努力
努力という言葉は嫌いな人が多いという。確かに努力は苦手だというのが一般的だろう。努力は苦い、されどその実は甘い。そんな言葉を聞いたことがある。誰の言葉か、野口英世だっただろうか。彼は努力家だった。だから色々なことを成し遂げた。努力すれば、何でも成し遂げられるなら素晴らしいと思う。でも、努力してもダメなこともある。だけど努力しなければ、と思う。何故なら、努力するとき、そこに神が宿るという噂を聞いたからだ。本当かどうか知らないが、努力は神を引き寄せるという。ならば努力して神を身近に引き寄せたいものだ。 神の御心に適うというのは、努力している者だけの特権なのだろうか。努力しても報われず、心折れる者は沢山いる。それでも努力しなければならないのだろうか。やがて来る幸運の女神を信じて、努力し続けなければならないのだろうか。 努力しなくとも、努力を意識しなくとも、何とかなる方法はないのだろうか。努力が不可避の世界なら、努力の辛さや苦さを軽減する方法はないのだろうか。もし、努力が苦いものでなく、甘いものとなれば、努力は楽しみになるだろう。誰もが努力を楽しむ世界。それは夢物語のような理想郷に過ぎないのだろうか・・・。 でも、もし努力の苦さがなくなったら、努力の価値も無くなるだろう。辛いから誰もが避けるのが努力だから、もし努力が辛くない過程なら、誰もが努力をするだろう。そうなれば、努力は努力でなくなる。それはただの行為であり、努力には値しないものとなる。努力と言う言葉すら不必要となり、努力は死語となってしまう。 努力が要らず、苦労もない世界なら最高なのだが、そういう世界なら、生きている意味と価値はどうなるだろう。苦労なし、努力なし、それでも幸せいっぱいの世界。天国のような夢の世界。しかし、それでは存在の価値はどうなるのか。世界が夢のパラダイスなら、素晴らしいかもしれないが、それでは魂の体験としてはどうなるのだろう。夢うつつの桃源郷の中で魂が磨かれるだろうか。人間はシャンバラやシャングリラのようなユートピアの世界で成長できるだろうか。多分、出来ないから、世界は混沌としているのだ。混沌の中を生きねばならない故に努力も必要なのだ。世界は人間に努力を強いるように設定されている。多分、神々がそのように計画し、立案したのだろう。人間の魂をパラダイスのような世界からの誘惑から護るために。魂が誘惑に負け、これ以上堕落するのを防ぐために。魂が過酷さの中で、嫌でも鍛えられるように。神はこの世を厳しい法が支配する世界に創造したのだ。 つまり、完全なる天国に住むには、まだまだ人間の魂は不完全だということである。完全な世界に住めるのは完全なる魂だけだ。人間の魂は、まだそうなってはいない。だから完全となるまで、努力を強いられる。完全性へ近づくには努力するしかない。遊びほうけて完全なものになることはできない。人間の人生において努力がこれほど不可避なのは、そこに重大な意味と価値があるからなのである。 努力家と言われる人々は素晴らしい資質を持って生まれたのだと思う。努力を厭わないというのは最高の才能だ。努力が必要なことには最初から近づかないという、私のような人間には羨ましいかぎりである。なかには努力が必要な目的を探し、それを実行することに専念するような人生を選択する人もいる。もう十分な財と名誉を手にしたにも関わらずに、更なる努力を己に課す魂。まるで無意識が、努力するために人生は敷かれていると自覚しているかのように・・・。 人間は無意識のレベルから動かされていると、私は思っている。意識的な部分での選択などほとんどなく、初めから無意識の選択に従っている。努力を好むのも、逆に嫌うのも、無意識のレベルですでに決めているのだと思う。子供のころから、努力の好きな子と嫌いな子がいる。我慢強い子と、そうでない子がいる。それが生涯ついて回ることも珍しくない。子供の頃に努力が嫌いな子が、大人になって努力ができる子に成ったとしたら、それだけで魂の偉大な成長ではないか、と私は思っている。それほど努力と魂の成長は密接に結びついている。もし、自分は何の成長もしていないと貴方が感じていたとしても、今日、努力を一つでも出来たなら、間違いなく魂は成長している。そう、努力は決して裏切らない。一歩進めば、元の位置から一歩前進しているのだ。