朝の一分。
窓辺で深呼吸をして、巧はノートに三行を書く。
〈今日の“初めて”〉湾岸複合施設・動線の夜間試験
〈誰の歩幅を楽にするか〉清掃スタッフと誘導員
〈仮説〉“微調整の連続こそ、最短航路”
送信音が鳴った。
クライアントからのメールだ。
「VIP内覧、二日繰り上げ。
今夜、一次レビュー希望」。
プロジェクトチャットが一斉に動く。
工程は詰まっている。
機材搬入の遅れ、外装足場の予定変更。
誰かの顔色が曇るのが目に浮かぶ。
巧は即座に返信を打つ。
“10分後に対応案を3パターン共有します”。
――レスポンスは品質。
まずは相手の不安を止める。
それから、こちらの動きを整える。
席に座る前の余白30分で、彼は小さく舵を切るノートを開く。
タイトルは「3Mスキャン」
――無理(Muri)・無駄(Muda)・斑(Mura)。
【無理】今夜の調整員2名→3名に増員(代理店に当日依頼の枠あり)
【無駄】現場移動の往復→無線と動画で遠隔確認に切替
【斑】点灯テストの担当が偏在→A班照度、B班均斉度で役割固定
続けて、目標を一行に絞る。
「平均照度150lx/均斉度0.5以上/動線の“迷い3秒以内”」。
――目標に真っすぐ。
航海・航空は「真っすぐ進む」ために、ずっと微調整している。
風も潮も流れる。
だからこそ、変化し続けることが“直進”になる。
10分後、チャットに資料を投げる。
A:重要エリア集中点灯(見せ場優先)
B:全面最低基準確保(安全優先)
C:ハイブリッド(見せ場8割+動線基準カバー)
クライアントの返信は早かった。
「Cで」。
会議室に移動しながら、巧はチームに声をかける。
「C案で行きます。
いまから“小刻みに真っすぐ”でいきましょう。
10分刻みで修正→確認→反映。役割は貼りました。
同点なら“誰の歩幅が楽か”で決める」
夕方、湾岸の風が強くなる。
仮囲いが鳴き、足場の影が揺れた。
最初の点灯。
通路の角に影が落ち、清掃スタッフがカートで止まる。
“迷い3秒”を過ぎた。
「角のスポット、1ステップ上げ。
足元、誘導灯をハの字に」
A班が調整。
B班が即時測定。
チャットに小さな波形が上がり、均斉度が0.48→0.52へ。
清掃スタッフの歩みは止まらない。
小さな修正を、途切れさせない。
それが直進の技術。
19時。
想定外の連絡が入る。
「外装映り込みでガラス面が眩しい」。
現場へ向かう途中、巧は立ち止まって空を見た。
風向きが変わっている。
海側からの湿り気。
ガラスは夜景を拾って、光が膨らんで見える。
「映り込みは“敵”じゃない。“景色”にする」
彼は一呼吸で方針を切り替える。
見せ場のピンスポットを5度だけ振る。
床の間接を2%落とす。
ガラス際のライトラインを点→線→点のリズムに組み替え、視線を通路側へ誘導する。
テスターが親指を立てる。
ガラスに走った光は、眩しさではなく“導く線”になった。
――変化こそ不変。
正解は固定されていない。
正解に“寄せ続ける”ことが、仕事の質だ。
20時。
VIP一次レビュー。
歩みは止まらず、角の影はやわらぎ、遠景の光は“誘い水”になっている。
クライアントが立ち止まった。
「前より“迷わない”。
何をしたんです?」
「微調整を続けました。
目標に真っすぐ進むために、ずっと曲がり続けたんです」
笑いが起きた。
レビュー後、チームに短い休憩を促す。
自分もベンチに腰掛け、水を飲む。
シャンパンタワーの最上段に少しだけ注ぐ時間。
ポケットのメモ帳には、朝の三行の下に小さな欄が増えている。
〈今日、自分を満たす一口〉水/深呼吸/空を見る
そこへ、一本の電話。
追加の要望――通路の終端にフォトスポットを仕込みたい、と。
普通なら明日以降の検討だ。
でも今夜、風と人流の癖は掴めている。
「今から30分だけください。
“次の一歩”だけ作って、明日仕上げます」
通路の終端に置いたのは、壁の微かな凹みを使った光の“間”。
正面からはわからない。
通り過ぎると、ふっと背後に柔らかい光が灯る。
振り返ると、そこには施設のロゴと日付が浮かぶ。
歩幅を乱さず、立ち止まる余白だけを置く。
クライアントの目が、子どものように丸くなった。
「こういう変化なら、歓迎です」
夜が更け、片付けに入る。
巧は最後に、標準を一枚更新する。
タイトルは「小刻み直進(Micro-True)手順」。
目的を一行(北極星)
3Mスキャン(無理/無駄/斑)
10分サイクル(修正→確認→反映)
同点ルール(誰の歩幅が楽か)
記録(次の標準へ)
送信。
レスポンスは品質。
明日の自分への即レスでもある。
帰り道、海風は冷たくなった。
スマホの画面に、父の言葉がふっと浮かぶ
――「始めが肝心」。
始まりは毎日、何度でもやってくる。
始発のように。
彼は胸のスイッチを、そっと押す。
カチッ。
今日の終わりに、ノートへ二行。
〈感謝〉風と人流が先生だった
〈やめる〉“正解を一発で当てにいく”をやめる
変化こそ不変。
レスポンスは品質。
目標に真っすぐ。
その三本の針が、同じ北を指していることを、彼は確かに感じていた。
塞翁が馬、だからこれで良し。
明日も、微調整を続けて真っすぐ行こう。