2013年は2012年12月15日立教の体育会応援団第82代を
立教タッカーホールで見届けたところから始まった
まさか、着信30件超え、メールもけたたましい数を受信してるとは、、、
叔母が劇症肝炎の疑いで緊急入院したとの知らせだった
そんなことは全く想像できず、健康そのものの叔母の印象しかないわたし
のんきに、団祭後池袋でモツ鍋を知人とつついていた
団祭の余韻と、野球部で4年間がんばった元主務の労いの宴だった
携帯を見たのは、終電間近の京王線、忘年会シーズンで混み合った車内
お酒も回って、メールの内容に頭も中も回って
電車でメールを一つ一つ読み、やっと理解できた(テンパッていた)
地元の駅で従妹に電話した
日付が変わっていたかもしれないが、従妹の性格を考えれば電話するべきと判断した
案の定、心配した気持ちが電話からはみ出していた
動いてはいけない、ドクターからの指示などを聞いて翌日、千葉の日医大まで車を走らせた
病室にいた叔母は意外にも元気そうだった
だが、今思うとそこからドンドン蝕まれていくのだが、、、
検査入院をしばらくすることになった、単身赴任の叔父はお正月は帰国しないし
年明けの1月中旬近くに退院した、と同時に手術日も決まった
心配な状況、わりと暗い話題の中、従妹が二人目を身ごもった
明るい、命のバトンを渡すではなく、命を共有する懐妊
検査結果、胆のう摘出手術、2月頭
わたしの母(叔母の姉)、従妹夫婦と長男、従弟、わたしの大所帯で手術当日立ち会った
さまざまな検査結果で予測は付いていたが、胆のうがガンだった
胆のうを摘出し、胆管は残した
幸い、隣り合わせの肝臓に転移はなかった
手術は開けてすぐ縫合したと思える時間、つまりは患部を摘出しただけ
術後の先生の説明も言葉を選び選びだった
胆のうガン、ステージ4
摘出した胆のう見ても、ガンがポツン、ポンツンと多数確認できた
中にも外にも、ガンがあり、絶望的な気持ちになった
先生はそれでも、やりたいことは出来るし、抗がん剤治療もあるし、希望は捨ててはいけないと告げた
従妹たちは泣き崩れた、母に術後の説明をしたわたしも震えていた
麻酔から目が醒めて叔母が確認することをみんなでシミュレーションした
まず、手術時間
叔母が自分では初期のガンで取れば終わりと思っていたので
開けて縫合2時間では、短すぎる、悟ってしまう
4時間くらい、朝8:30オペ室入りだったのでお昼すぎまで掛かったと言うこと
どんな手術をしたのか
胆のう取ったよ、先生が詳しく説明してくれると言うこと
叔父に連絡したかどうか
連絡記録は消すのかどうか などかなり細かく
こんなに長い一日を経験したのは初めてだった
神奈川から千葉へ行くのには、片道2:30
交通費も凄いですが、移動時間と病院と仕事と家事で
わたしの体力も限界を迎えた、、、
右耳を切開するかしないかの中耳炎
リンパ腺が腫れっぱなし、感染はしない、抗生物質投与
体調が落ち着くと、叔母の容態も術後の痛みやら状況が落ち着いた
次の課題は、QOLクオリティ・オブ・ライフをどうあげるかを考えた
従妹弟が母を大切に思う気持ちがぶつかり言い合ったり
険悪になったり、本音をぶつけて泣いて叫んで
静まり返った午後の待合室が修羅場となった
でも、そんなのお構いなしに本音を吐き出した
ドクターから余命3ヶ月を言い渡された、わたしたちに時間はなかった
つづく
手術当日、病院に見舞いに行くたび、特に手術日の月曜日、金曜日は辛かった
病棟には患者と家族が面会に使えるフリースペースがあり
手術を待つ家族はそこで待機する
ある家族が手術時間が長く、心配してるんですと話掛けて来た
手術時間が長いのは治す見込みがある証拠なのでは?
今、闘ってるんですよ、元気出してください!とちょっとムリしたこともあった
どうして、健康に人一倍気を使っていた叔母が、どうして?
誰よりも健康体に見えた叔母がどうして?
何度もそのどうしようもない言葉が反芻された(今も時々)
術後数日経って、胆管にステントを入れた
管をバルーンで膨らませて胆汁を流す作戦
術前に入れた、硬膜外麻酔=相当強い痛み止めはまだ抜いていない
背中の神経と硬膜の間に直接痛み止めを注入
わたしも子宮筋腫核出術、全身麻酔で腹部を手術する方ならほとんど経験する
即効性はあるが、副作用が強いのが難点
この時はまだ痛みが強くベッドに寝たきりだった
ステントを入れて、少しはましになった様子
毎日、LINEで生存確認をしていた
おはよう、それだけの内容だったけど生きて欲しいその願いが込められていた
さらに容態が安定したので、体に入ってた管を抜いた
部屋の中にあるトイレ、普通なら7歩程度に行くにも歩き始めた赤ちゃんのように
この先のQOLクオリティ・オブ・ライフを歩き出す、一歩を踏み出した
2ヶ月近く入院して、やっと退院した
自宅に帰れる嬉しさで叔母は笑顔に溢れていた
叔母が飼っているネコのトロちゃんも嬉しそうに沢山甘えた
だが、叔母が思っているよりも今まで同じ生活は厳しいものだった
叔母の体力は想像以上に落ちていた
母が会津から来てしばらく生活を手伝っていた
母は2年前大きな交通事故で生死を彷徨い目立った後遺症もなく復活した
そんな母のことも心配で、上京する日は仕事のシフトをやり繰りして
上野などに迎え行って千葉へ送った
来る頻度が増えてシフトのやり繰りも厳しくなったので
会津から千葉日医大までのルートを細かくメールで書いた
方向音痴を自覚している母が心配で、正直仕事はそぞろだった
何度か来るようになるとこの電車に乗ってはダメ、こっちが速いなど
電車の乗り方もマスターした
なぜか、母が来ると叔母は高熱を出した
安心なのか、嬉しさなのか、病気のせいなのか
大事を取って入院するスパンが短くなった
抗がん剤治療も始まった
丸山ワクチンを投与している
2泊3日を2週間スパン、1週休んでのパターン
先生に余命を告げられた時間はとっくに過ぎていた
丸山ワクチンのお陰か、顔色がよく、ツヤツヤしていて
さながら、上品な奥様、スリムになって洋服が何でも似合う
痛み止めはモルヒネを服用
痛い時は顔をゆがめ、苦しい様子
夏に予告なしに、成田で飛行機見に来たついでに今から行くねーと
突撃したことがあった、わたしの誕生日
従妹が命を共有するために女児を出産した直後でお祝いもかねて
生きる希望、神様が叔母に与えた生きるための贈り物
沢山笑って欲しい、これもQOLクオリティ・オブ・ライフの大きなポイント
冬にわずらって、春が来て
わたしも役所関係の手続きなどを調べたり
叔父が会社に駆け寄ってしばらく一緒に生活できるようにしてくれたり
親の介護で休む制度はあるけど、妻の介護で休む制度はない
心細い時期に一緒に生活できて、結婚してほとんどの時間を単身赴任離れ離れの夫婦
ケンカしつつも新婚生活のみたいだなって思っていた
しばらくするとまた北京に帰って行った、父と子供たちの約束を決めて
夏が過ぎようとする9月叔父が北京から定年退職に伴い完全帰国となった
わたしたち親子も一安心
母も上京することも減った
つづく