「不眠」というとあたかも「眠る」ことが生物および人間にとって当然の行いであって、
「不眠」というのはなんだかそれに対する病気的レッテルのようである。

確かに多くの人は自然な感じで、それはあたかも無気力の境地へと吸い込まれていくような仕草でもって、
睡眠へと誘われる。

しかし、中には、少数派の人間・生物もいて、「眠る」という行為をとるために必要な手順を忘れてしまうものも存在する。

ふとんに横になって、、、目をつぶって、、、全身の力を抜いて、、、あれ?そのあとどうやったら「眠り」への手続きがはじまるのだろうか???
・・・忘れてしまった。僕は眠りに入り込むための術を忘れてしまった。そんなことがしばしばある。そんな無気力さに陥ってしまうと、全身の疲れからくる眠りへの欲望は行き場所をなくす。それが非常なストレスになる。

強制的に眠るのか、起きて時間を有効活用しようとするのか。
眠りを睡眠薬という他力に頼って為すのか、酒にたよって、一旦その苦しみから退却するのか。
開き直って朝まで読書を決め込むのか。

いずれにしろ、翌日の「仕事」というものがなければ僕達不眠症一族にとっては非常に好都合なのだが、、、
しかし、それは資本制社会に生ける我々にとって、社会構造上許されることの無い宿命である。
なぜなら、私達は労働力として生き、労働力としてのパフォーマンスを期待されているするし、
それが我が生命の生き所を決定する大きな、抗えないファクターであるから。

資本主義という体制の下で生きる労働者。
翌日の7時にははつらつとした気持と表情で職場に出社しなければならない労働者として、
不眠との闘いは生活意識の中の非常に大きな部分を占める。

しかしながら、本当に戦うべくは、不眠症人間を生産している大きな社会的コントラストである。
ずばり、資本主義。
その大きな体制から演繹される、私達一人ひとりがポツネンと立たされている企業社会構造。
これをいかに乗り越えていくか。ひとつの、そして最大の手段は、団結!
できれば同じ悩みを抱える者同士がいいな。不眠症というカテゴリーだけでなく、
資本主義体制の中で苦痛を味わわなければならない全ての労働者たち。「団結せよ!」もとい「手を取り合おう!」

不眠症は問題個人に課せられた病気ではない。一種の社会的コンテクストが生み出す社会的病である。
不眠症は社会全体の問題である。

もちろん、問題は「不眠症」だけではない。
背後に大きな社会的文脈を背負ったひとつの現象として、不眠症がある。

大本へと近づくための切り口は色々なところに転がっているのだ。