つづき

 

 

■あらゆる体罰を禁止するのではなく、安全なたたき方を定義したらどうでしょうか?

 

「安全な」たたき方というものは、存在しません。すべてのたたくという行為は、子どもの身体的不可侵性を侵害し、人間としての尊厳を傷つけるものです。多くの研究は、親による軽微な体罰が虐待と称されるような厳しい暴力のリスク要因となることを示しています。それは、前述の通り、自分で考えるより強い力が加わること、そしてその力は徐々に強くなる傾向があることも、研究が明らかにしているのです。 (p.20「子どもを殴ることと愛情を込めてたたくことには大きな違いがあります。体罰の禁止はやりすぎではないですか?」参照 )。

 

かつて、年齢、たたく体の部位、たたくときに使用する道具を決めることによって、容認できるたたき方を定義しようとした国がありました。これらは、子どもへの暴力に対する社会の態度に大きな混乱をもたらすだけでなく、恥ずべき試みとさえ言えるでしょう。女性、高齢者などある特定の人たちに容認される暴力を定義しようとは考えないはずです。暴力から守られる権利は、子どもたちも平等に持つ権利なのです。子どもたちと私たち大人に異なる点があるとすれば、彼らは身体的により小さく、その分、弱さを備え持つ存在であるがために、むしろ大人以上に暴力から保護される権利があるということでしょう。

 

 

■私が信仰している宗教は、体罰を用いるよう求めています。体罰の使用を禁止することは、差別ではないでしょうか?

 

思いやり、平等、正義、非暴力を掲げる世界の主だった宗教にとって、子どもをたたくことがその宗教の教える考え方、価値観、信念に合致することはないでしょう。これらの宗教の信者は、その創始者の教えや人生を規範としています。研究者や神学者は、主流な宗教のどの創始者も子どもをたたいていたことを裏付ける記録は存在しないと強調しています。子どもへの体罰を許す宗教的見解は、概して、子どもを力で支配しようとする権威主義からくるものであるとされています。これは、盲目的服従が徳とされ、「反抗的」とみなされた子どもへの身体的な罰の行使を認めるといった考えに関係すると考えられています。

 

一方、世界の宗教指導者は、子どもの体罰を根絶するための国際運動に参加しています。2006 年に京都で行われた世界宗教者平和会議では、体罰を含む子どもに対するあらゆる暴力を禁止する法律を策定することを各国政府に求める、「子どもへの暴力に取り組む諸宗教の決意表明(京都宣言)」を採択しています。これは、世界の800 人以上の宗教指導者の支持により宣言されたものでした。国連子どもの権利委員会は、一般的意見 8 号において、信仰の自由は「他者の基本的人権や自由を保護する目的に照らし、合法的な制限を受けることがある」と明確に述べています。また、委員会は、「宗教的文書の解釈によっては体罰の使用が正当化されるのみならず、体罰を用いる義務が定められている場合もあるとして、信仰にもとづいて体罰を正当化しようとする者もいる。宗教的信念の自由は、市民的および政治的権利に関する国際規約においてすべての者に認められている(第 18 条)ところであるが、宗教または信念の実践は、他の者の人間の尊厳および身体的不可侵性の尊重と一致するものでなければならない 」としています。

 

 

■なぜこの問題に法律を持ち込むのでしょうか?体罰を使わないように親を支援すればいいのではないでしょうか?

 

体罰やその他の残虐な、または品位を傷つける罰を根絶するには、支援(教育)と法的禁止の両方が必要です。どちらかを選択するということではありません。人権を保障するために、子どもたちには大人と同様の法的保護が必要です。そして、その保護は、家庭内であっても、それ以外の場所でも同じに適用されるものでなければなりません。法律はそれ自体が強力な教育の手段になり得るのですが、法改正は、社会や親や養育者への支援(教育)と相互補完的でなければなりません。法律による禁止が、親や養育者の体罰によらない子育てへの高い関心を抱かせ、また、専門家、政治家、メディアによる体罰によらない子育ての普及や、そのために必要な支援の整備を促し始めるのです。法で認められている行為を止めようとする試みを推進するのはとても難しいことで、戸惑いを生みます。法的禁止がない社会では、「法的に問題がないなら、問題はない」という仮説が成り立ちます。法も同じメッセージを発しているときの方が、親への支援の効果はより高まります。

 

 

 

■ほとんどの体罰が家庭という閉ざされた中で行われているので、完全に禁止することはできません。だとしたら、禁止することに意味はあるのでしょうか?

 

どうせ取り締まることはできないから、家庭内の大人に対する暴力を禁止しなくて良いと言う人はいないでしょう。なぜ、子どもの話になるととたんに、法律による保護が難しくなるのでしょうか。法改正によって体罰を禁止する一番の目的は、子どもを傷つける暴力行為を未然に防止することです。どのような法律も、その第一義的な意図は予防であり、明確な基準を示すことにあります。それらの基準が家庭では適用されないということにはなりません。しかし、家族に関する事柄を法律で禁止することは、慎重である必要もあります。なぜなら、本誌の40ページにあるように、子どもの最善の利益を考慮する必要があるからです。また、体罰の禁止は、親や養育者が暴力によらない子育てへ転換できるよう、情報やサポートを提供する適切なキャンペーンと同時に行われなければなりません。

 

 

 

■親や養育者、教師のストレスが増加しないように、日々の状況が改善するまで、体罰の禁止を見送るべきではないでしょうか?

 

このような主張は、体罰が子どもを教育するためではなく、大人が鬱積した感情を晴らすために行われているのではないかという議論を暗に認めています。たしかに、家庭を含むあらゆる場面で子どもに関わる大人が、より多くの支援を喫緊に必要としているのは事実です。しかしながら、たとえ大人がそのような状況に直面をしていたとしても、子どもをそのはけ口とすることは正当化できません。子どもたちが、大人の置かれている状況が改善されるまで、保護されるのを待つべきではありません。それは、女性たちが暴力から保護されるのを、男性が置かれている状況が改善されるまで待たなくても良いことと同じです。子どもをたたくことは、どのような場合でも、ストレスを軽減することにはなりません。感情に任せてたたいたとき、親は自責の念を抱きます。冷静にたたいたとしても、腹を立て、憤りを覚えた子どもに向き合わなければならないことに気が付くのです。体罰が禁止され、体罰によらない子育てが実践されている家庭や施設では、誰もがストレスの少ない日々を送っています。紛争下にある国では、親や養育者、教師を含めた、子どもに携わる大人が、暴力や屈辱の被害を受けた当時者でもあります。彼らは、子どもの権利を保障することに賛同をしますが、同時に彼ら自身の権利については誰が闘ってくれるのかと問うことがあります。当然、彼ら大人の権利侵害は是正されなければなりません。しかし、大人の権利が保障されるまで子どもたちが待つ必要はありません。すべての人が、尊厳、身体的不可侵性、そして法の下の平等を尊重される権利があり、それは子どもも同じなのです。

 

 

■体罰の禁止は、ヨーロッパを中心とした白人社会の考え方です。体罰は私たちの文化であり、伝統的な子育てです。法的に禁止するのは差別ではないでしょうか?

 

子どもをたたくことが文化であるという考えが認められることはありません。子どもをたたくことは元来白人社会の伝統で、奴隷制度、植民地支配、宣教活動を通じて世界に広まったと考えられています。英国で見られる「合理的な折檻(懲戒)」という弁護は、世界中の国の法律に反映されています。子どもがほとんど、あるいはまったく身体的に罰せられることがない文化は、諸説あるものの、あらゆる文明のなかでもっとも「自然な」、小規模の狩猟採集民族の社会に見られると言われています。ただ、現在はそれらの文化も、都市化やグローバリゼーションの影響によって急速に失われつつあると言われています。

 

しかし、人権は普遍的であり、世界中の子どもたちはあらゆる形態の暴力から守られる権利を持っています。すべての文化は、かつて伝統として認められてきた他の人権侵害と決別したように、体罰にも同様の対応をする責任があります。国連子どもの権利条約は、すべての子どもがあらゆる形態の身体的および精神的な暴力から保護される権利を持つことを謳っています。そしてその保護は、決して人種、文化、伝統、宗教によって差別されないのです。現在、地球上の全大陸において、多くの国が、子どもに対する体罰を終わらせようと動き出しています。学校や司法制度における体罰については、世界中のあらゆる地域で、多くの国が既に法的な禁止を実現しています。

 

 

■子どもをたたくことをやめるのは、なぜこんなに難しいのでしょうか?

 

仮に政治家を含めた大人が、この問題を容易に解決できると捉えていたなら、子どもが大人と同様の、尊厳、身体的不可侵性、法の下の平等を尊重される権利を持っていることを、私たちは、はるか昔に認めることができていたことでしょう。それどころか、とても小さく脆弱な子どもたちが大人よりも手厚く保護される権利があることも認めていたのではないでしょうか。大人が「しつけ」の名目で、子どもをたたいたり、痛みを加えたりすることを「権利」として主張し、それを諦めきれない背景には、いくつかの理由があるようです:

 

i. 自身の経験。ほとんどの人は、子どもの頃に親や養育者からたたかれた経験があります。ほとんどの親や養育者は自分の子どもをたたいたことがあります。私たちの誰もが、親や自らの子育てを悪く思いたくありません。その気持ちが、政治家、オピニオン・リーダー、子どもを守る立場にある人たちまでも含む多くの人々にとって、体罰が平等や人権を脅かす根本的な問題であると認識することを難しくしています。ただ、この問題は誰かを責めても意味がありません。親や養育者は社会の考え方にならった子育てをしてきたのです。しかし、今こそ、子どもと肯定的で非暴力的な関係性を築く時代が到来しています。

 

ii. 大人はしばしば、怒り、ストレス、我慢の限界を超えたことによって子どもをたたきます。多くの大人は心の奥底で、たたくことは「しつけ」をするための理性的な行動というより、その場で起きていることに対する感情的な行動であることを認識しています。このような行動は繰り返されるほど、たたくという行為が手に負えない言動への対処法として確立してしまいます。確立してしまった行動を変えるのは簡単ではありません。しかし、変えることはできます。政府が、体罰によらない、非暴力的な子育てや、子どもの尊厳や身体的不可侵性が尊重される権利に関する公教育や啓発活動へ投資をしていけば、親や養育者は自分たちが良く思わない子どもの言動への対応として、暴力を振るう必要性を感じずに、さまざまな方法を考えていけるようになるでしょう。
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ii. 代わりの方法に関する知識の欠如。法改正は、親、子ども、社会全体を対象とした体罰によらない、非暴力的の子育てに関する支援(教育)活動と同時に行っていく必要があります。

 

 

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