと思ったこと、辛い、恨みたいと思ったことを思い出して、短い文章にして書きつけました。
 そうしたら、なぜかスッと気持ちが楽になった。
 なんだろうこれは。
 きっと、あれだな。
 わら人形と五寸釘、みたいな。
 もちろん、今回はそんなんじゃないけど、人の心に作用するものは、きっと、そういう「恨み晴らし」の効用があるような気がします。

 こうやって、忘れたいことが増えていく。
 そしたら、いつの間にか何もかも忘れてしまいそうな気がします。
 同時に、わたしのことも皆忘れる。
 それが人間の死というものなのかも。
 自分は生きていても誰も自分のことを覚えていなかったら、それは死んでるのと一緒ですもんね。

あまりに政治的な高校野球(春)

 詳しく言わなくてもいいでしょう。
 大分上野丘高校。
 県大会決勝で敗れたものの九州地区大会へ進出。しかし、2回線(というか初戦)で敗戦。ベスト8にも入っていない(いつまで見られるか分かりませんが、資料はこれこれ)。

 日刊スポーツの記事には、わざわざ「昨年、教育問題で揺れた大分県の明るい話題となった進学校のセンバツ出場」との文章が。

 大した実績もない学校が、こんな理由で選ばれてしまうなんて。
 九州地区大会でもっといい成績を上げた学校の皆さんはどういう気持ちなんだろう。
 いいんですか、これで。

 …いいんでしょうね。
 知りませんけど。

人付き合い

 久しぶりに悩まされる問題が到来。
 3月に、10年ぶりに大学の同窓会的なものをやりましょう、とのお誘い。

 お誘いをくれた人には、実は、その3月に会いに行こうと思っていたところ(彼は九州の北の方に住んでいる)。春休み、温かい日差しの中、フェリーに乗って九州ツーリングをしがてら行こうかなぁ、と思っていたんです。

 しかし、その同窓会的なものは彼だけではなく、他に数人参加予定。
 別に、その数人と仲が悪かったとか、そういうので全然ないんです。
 事実、大学時代は彼ら全員で東欧なんぞへ10日ぐらい一緒に旅したくらいですから。
 良い思い出ばっかりなんですよ。
 まぁ、わたしがちょっと年上だったので、彼らからは「お兄さん」扱いされて随分「いじられ」ましたけどね(笑)。

 まぁ、有り体に言えば、わたしだけが「無職」だということに大いに引け目を感じる、というわけで。
 小学校の教諭、大学の教師、ジャーナリスト(2人)の4人と、わたし(無職)。
 卒業して10年。わたしだけ何やってんだ、と思い知らされること、必定です。

 というように、行きたくない気持ちはかなり大きいんですが、しかし、この機を逃すというか、ここで行かないとなると、たぶん、彼らとの縁は切れてしまうような…。それはそれでちょっと痛いなぁとも思うわけで。

 でも、連絡をくれた彼以外とはもう丸10年全く連絡を取り合っていないわけだから、残りの人たちとは10年前に既に縁が切れてしまっていたとも考えられるし。

 行くか行かないか、決めるのは難しいです。
 もし、この集まりの中にある男が一人いてくれたら、わたしは心強く感じて間違いなく参加するだろうな。
 彼が生きていてくれたら…。

久しぶりに早いと思った一週間

 前回のエントリーから早一週間ですか。
 久しぶりに「早い」と思ったです。

 先週一週間は、非常勤でやっている英語学校の授業がお休みだったので、正月早々のんびりさせてもらいました。
 水曜日は都内のお医者さんへ。
 木曜日は終日在宅で家事。
 金曜日は昼過ぎまで在宅で家事。午後から知人の博士号口頭試問に同席。夜は古い知人とメシ。
 土曜日は昼から研究下準備。
 日曜日は終日在宅でのんびり。
 月曜日は家事をしつつ午後から研究下準備。
 ……主夫ですねぇ。

NHKスペシャル 女と男

 面白そうな番組だと思って録画しておいたものを見ました。
 番組の内容については、番組HPや他の人のブログや2ch等で言われているでしょうから詳述しません。
 ここでは一点だけ、NHKらしくない脇の甘さを指摘したいと思います。

 今回の番組では、ある点が決定的に欠けています。
 何か。
 それは、番組のテーマである「女」と「男」の定義です。

 番組では女性、男性という性別を規定するにあたり、ほぼ間違いなく、生物学的な差(もっと直接的に言えば誕生時に有する生殖機能の差)を基準としています(もちろん、番組内では明確に定義されていないので、これはわたしの推測に過ぎません)。
 分析では個人差はほとんど考慮されず、上の基準によって分けられた人たちを男女それぞれの集団としてまとめ、その両集団の違いを統計的に把握する、という手法です。なので、「男女の差という画一的な見方を採り、『男っぽい女』『女っぽい男』などといった個人個人の差異の存在を無視した番組作り」という批判はあたりません。この分析手法は、ある社会集団の特徴を把握するのに用いられる極めて初歩的かつ正統的な手法で、社会学を専攻する学生であれば誰でも知っているはずのものです。

 今回の問題は、その分析手法ではなく、分析の元とのある集団の定義の仕方です。
 そのことにピンと来たのは、ある実験の結果出てきた脳内の反応に関して、「女」と「男」でその反応場所が違っている、という映像が流れた時です。
 「へぇ、そうなんだ。大体人ってそういうもんなのかなぁ。……ん? あれ、じゃあ、もし外見は男だけど内面は女、っていう人だったらこの結果はどういうものになるんだろう?」

 そうです。
 今回のNHKらしくない脇の甘さとは、ジェンダーの視点(社会的な性差)という可能性を完全に欠いている点です。だから、「女」と「男」の定義ができていない、または、不十分なんです。
 なぜ、こんな基本的な「ミス」(と言ってもいいでしょう)を犯したんでしょうか。
 もし仮に、「社会的には女性である生物学的男性」という人(「おかまさん」ですね)の脳内反応が生物学的女性とほぼ等しいという結果が出たらどうするんでしょう。そうだったとしたら、その「男性」は誕生後に「女性」に変わったということになるわけで、そうなると、脳内反応の差が数百万年前の人類初期の生活様式に起因しているという番組の主張が完全に覆されることになるというのに。

 いままで、NHKの科学番組には少なからぬ敬意を払っていました。
 それは、少なくともこれまでは、番組内で展開されている論理は首尾一貫していたし、論理の破綻をきたすような批判を受け付けるような脇の甘さも見られなかったからです。
 でも、今回はどうなんでしょう。
 「ジェンダー」という、某党の右寄りの方々が忌み嫌う概念は番組で取り上げてはいけないと自主的に規制したんですかねぇ…。いやぁ、まさか…。

やさしい政治の話って可能?

 一昨日の夜、車を運転中に久しぶりにAMラジオをつけ、ちょこちょこと各局を渡り歩いていたら、ラジオ日本(1422MHZ)で「ミッキー安川の雑オロジー」なんていう番組に行き当たりました。
 途中から聞き始めたので、この日のテーマについてはよく分かりませんでしたが、内容から推測すると、どうやら、今の日本の政治について一家言ある人や、ミッキー安川に今の日本政治について意見を求めている人などの投稿にミッキー安川がコメントをつける、という企画だった様子。

 その中で、あるリスナーから、こんなような内容の投稿がありました。
 「今の日本は議院内閣制だからうまくいっていない。大統領制にすればいいのでは」

 これを聞きながら、この意見に批判を加えたり、その後のミッキー安川のコメントを馬鹿馬鹿しいと思うことは、まぁ、ちょっとはありましたが、でも、それは枝葉末節のこと。
 より強く思ったことは、今の日本のメディア(特に関東圏)が、こういう疑問や意見を持つ人に応える番組をつくってなぁ、ということでした。

 わたしが関西贔屓な理由もありますが、関東では、政治学の基本(というか、今の時代ではまずは民主主義の基本だけでとりあえずよいですね)、たとえば、多数決とはそもそもなにかとか、議院内閣制と大統領制のメリット、デメリットとは何かとか、選挙システムの違いが選挙の結果にどんな違いを生むかとか、分権のメリット、デメリットは?とか、そういう基本的なことをやさしく解説する番組が全然ありませんね。
 だから、というわけではないですが、そういったことを毎週ちょっとずつでも解説していく機会があれば、さっきのリスナーのように、議院内閣制から大統領制へ、というちょっと突飛な(理由が分かっている上で主張するならいいんだと思うんです)説を、ミッキー安川という、たぶん政治学の基礎をほとんど理解していないような人に質問する、みたいな「悲劇」は避けられるんじゃあないかな、と思うんです。

 関西では、MBS(毎日放送)が月~金で「ちちんぷいぷい」という番組を放映しています。
 この番組は基本的にはヴァラエティ番組なのですが、わたしは、この番組がわたしの知る限り今の日本で一番優れた「報道解説番組」だと思います。
 たとえば、「石田ナウ」というコーナーでは、MBSの石田さんという元社会部デスクが、その時気になる出来事を一つ取り上げ、問題の背景や対立軸、引っかかる点などを、自らが偏向しているかもということも含めて包み隠さず伝え、スタジオにいる皆さんとワイワイ話す(良い、悪いという視点で話すのではなく)。
 また、選挙の近くなると(といっても1~2ヶ月前から)、選挙の争点となりそうなことを、曜日を決めて、毎週一つずつ取り上げていって、これもワイワイ話す。

 この番組が優れている点は、
●丁寧に、分かりやすく、時にはしつこく、事の本質に迫ろうとしている
●良い、悪いという断罪調的視点ではなく、「これ、どないなん?」という問題提起的視点から出発している
の二点ですね。これは関東のメディアには全然ない視点じゃあないでしょうか。

 ちちんぷいぷいでも、冒頭に書いたような政治学の基礎について解説する時間は、残念ながらまだほとんどありません。
 こういうスタンスの番組で政治学の基礎が話題に上れば、少しは日本の政治や政治家について考えを改めることも進むんじゃないかなぁと思うんですけど、どうなんでしょう。

ナショナリズムの涵養装置について

昨日、ある用事があって一般的な日本のお正月に関する英単語(たとえば、お年玉とかおせちとか初詣とか)を調べるべくググっていたら、「All About」の以下のようなページに行きつきました。

日本文化を英語で語る!-お正月編-

いろいろな英訳が載っていたので、その点では大いに助けられました(ありがとうございました)。
ただ、一つ気になることが…。
それは「欧米では、自国の文化について詳しく知らない人を時として信頼しない傾向がある」という一節。
(この場合、「欧米では」という語の意味は「欧米に住む現地の人」ということと考えて構わないでしょう)

これって、どうなんでしょう、そのまま信じてもいいと思います?

この文章は「時として[~~という]傾向がある」という表現ですから、必ずしもすべての場合がそうだとこの著者(日本人男性)も言っていないので、経験論的な立場からの発言(たとえば「いや、わたしがこの間~~という国に行った時はそうじゃなかったよ」といった個人的経験に依拠した発言)には、この著者はいくらでも反論できるでしょう。
なので、わたしはちょっと別の面から、この著者の説に異論を唱えたいと思います。

欧米では自国の文化に疎い人が信頼されないかどうか、その真偽のほどは、正直よく分かりません。
よく分かりませんが、大事な点はどうもその点にはなさそうな感じはします。
たぶん、より重要な点は、なぜ彼は、欧米ではそういう風潮になっていると言えるのか、ということだろうと思います。
言い方を変えると、彼のその主張はいったい何に依拠しているのだろう、ということです。


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さて、つい先ほどわたしは「欧米では自国の文化に疎い人が信頼されないかどうかの事実としての真偽は、よく分かりません」と書きました。事実としては、まさに真偽不明です。だって、そのことが何らかの形で実証されたわけではありませんから。
ですが、よく分からないということで放っておくと議論が先に進まないので、ひとまずここではこのことを真とします。つまり、欧米諸国に住む現地の人たちの間ではそういう風潮がある、としておきましょう。

その上で次の問いに進みます。じゃあなぜ彼らの間で、自国の文化について詳しく知らない人を時として信頼しない、というような文化が形成されたのでしょう。

結論から先に言えば、その答えは、国民国家の発展過程で、国家内の文化はある特定の形態(多くの場合、それは多数派の文化や習慣を反映するものです)に収斂されていくという考え方が支配的になったとともに、文化を知らないということは「まずいことである」という認識が広まったから、と言えましょう。
なお、ここでの「多数派」とは、必ずしも人口の比率でみた多数派であるとは限りません。要は、当該国内で最も支配的な集団ということです。


まず「自国の文化」という点から始めましょう。
自国の文化、という考え方は、国民国家という概念と強く結びつきます。

国民国家という概念は欧州で生まれました。
これは、ざっくり言えば、それまで何のつながりもなかった見ず知らずの人たちが「自分たちは~~国の一員である」という自意識を持ち合うようになる考え方、と言い換えられます。
そして、人々をそういう考えに導くための仕掛けには多種多様なものがあります。公的言語の制定、地図(領域)の画定、公的規則の統一、国史編纂……などなど。
もちろん、その中には「~~国的な文化の涵養」なんていうのも含まれます。たとえば、ある一部の地域でしか食されなかったような食べ物をその国中に広めて「~~国伝統の食事様式」と言ったり、ある一部の地域でしか催されていなかった儀式を「~~国固有・伝統の儀式」と言ったり、というようなことが、中央政府や地方政府の役人や、政策に共鳴する人たちによってなされていたはずです。

この「~~国的文化」の醸成は、わたしの知る限り、欧州より北米、とくにアメリカ合衆国(以下アメリカ)でより進んだと見ています。
アメリカでは建国以来、行政面では分権が進みましたが、地域によって人種構成比率が著しく異なったため、もし地域ごとの文化的な差異を公的に認めてしまうと国が分裂してしまうという危機感が19世紀半ばまで強かった国です。ですので、地域の文化や差異を認めるのではなく、「アメリカという国に住む人間はみな白人アングロサクソン・プロテスタント(WASP)文化を共通アメリカ文化だとして理解し、受容する」という物語を広める必要があったと考えられます。
もちろん、欧州でもその傾向が強かった国(たとえばフランス)でも似たような文化的統一は推し進められていました(フランスの場合はフランス北部地方の文化を支配的なものと定めた)。

「自国の文化」とは、このような過程を経てできたものです。ですので、ある支配的な文化がその国を代表するような文化となることは当然である、という考え方は、彼らにとってはそれが自明のこととなっているはずです。

※補遺
現在では、国家内の多文化主義という形も認知されているが、それも結局は「自国の文化」が「自集団の文化」に代わっただけで、「自国の文化」的な考え方の要諦、つまり、ある集団にはこれこれという文化的特徴が存在すると規定する点は、ほとんど変化していないと思われる。


それに加えて、欧米は20世紀半ば過ぎまで(多くは1960年前後まで)植民地政策を採っていました。
この政策が持つ基幹概念の一つは「先進文化/後進文化」という分け方です。まぁ、一言で言えば「遅れている文化を、わたしたち欧米のような先進文化が開化させてあげる」というものです。
嘘みたいですが、これが、50年ほど前まで全く疑いなく信じられていた価値規範です。
そして、欧米の人がこの「上から目線」で「後進文化」に属する人たちと接する場合、後進文化に属する人たちに先進的な「自国の文化」がどれほど統一的で洗練されているかを説明してあげる必要がありました。ですので、「先進文化」に属する人たちにとって、「自国の文化」の説明は、ある意味、できて当たり前のことだったに違いありません。
逆に言えば、「自国の文化」を説明できない人は、その人が「後進的な文化」に属している人か、または、先進的な文化をよく知らない先進国国民で「ダメな」人だと思われることが多かったと推測できます。

「自国の文化」の説明とは、そういう厄介な歴史を背負ったものだと考えてよいでしょう。


まとめると、以下のようになります。
●「自国の文化」とは国家の主要な文化のことであり、国民国家である以上、その存在は自明なこと(あって当たり前)。
●「自国の文化」の説明は、先進文化に浴する人間であるならば、できて当然。
●「自国の文化」を説明できないような人は、自分たち(=欧米人)とは違うよそ者である。
●よそ者は信頼できない(これは自明の理としてよいでしょう)

というわけで、「なぜ彼らの間で、自国の文化について詳しく知らない人を時として信頼しない、というような文化が形成されたか」という問いへの答えは、以上のように説明できるかなと思います。
ただ、これも、この問いが真であるという前提での答えとなりますので、この問い自体が間違っていたら、その答えも自ずと変わってくるでしょう。


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さて、話は始めに戻ります。

ALL Aboutの彼は、ほぼ間違いなく、「自国の文化」を詳しく説明することは当たり前との欧米人の言説を鵜呑みにしているだけでしょう。できれば、その言説の背後に潜む歴史を慮り、欧米人の言説は彼らの生活習慣が育んだ「現地の」風習の結果でしかなく、もし彼らがそれを他の地域の住人に強要するならば、それは、それこそ50年前の「先進/後進文化」の再現そのままであると、彼には自覚して欲しいですね。


そもそも、今のご時世、日本の文化が何って、決められます?
真面目に言おうとしたら、そりゃあ、大変なことになりますよ。
いいんじゃないかなぁ、別に詳しく知らなくたって。
それに、実際のビジネスの場では、文化の話で話が続かなくなったら、別の、もっと得意な分野の話をすればいいだけですし。