本日は、書評を通して、教育について語って参りたいと思います。
茂木健一郎・甲野善紀『響きあう脳と身体』
養老孟司氏の『バカの壁』が発刊されてはや8年が経過しました。
養老氏は本書のことを「『バカの壁』の取扱説明書を書いてもらったようなものだ」とその印象を語っておられますが、説明書が世に出たということは我々が今また、さらに大きな様々の壁に直面しているということでしょうか。
そのような状態にある我々にヒントを提示してくれる本書は、教育に関して示唆的な箇所も散見できます。
“「型」稽古”というものがあります。例えば武道におけるところの各流儀の所作の型、学問でいうところの音読などがそうです。
一般的にはこの「型」を反復練習することでその「型」自体を身につけ完璧にしていくものと思われがちですが、それは誤解なのだといいます。
型稽古とは、実は奥の深いもので、日常的な動きを完全に封じることでさらに上へと飛躍させるよう行われるものだと。「できること」を否定して次の段階に飛躍させる教育法が知恵として結実したのが「型」なのだと甲野氏は説く。
ということで「型」稽古とは、その「型」自体を高めるのが目的なのではなく、論理的説明やマニュアル式教え方では決して到達しえない技へと導くためのものといえるということです。
昔の職人の世界でみられた、まずは掃除や雑用しかやらせず職人技術を手取り足取り教えないことによって、「分かったつもり」にさせないやり方も同じことを語っているのでしょう。
つまり掃除や雑用のレベルを上げろと言っているわけでも掃除をすることで精神性を磨けと言っているわけでもなく、なまじ言葉で説明して分かる程度の技能の次元で終わらせたくないから、職人技を身につけるとはそういうものなのだとその本質に気付くまでは包丁も握らせなければ、鉋も持たせない、というのが職人世界で有効に機能していたやり方であるのを語っています。
『バカの壁』で養老氏が“文武両道”という語に対する誤解に触れていたのを思い出しました。
文武両道とは学問も武芸も共に秀でるという意味で捉えられているが、そうではなく文(入力)と武(出力)が連動しているという意味で昔から使われてきた言葉であり、入力した情報から出力することが次の出力の変化へとつながるという、学習と身体の関係性を捉えた語なのだと述べられていた。
そうしてみると「型」とは文武両道の入力と出力の間をつなぐ補助線的役割を果たしているといえるかもしれない。
入ってきたものをどううまく使うかを、身体的運動と脳内での筋肉運動を型の動きによって制限を掛けることで、飛躍した技として出力することができるのだといえそうです。
「ゆとり教育か詰め込み教育か」答えは両方必要に決まっている、なんて不毛な議論を繰り返しているのだろうと本書は改めて思わせてくれます。
私は教育に関しては素人ですが、本書の知恵をお借りして、“「説明書」の説明書”として教育について思うところを書いてみます。
教授法としては型、例えば音読・書写等は、それ自体を習熟させるのではなく、日常(ありきたり)の動き・思考、を停止させてさらに上の動き・思考を導くために重要なものと認識して身につける必要があるのではないか。
そして、武術において身体の各部位の分節化した動きより発せられる力より複雑に並列した動きの方が強大な力を生みだせるのと同じように、科目を学ぶ上でもより横断的に学んでいくことが重要のように思う。
例えば歴史ならば、古代・中世・近代のように区切らず時代の流れがよく分かる通史として学ぶのがいい。
そして教育全般について、近代の教育法は「脳も身体」であることを無視して行ってきたように思われるが、私たちが意識の上で「分かった」と思うような分かるレベルは所詮低レベルのことなのであり、無意識の領域の身体を動かすことで生まれる知こそ高レベルの知となりえ、「分かる」ということの本来のかたちであると思う。
その身体・脳の動きの入出力を意識して使いこなすことで、次なる出力へ変化を与え、脳は自分から知を欲するようになる、“分かろう”として「分かる」という我々が目指すべき段階の知のあり方が見えてくる。
分かるということを志向して学習する、自由意志において誰にも強制されることなく自発的に分かろうとして分かる、という子を育てるのが究極の理想の教育である。
なぜなら分かろうとして分かるということと、ただ漫然と分かるということは本質的に次元が異なるからであり、ただ詰め込むだけで分かったふりをする人ではなく、脳の随意運動に促されて“分かりたい”と自発的に欲する人になるよう導く手助けが教育に必須といえる。
後段「“分かろう”として分かる」は“わかろうとしないと、わかることにならない”という小説家保坂和志さんの言葉を借りました。
現実には、限られた時間に教育を施すとなると効率は考えないといけないわけで、職人養成塾でもないかぎりそんな非効率な教育はできないので、あくまで理想です。
しかし近年、甲野氏の古武術にとどまらず、かつての丁稚奉公のように住み込みで職人技を身につけさせる木工所など入塾希望者が絶えない事例をみると、“職人教育”が見直されてきているのが感じられ、そういう報告とともに本書は茂木さん流に言うと“知のイノベーション”も可能なのではないかと勇気をもらうものです。
