ペンは剣よりも強かった
ペンが剣よりも強いのはいつの時代も限られた空間であった
しかしその空間に存在する者たちは部外者を拒絶し
自分たちが理想とする世界に閉じ籠もった
その内と外との抗争は戦前までであるか考えられている
だがその実態は文盲という形で現代にも残っている
剣が広義的に つまりアンチペンに拡大しているのだ
つづく
残酷ということ
時々「死」というものについて考えてしまう
それは生物なら誰でも訪れる終わりの時
早かれ遅かれしなない生物はいない
だが果たして「死」は平等なのか
言い換えよう すべての「死」を同様に受け入れられるのか
個人の経験でいえばそれは『ノー』だった
実祖父が亡くなったこと
実曾祖母がなくなったこと
同時多発テロが起こったこと
すべて誰かが死んでいる しかし私は一度しか悲しんでいない
曾祖母とは一度も会ったことはなかった
テロで亡くなった方は親戚でもない
だから悲しくなかった
彼らの「死」は私を感動させなかった
言ってしまえば他人だったからだ
私は「死」には大きく分けて二つあると思っている
一つは誰かが悲しむ「死」
もう一つは誰も悲しまない「死」
前者は経験していない人がいるかもしれない
後者を経験していない人はいないだろう
ここで私は「死」を評価する基準に“悲しみ“を設けた
理由はすぐに書き記すつもりだがその前に
この後の文章を読むにあたって二つ注意願いたい
私の文章は自己経験から得た直観を一般化しようとしているだけである
ここに書かれた文章はすべて感情的であり無機質である
それではなぜ“悲しみ”なのか
私は“悲しみ”を慈悲だとは思っていない
心の底から湧きあがる愛しさ やるせなさ
「もしあの人が生きていたら」
そう考えさせてやまない心が“悲しみ”だと考えている
悲しい「死」は肉親や友人という縁深い人
悲しくない「死」は赤の他人
自分の知らないところで自分の知らない人が死ぬ
それを悲しむことは無理である
それなら誰も悲しまない「死」は存在するのだろうか
無論存在した
誰も悲しまない「死」は悲しむ人がいない「死」
一つ目は「孤独死」
二つ目は「虐殺死」
そう考えられないだろうか
前者は言うまでもなく「死」の際を見届ける人がいない「死」
おそらく親戚も友人も誰も生きていないか
もしくは誰も彼のことを気にかけていないか
どちらにしろ彼の死を受け入れられる人は
彼の身近には存在しなかった
後者は戦争の歴史に散らばっている
連坐 縁坐 一家殺害 民族虐殺
彼らは自分だけでなく自分の身内までもが
悲しむ時間も与えられず死んでいった
そして誰も残らなかったのだ
おそらくもっとも残酷といわれている行為「虐殺」
それは誰かがそれを悲しんだからではなく
誰もそれを悲しめなかったから
誰一人としてその「死」を受け入れられなかったから
その「死」を知る人がいないから
今もなお争論が絶えない『南京大虐殺』
その中の争点の一つが被害者の数
中国政府と日本政府の主張には大きな開きがある
ここまでの文章を読んでくれたからなら分かるだろうが
それらがともに無意味であることを私は今一度言いたい
人類は数々の戦争で多くの人間を“悲しみ”のない「死」へと追いやった
それが人類の歴史であり後世まで語り継ぎ学ばなければならないことだ
後悔と反省を伴い新たな「死」を防がなければならないのなら
それならばなぜ「虐殺」が許されざるのかということを
漠然とした思想ではなく明確な意志でもって論拠にしなければいけない
以上が私が「死」と残酷ということについて客観的に考えようとしたことだ
無論日本でいまだに未解決となっているあの凄惨な事件も忘れられない
今のところは他人から与えられた「死」についてしか書いていないが
いずれ自らの「死」についてもいろいろ述べたいと思う
御精読ありがとうございました